第14話
入り口付近に女の子たちが集まっている。彼女たちは皆一様にご機嫌の様子だ。手にはタオルを垂らしている。我々に気づいたひとりが駆け寄ってきて、ナズナの耳に口を寄せ、内緒話をしている。
グループになって雑談をしている中には、食堂のおさげ少女も混じっていた。こちらに気づいた彼女がぺこりと控え目なお辞儀をする。ぼくは手を上げて答えた。
そのやり取りを観察していた友人らしい女の子が、彼女に絡んでちょっかいを出していた。頬を赤くして弁明しているらしい少女は、苦笑してその口撃から逃げようとしていた。
まるで学校生活のヒトコマのようだ。ぼくの場合は男友達とのくだらない記憶ばかりであったけれど、今になって思い出されるそれらは、どれも大切なものだった。彼ら友人には、二度と会うことはないのだろう。戯れる少女たちの姿に、若き日の自分が重なって見えた。
戻ってきたナズナは事情を説明してくれた。彼女たちはこれから温泉に入りに行くのだという。自然に湧く温泉は温度調整やら何やらで男手がいるらしく、その役目にぼくを指名したいのだそうだ。
「ついでに一緒に入りましょうよ」とナズナは言った。うんうん、と女の子たちが頷いた。
女所帯であるせいだろうし、こんな世界になってしまってからは、かつてより考え方が大らかになった傾向がある。集落は文字通り一蓮托生の関係である上、娯楽の少ないこの世界でやることなど決まっている。
そんなこんなで、混浴くらいは当たり前だという風潮が彼女たちにはあるらしかった。軍隊生活で男女ともに生活するのと似ているかもしれない。裸体を晒すことくらい気にもかけないのだ。
「女性からの誘いを断るのはマナー違反じゃないかしら」と背後からかかった声に振り向くと、タオルを肩から下げたスミレが不敵な笑みを浮かべていた。
「いや、彼女たちも年頃のレディだろ? ぼくみたいなおじさんと一緒に湯に浸かるのは嫌じゃないかと思ってね」
「そんなことないわよね?」
スミレの言葉に、ナズナを筆頭とした女の子たちが同意する。タイミングよく現れたスミレといい、駆け引きはすでに始まっているらしかった。ここで主導権を奪われると、後々に痛いしっぺ返しをくらうことになるだろう。
この集落に限らず、訪れる<キャラバン>には、こうした「接待」が頻繁に行われる。昔からハニートラップというものがあるように、女性たちは己の身を交渉の武器にする。男なんかよりもずっと強かだ。
うまく引っ掛かり、相手が骨抜きになればそれでいいし、もしも釣れなくとも接待をしたという事実は残る。言わばツケの状態である。<キャラバン>をしている連中はそれをよくわかっているので、こうした誘いには慎重にならざるを得ない。
……何が悲しくて、こんなピンクイベントを警戒しなければならないのだろう。頭を真っ白にして、誘いに乗ってみたいという欲求がないこともない。しかしながら、ひとりでならば流されていたであろう場面にも、ぼくにはちゃんとストッパー役がいるのだった。
「もちろん、この子たちが乱暴されないようにわたしが監視役を務めさせて貰うわ。それなら構わないでしょ?」
「どういう意味の『それなら』なのか知らないけど、わかったよ。お誘いを受けさせて貰うよ。正直、温泉に入れるのを楽しみにしてたわけだし」
なるほど、温泉は重要な小道具だから今日まで引き伸ばしていたのかもしれない。自慢気に温泉の存在を匂わせていた割には、連れて行ってくれないのはこのためだったわけだ。なかなかやるではないか。
……すっごく温泉入りたいぞ!
