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第15話

 夕食を終え、住人たちと調査を兼ねた雑談に興じ、自室に戻った頃には日はすっかり沈んでいた。それに伴って、キララはエンジンのかかったアメフト選手みたいに自分を持て余しているようだった。


 彼女に影響されたのかどうか知れないが、ぼくも滞在3日目にして落ち着かない気分に支配されていた。


 旅に慣れきったこの身体は、一箇所に留まることを拒否しているかのようだ。住人たちは好意的だし、食事も新鮮な野菜を食べられる。寝床にはベッドが設えられ、温泉にも入ることができる。


 まるでリゾートホテルのような待遇だ。この世界においては破格の生活環境である。


 だというのに、ぼくは放浪の生活を恋しいと思ってしまう。簡素な食事やいつ襲われるとも知れない緊張感。知らない土地を行く新鮮さに、時折鎌首をもたげる望郷の念。そのどれもが味わいのある感覚だった。この集落で得られる安らぎとは異なった種類の代物だ。


 そして何より、とぼくは思った。


 部屋の片隅で煌々としている灯火。旅の途中には愛おしく思えるこの明かりが煩わしい。


 ぼくの不機嫌顔を察知したキララが、ててて、と明かりの前までいって息を吹きかけた。彼女の一息でその光は暗闇に融けていった。どこか懐かしい暗闇の中、少し解放された気分になったぼくはほっと一息ついた。


 キララは部屋の片隅から、ぼくを眺めるともなしに眺め続けた。どこか嬉しそうな顔をしている。ぼくたちに会話はなかったけれど、それは居心地の悪いものではなく、長年寄り添った夫婦が醸し出す空気に似ていた。


「セージ」とキララは言った。「おほしさま、みよう?」


「いい考えだね」とぼくは言った。「ぜひそうしよう」


 ぼくたちは手を繋いで屋上へと向かった。明かりを持たないぼくに、住人が明かりを持たせてくれようとしたけれど、やんわりと辞退した。別に建物から離れるわけでもないから平気だと言って。


 個室の病室からもれる明かりに誘われて、キララは度々室内を覗き見ていた。中で行われている各々の日常を興味深げに観察している。彼女みたいな年齢の頃は、何もかもが新鮮に思えたものだった。ぼくは懐かしい想いに浸りながらも、彼女以外はもう、こんな子供らしい一面を見せてくれることはないのだろうな、と思った。


 屋上に出る。星空は雲のせいで半分程しか見えなかった。それでもキララは嬉しそうにはしゃいだ。その小さな体全体で星空を受け止めようとしているみたいだった。


「キララ」という名の通り、彼女は明かりのない夜空においても煌く存在だった。


 透き通った音色が流れてくる。彼女は両手を広げてくるくると回った。スカートが風に舞い、夜よりも暗い羽ばたきとなって付き従う。シューマンの「トロイメライ」を口ずさむ彼女は、そのまま月の世界に帰ってしまうのではないかとぼくに幻想を抱かせた。


 ぼくは目をつむり、更に深い暗闇を楽しんだ。やはり夜は暗いものでなくてはならないのだ。無理に灯火を点ける必要はない。それこそ自然に反する行為だからだ。


 太陽はなく、灯火がなくとも、星の煌きがある。その小さな星光は、果てしない時間をかけて地球までやってきた客人なのだ。それを無視するなんて無礼も過ぎるというものである。


 中には、すでに命を終えた星の光もあるかもしれない。ぼくたちはその見届け人なのだ。遥か彼方で死に絶えた星が最後に放った命の煌き。きっと彼らから地球は見えないのだろうけれど、地球からはしっかりと見つけられる。


 星々が仰ぐ夜空に、地球は煌めいてはいない。それは何だか酷く悲しいことだった。惑星の悲しき定めだった。太陽を照り返す光はか弱過ぎるのだ。圧倒的な暗闇が支配する宇宙では、地球の光は無にも等しい。


「地球は青かった」と我々以外の存在が口にしてくれることはあるのだろうか。我々が星々を美しく思うように、彼らも地球を美しいと思ってくれることを祈った。


 キララの舞いを眺めていると、以前に神社で見かけた巫女舞いを思い出す。装いや目的は異なるはずなのに、それらは意味の重なりを思わせた。醸し出される空気、静謐な所作、示し合わせたように共通点が見受けられる。


 ぼくは呆けたように彼女の舞いを眺める。どこか置いてけぼりにされた気分で。


 自分から遠く離れた台上で彼女は舞っているようだった。ぼくからは手の届かない台上だ。距離的なものにしろ、精神的なものにしろ、湯田セイジという存在をかたく拒絶した世界だった。ぼくはただ眺めることしかできない。声援を送ることも、舞い終わった彼女をエスコートすることもできない。


 取り残されたぼくは、所在なげに台上の彼女を見上げるしかないのだ。


 なぜこんなにも悲しい気持ちになるのか理解できなかった。ぼくは内心の憂鬱を悟られないように表情に笑みを浮かべたままロックする。大の大人の勝手なネガティブ思考に、キララを巻き込むわけにはいかなかった。


 幸い、彼女は星空に夢中なようで、ぼくの陰気な空気には気づいていないようだった。あるいは、気づきながらも気づいていない振りをしてくれているようだった。


 ぼくは入り口傍の壁に寄りかかって腕を組む。キララの唄声だけを感じようと視界を遮断すると、どこまでも続く暗闇が目の前に現れた。星の光さえもない、完全な暗闇だった。


 人は暗闇を本能的に恐れる性質を持っているそうだ。だが考えてみるとおかしな話だった。誰であっても、夜に眠る時は目をつむり、完全な暗闇に身を委ねるではないか。それは周囲の何もかもが見えない、完全な暗闇である。


 薄暗い、よく見渡せない。そんな程度の闇を恐れ、眠りにつく前の完全な闇を自然と受け入れている。おかしな話ではないか。


 ぼくは暗闇が嫌いではない。むしろ好ましく思っている。星空の下の闇も、目をつむった時に訪れる完全な闇も、どちらも共に愛おしい。ぞくぞくとした怖気と共に感じられる抱擁感は心底ぼくを穏やかにしてくれる。恐ろしくもあり、優しくもある。闇という概念の本質を表しているとぼくは思った。


 耳元でドアの開く音がした。


 静かな一時に水を差されたぼくは少々不機嫌になった。その妨害主に非難の目を向ける。スミレはやや気まずそうに口を開いた。


「お邪魔だったかしら」


「……ぼくの口からは何とも」


 腕を組んで壁に寄りかかった体勢のまま答えた。ちょっと大人気なかったかもしれない。いくら心安らぐ団欒を邪魔されたとはいえ、彼女に過失はなかった。誰も来ないでくれと言い含めてなかったぼくも悪い。


「ごめん、別に大丈夫だよ。何か用かな?」


 口調を柔らかくしたぼくに、彼女は安心したようで、「ううん、部屋に行ったら姿が見えなかったものだから、きっと屋上にいると思って訪ねてみただけよ」と一気に述べる。


 ぼくたちの変人っぷりは、もう彼女の中では常識になりつつあるようである。


「あなたとはもっと親しくなりたかったし……」


「もっと親しく?」とぼくは反芻する。


「ええ。もっと親しく」と彼女は答えた。


 身体を寄せてくる彼女の行動に、やはりこう来たか、とぼくは思った。昼間の温泉でその徴候は見え隠れしていたものだから、今こうしてしだれかかられても驚きはしない。


 彼女には彼女なりの義務とか役割があるのだろう。集落を束ねるリーダーの責任は重い。それこそ自分の身体を交渉の道具として扱わなければならない程度には。


 だから自分を安売りするなとか、もっと自分を大切にしろという説教を言うつもりはなかった。そんな道徳を説ける時代はすでに終焉を迎えているのだ。


 ぼくはだんまりを決め込み、しばらくスミレと見つめ合った。


 彼女は昼間に湯浴みを済ませているし、僅かな星光の下で彼女の黒髪は幻想的な色合いを帯びていた。程良く日焼けした意志の強そうな顔は、綺麗より凛々しいという表現が適切だろう。


 妹のナズナもそうだが、彼女はとても魅力的な女性だった。ぼくが思うに、二十歳を過ぎた頃が一番女性の輝く時期ではないだろうか。ある程度こなれた安定感がある。すれ過ぎていてもいただけないけれど、この年齢の女性は、若さと狡猾さを併せ持った魅力がある。


 と、ぼくがスミレに強く惹かれていることを長々と独白したのには意味があった。己の内心を客観視することにより、彼女の魔力に囚われないよう自戒するためだった。


「わたしと寝るのは嫌?」とスミレは言った。


「嫌じゃないよ。でもそれはできない」とぼくは言った。「気を悪くしないで聞いて欲しい。君は確かに魅力的だし、君のそうせざるを得ない立場も理解してる。でも、君と同様に、ぼくにも立場ってものがあるんだ。きっと君の立っている『集落のリーダー』という立場と同じか、それ以上に責任ある立場なんだ」


 ぼくの答えを、スミレは口を挟まずに聞いてくれた。単なる言い逃れではなく、あくま真摯な回答なのだと理解してくれているようだった。その聡明さにぼくは感謝した。話を聞かない人間は、やんわりと拒絶したところで効果はないのだ。その手の輩を相手にするのは非常に疲れる。


「ぼくはキララの親代わりなんだ。だから娘の前で、ふしだらな姿は見せられない」


 スミレは笑った。思いがけないぼくの言葉がツボにはまった様子だった。


「ちゃんと父親をしているのね。でも、一日だけ他の人間に預って貰うことはできるでしょ? 例えばナズナなんかに。妹なら、キララちゃんも安心するんじゃないかしら」


「かもしれないね」とぼくは少し考えて言った。


 この手の「接待」は初めてではない。今まで訪れた集落でも、毎回誘われている。しかしながら、それに応じたことはなかった。


 思い返せば旅を初めて間もない頃、ぼくが初めて「接待」された時に遡る。その頃のぼくはキララとどう接するか決めかねていたし、アカリが目の前で死んてしまったショックで精神的にも調子を崩していた。


 人間、そういう時は人肌が恋しくなるものだ。逃避だと理解していても、身体は女を求めるのだから仕方がない。これは意志の力でどうにかなるものではなかった。


 大して考えもせず「接待」に飛びついたぼくは、誘う側からすればちょろい相手だっただろう。お互い服を脱ぎ捨て、ベッドの上でさあ準備万端というところまで非常にスムーズに進んだわけだ。


 そして女性の胸元に口を寄せ、愛撫に取りかかった。ちょうどその瞬間だ。


 視界の先に、預けたはずのキララがいたのだ。


「びっくりしたね」とぼくは言った。「これから使うはずのものが使い物にならなくなるくらいに」


 ぼくの昔語りはスミレに好評らしく、目を輝かせて聞き入っている。案外こういった話が好物なのかもしれない。人は見かけによらないのだった。


 当時の驚愕は今でも鮮明に思い出せる。「接待」のために、他の住人に世話を頼んでいたはずのキララはいつの間に抜け出して、ぼくのいる部屋までやってきていたのだった。いつもと同じように、部屋の片隅にひっそりと。


 生娘みたいに悲鳴を上げてベッドから転げ落ちたぼくを、相手の女性は困惑と軽蔑の目で見ていたのを思い出す。だって驚くだろ? 驚かない方がどうかしてるよ。


 ぼくに続いてキララに気づいた女性も驚いて、それから「どうしてここにいるの?」と彼女に訊ねた。


 その質問には答えず、キララは逆に質問を返した。そう、その台詞はあまりにも開けっぴろげで単純明快な問いだった。故に答えられなかった。


 キララは言った。


『セージ。これから―――――こうびするの?』


 当時と似たような沈黙が訪れた。ぼくの痛々しい心地はよくわかって貰えると思う。これは母親にエロ本を見つかった時と比べるべくもない。初めての彼女との行為中に兄弟が部屋に入ってきた時と比べ物にならない。


 成り行きとはいえ、ぼくはキララをしっかりと育て上げるつもりだったし、父親然としてあろうと思っていた。それを粉々にするくらいショッキングな出来事だった。


 スミレは何とも言えない表情になっている。ぼくの心境を慮ってくれているのかもしれない。


 キララの問いに、ぼくはすぐ答えられなかった。イエスと言うのが正直な回答だったのだろうけれども、ぼくにとって正直は敵だった。ごまかしの嘘の方が正義だった。味方だった。


 ぼくは言った。


『マッサージをして貰おうとしていたんだよ。いわゆる【裸の付き合い】ってヤツさ』


 何を言っているのだろう。自分でも訳がわからなかった。相手の女性は興が削がれたようで退出してしまった。素っ裸でひとりぽつんと残されたぼくは心も身体も寒々しかった。


 なぜだか涙が出そうになるぼくを尻目に、キララは脱ぎ散らかされていたぼくの服を集め、「セージ、ふく」と言った。ぼくは言われるがままに服を着た。張り付く感触は嫌に冷たく感じた。


 生まれたままの姿から文明人に戻ると、キララは満足したようだった。そしてベッドに潜り込み、ぼくを誘った。


『さびしくないように、いっしょにねてあげる』


 そんなこんなで、ぼくは「接待」を受け損なって、それ以来、集落を訪れるたびに誘われるのを遠慮し続けているのだった。何とも締まらない話ではあるが、どこか救われた気分になったのも事実だった。


「―――――というお話でした。めでたしめでたし」


 昔語りが終わったぼくは無理矢理にそう締めた。自分の黒歴史を晒しているようで居心地が悪かった。できることなら、こんな己の恥部を晒す真似はしたくなかったものの、なぜかスミレには言っておかなければという気になったのだった。


「事情はわかったわ」とスミレは笑いながら目尻に涙を浮かべて、「あなたも苦労してるのね」


「父親代わりとしては当たり前のことさ」


「でも、ちゃんとキララちゃんのことを考えてあげてるじゃない。それはきっと誇ってもいいと思う」


「そうかな」とぼくは言った。


「きっとそうよ」と彼女は言った。


 ぼくは素直に嬉しく思った。キララの父親代わりとしてうまくやれているのか、自分でも自信がなかった。だからスミレの忌憚のない意見は、ぼくの胸の中に落ちてほんのりとした熱を放った。


 ぼくを褒めてくれるような年上の人間はいなくなっていたし、ぼく自身、捻くれているから他人の賛辞を素直に受け取ることが少ない。けれどもスミレの言葉はまるで朝露のようにぼくの身体に染み渡った。


「ねえ、セイジ。わたしの話も聞いてくれる?」


「もちろん」


 ぼくは顔を彼女の方へ向けた。闇化粧は彼女のすっきりとした顔立ちを際立たせている。ところどころに僅かな影ができていて、モノクロの肖像はぼくにため息をつかせる憂いを帯びていた。


 過去を思い出すように顎を上向けた彼女は、ぽつりぽつりと話し始めた。


「お父さんが生きていた頃、懇意にしていた<キャラバン>があったの。その人たちはお世辞にも性格のいい人たちじゃなかったけど、取り引きはしっかりとしていたから、お父さんともうまくやっていたわ。でも交渉役だったお父さんが死んでしまってから、彼らは態度を硬化させた。わたしみたいな小娘が相手だったから仕方のないことなのかもしれないけどね」


 彼女は己の過去を回顧しながら語っている。ぼくが集落に訪れた当初、異様に頑ななだった理由がこの話に含まれているのだろう。彼女がそれを語ってくれるということは、ぼくを信頼してくれている証拠だった。


「お父さんが生きているうちは、わたしとナズナは保護されていた。特別扱いされていたのよ。男たちの夜の相手だって、わたしたちではなくても、別の人がしてくれていた。本当、馬鹿みたいよね。ずっと気づいてなかったんだから」彼女は髪をかき上げて、「だから率直に言われた時は、何を言っているのか理解できなかった。きっと脳は理解してたんだろうけど、心がわからない振りをしていたの。別に特別なことじゃなかったのにね。こんな世界だもの、使えるものは何でも使わなきゃならなかった。それは自分の身体だって例外じゃなかったのよ」


 独白は続く。ぼくは相槌を打ちながら、彼女の話の続きを待った。


「相手の男は当たり前みたいにわたしを組み敷いたわ。目の前の女を犯すことに何の疑問もなかったのね。わたしは人間扱いされてないことを悟った。男にとって都合のいい性処理道具にしか思われてなかったのよ。―――――我慢ならなかった」


 だが言葉とは裏腹に、彼女は怨恨というよりは後悔の色をにじませていた。女性としては正しい感情であることは否定できない。しかし一方で、集落のリーダーとしては相応しくないものだった。とても遺憾なことに。


 華々しく描かれがちである自己犠牲も、時と場合によってはこんなにも醜悪でなければならない。それはあまりにも不条理だった。「仕方ない」「まだマシな方だ」そんな言葉で済まされてしまう世界が目の前に転がっていた。


「散々暴れて、相手の男を引っぱたいて、自分でも呆れるくらい泣き喚いたわ。茂野さんも駆けつけてくれた。<キャラバン>の男たちは集落から追い出された。それっきりよ。わたしたちの集落は、彼らのルートから外された。情報も入ってこなくなって、物資も手に入らなくなった。頼れるのは自分たちだけになった」


 そのおかげで自給自足体制が整ったのだから、不幸中の幸いではないか、とぼくは思った。スミレの反抗は避難されることではない。少なくとも、自分の身可愛さに抵抗するのは人間として当たり前のことだ。諦め、受け入れることのできる人間がいたとしても、そいつが褒められるわけでもないのだ。抵抗するか、諦めるかは、きっと覚悟とか信念とかいう前に人間性の問題だろうから。良い、悪いで判断できるものではないのだ。


「みんなは慰めてくれたり励ましてくれたりしたけど、わたしの失敗であるのは明らかだった。せっかくお父さんから受け継いだ財産のひとつをわたしは壊してしまったのよ。それが不可抗力だったとしても、失態であることには違いはない。後悔したわ。若かった、なんて台詞は笑っちゃうわよね。そんな昔のことでもないのだし」


 後悔を語るたび、彼女は小さくなって見えた。責任感の強い女性だから、余計に当時の失敗を根に持っていたのだろう。隔絶された世界だとはいえ、<キャラバン>がもたらす情報や物資の価値は計り知れない。


 先のない状況だからこそ、日々の生活には彩りが欠かせないのだ。他の集落の情報、腹を膨らませるだけでない嗜好品。それらは灰色の世界では黄金よりも価値を持つ。


 その重要な提供元を失った損失は小さくはなかっただろう。だが誰も彼女を責めなかった。それがかえって彼女に自責の念を募らせることになったのだから皮肉なものだった。


「だから今度は失敗しないって誓ったのよ。もう誰もここを訪れることはないのかもしれないって思ってたけど、万に一つ、その人たちがやって来たら、汚名を返上してやろうってね」


「ぼくは適任じゃなかったみたいだね」とぼくは口を開いた。


 スミレは憂いの表情を消して口元を緩めた。「その通りね。あなたが来た時、ついにこの日がやって来たと覚悟してたんだけど、それは無駄になっちゃったわね」


「申し訳ない、と言った方がいいのかな?」


「その必要はないわよ。だってわたし、来てくれたのがあなたでよかったと思っているもの」


「それは光栄だよ」


 ぼくはスミレに笑い返した。こうしたやり取りをできる女性はなかなかいない。気の許せる相手を見つけるのが非常に困難になった中で、彼女のような真っ直ぐな人は得難い人物だった。


「出会ってまだ間もないけど、あなたは嫌いじゃないわ。妹を助けてくれたし、わたしにも優しくしてくれるしね」


 熱のこもった彼女の視線に、ぼくは首を傾げた。ナズナを助け、送り返したのは思惑があってのことだったし、別にスミレに対して特別優しくした覚えはない。一体いつのことを言っているのか見当がつかなかった。


 訊ねようと見ると、彼女は顔を俯かせていた。ぼくは近寄って肩を抱いた。自然な行動だった。ぼくは自発的に女性を慰めようとするタイプではなかったはずだ。ならばどうして無意識的にこんな真似をしてしまったのだろう?


 潤んだ瞳に囚われたぼくは、ゆっくりと彼女に口付けた。彼女は身体の力を抜いてぼくを受け入れてくれた。久しく感じていなかった女性の唇の感触は、ぼくの頭をかき乱した。不思議と情欲は感じなかった。ただひたすらに彼女を求めることしか頭にはなかった。


 長い口付けが終わる。ぼくはいつの間にか彼女の肩を堅く握ってしまっていた。彼女はぼくの胸元に手を添えていたが、離れようとしたぼくの襟元を掴んでもう一度引き寄せた。


 小さく声がもれる。彼女の堪えるような音色はぼくを喜ばせた。いつまでもこうしていたいと思った。ずっと彼女の唇に触れていられたら、どんなに素晴らしいことなのだろうかと思った。


 やがてぼくたちは再びわかたれる。喘ぐように空気を呑み込んだ。ぼくたちは互いを見つめ合ったまま、どこか呆けたように言葉を失っていた。


 このまま放っておかれたら、きっといつまでも離れられなかったに違いなかったが、その場にいたのはぼくとスミレだけではなかった。やけに寒々しい空気が流れてくる。その発生源たるキララは、ぼくとスミレのすぐ隣で口を横一文字にして仁王立ちしていた。


「ずるい」とキララは言った。「わたしもする」


「ちょ、ちょっと待って。とにかく落ち着くんだ、キララ。君は今とても混乱している。きっと正常な判断を下せていないんだ」


 ぼくのシャツを引っ掴んで顔を引き寄せようとする彼女を何とか落ち着かせようと試みる。ぼくの胸元くらいしかない身長だから、彼女は懸命に背伸びをして目標に近づこうとしていた。


 スミレに助けを求めるも、彼女は魂が抜けたように放心していて使い物にならない。孤立無援だ!


「……わたしもするの」


「ストップ、ストップ! あれは駄目なんだ。ぼくとはできないんだ」


 その言葉に、「どうして?」という非難めいた視線を寄越してくる。彼女はきっとコミュニケーションの一環としてしようとしているのだろうけれど、ここで間違いを犯してしまっては、彼女の未来の恋人くんに申し訳が立たない。


 何としてでも彼女の唇を死守しなければならなかった。


 ……? とてつもなく違和感のある台詞だが、現状を端的に言い表せる言葉を持ちあわせていないから仕方がない。


「今のはね、キスは―――――好きな人とするものなんだ」


「すきな、ひと?」とキララは繰り返した。


「そうだよ。だから誰彼構わずにしちゃいけないんだ」


 ぼくの言葉を受け取ったキララは、しばらく考え込んで、その表情を曇らせた。


「セージはわたしのこと、きらいなの?」


「大好きだよ」


 きっぱり。


 こればっかりはもう、自信を持って断言できることだ。誰だキララを悲しませたヤツは。ただじゃおかないぞ! と、鼻息荒く威嚇をするも、その場にいるのは当事者だけであるから意味はない。もしもそれが向かうとしたら、ぼく以外の誰でもなかった。


「……なら、いいよね?」とほのかな微笑でキララは言う。


「確かに! 三段論法からすれば導かれても仕方のないことだけども! 駄目なんだよ、キララ。わかって欲しい。ぼくは別に君が嫌いだからこんなことを言っているわけじゃないんだ。むしろ君が大好きだから言っているんだ」


 わからない、と彼女はまぶたを下げた。戸惑いがこちらまで伝わってくる。このまま屁理屈を言う湯田セイジを張り倒して、彼女を慰めてやりたかった。


 でもそういうわけにはいかない。ぼくは彼女の保護者なのだ。大事なこと、伝えるべきことを責任を持って教えなければならない。それは彼女を育てると決めた時から背負った宿命だった。自身との約束だった。


「よく聞いて、キララ。きっと君はこれから大きくなるにつれて、好きな人が出来ると思う。ライクじゃなくて、ラヴな人だ。今はわからなくても仕方がない。でもきっといつかわかる時が来る。君が大人になった時にね」


「……おとな」


 口からよくもまあ、こんな言葉がいけしゃあしゃあと出てくるものだ、とぼくは思った。誰よりも大人になれていないのは、他でもないぼく自身ではないか。きっと彼女に高説振る資格などないのだ。だがこの場は見逃して欲しい。嘘つきを許して欲しい。


「なら」と彼女は振り絞るように、「わたしがおとなになったら、すきなひととしていいの?」


「そうだね」とぼくは答えた。「キララが本当に好きで、その相手も君を好きでいてくれたなら、きっと大丈夫だと思うよ」


 ひとまず納得したようで、キララはこくりと小さく頷いた。何とも焦った。まさか彼女がこんなことを言い出すとは思いもしなかった。驚きと同時に嬉しくもあるが、少々心臓に悪い出来事だったかもしれない。


 彼女の存在を忘れて、スミレとしけ込んだ報いだったのかもしれないな、とぼくは反省する。直前に失敗談を話したばかりだというのに、再び同じ轍を踏むところだった。というか、半分程踏んでしまったのだが。


 まあ、いずれにせよ、キララの純情は守られたのだからよしとしよう。まだ見ぬキララの恋人は、ぼくに感謝して欲しいね。彼女から初キッスがおっさんだと聞かされたらトラウマになること間違いなしだっただろうし。


 やれやれだ。


 ぽけー、と心ここにあらずのふたりが視界に入る。ぼくはどうやら、彼女たちを部屋に送り届けなければならないようだ。送り狼もいい迷惑である。


「さて、お嬢さん方。おねむの時間ですよ」


 肩を竦めながら、ぼくは言ったのだった。

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