何だか小難しいことを考えるのが億劫になってきた。早く湯に浸かりたいものだ。一応川が近くにあるので、身体を拭くのに不便はしないものの、日本人たるもの湯に浸からずしてどうしようか。風呂好きにかけては、ローマ人ともいい勝負ができそうである。
ぼくたちは嬉しそうに前を行くナズナたちを追って温泉まで向かう。この間降りた小川に沿って下流に行くと温泉はあるらしく、温度が高いので川の水を引きこんで調整しなければならないらしい。
それなりに手間がかかるらしく、毎日の仕事に忙しい彼女たちは頻繁に入ることはできないのだそうだ。
確かに、日々の農作業でくたくたになった後、温泉のためだとはいえ再び労働するのは気が引けるだろう。それに日が落ちれば外に出ていられなくなるから、入浴できるのは昼間の内に限られる。昼間といえば、農作業の真っ最中である。
こうしてゆっくりと温泉を楽しめるのは、ローテーションで組まれた早引き組なのだと言う。一斉に抜けられると困るので、順番に温泉に入れる組を決めておく。それを楽しみに仕事も頑張れるという寸法だった。
今日はぼくのためであるのか、男はぼくひとりだった。嬉しいような恐ろしいような。蜘蛛の巣にからめ捕られたコオロギになった気分だった。あるいはタカに狙われたウサギの気分だった。
まあいずれにせよ、気分転換にはもってこいかもしれない。さっきまで湿っぽい場所にいたのだ。それを水に流すためにも、温泉はいい清めになる。
しばらくすると、小川に隣接するように岩で囲まれた温泉が現れた。初めからあった場所に人の手が入れられている。スミレの話では、ここの温泉が治療に用いられていたらしい。
試しに手を入れてみると、確かに熱い。今は夏だから余計にそう感じさせるのかもしれない。川の水を引き込んで適温まで下げなければならないだろう。
その大役を任された身であるぼくは、さっさと服を脱ぎ捨てた。さすがにパンツを脱ぐ時は羞恥心を感じないわけでもなかったけれど、いい歳した男が子供みたいに恥ずかしがっているなんて男が廃る。
なぜかガン見してくる女性群を威嚇しつつ、ぼくはパンツをパージした。温泉側から回ると熱いので、川方面から目的の位置に向かう。スミレに示された上流側の岩は一抱えもあって、なるほど、女性だけでは対応できそうもなかった。
ぼくももう若くはない。ぎっくり腰なんて笑えない冗談なので、慎重に腰を下ろして岩を持ち上げる。水中に半ば没していることもあって、予想よりか楽に持ち上げられた。
川の水を引き込んでいる間、温度をスミレに見て貰っている。気の早い女の子たちは、すでに準備万端である。つまりは服を脱ぎ捨てている。先程ガン見されたお返しにぼくも力の限りねめまわすように視姦してやろうと思ったのだが、それも大人気ないと思いチラ見で許してあげることにした。
ぼくも何だかんだ言って男である。嬉しくないわけがない。それを顔に出して喜べる程若くはないだけだった。
スミレの合図で岩を元の位置に戻す。川の水で冷えた下半身を温泉に移すと、得も言われぬ幸福感に満たされた。夏場であっても温泉の心地よさはいかんなく発揮されているようだった。
岸辺に戻ったぼくはキララの服を脱がせてやった。んー、と目をつむって万歳する彼女に、もういいよ、と合図して手を引いてやる。見慣れぬ温泉に腰が引け気味だった。
足をつけるとびっくりしてぼくにしがみつく。
「大丈夫だよ。お風呂みたいなものだから」
それでも入りたがらない彼女に苦笑して、抱き抱える格好で温泉に浸かった。身体を芯から解きほぐすような開放感があった。遙か昔に置き忘れてしまった幸福感だ。そのまま溶け出して温泉の一部になれたら、それは素晴らしいことに違いない。
極楽気分のぼくにコアラよろしく引っ付いていたキララも、ようやく慣れてきたらしく、恐る恐るぼくから降り立った。足の付くことを確認すると、隣のぼくを真似して同じポーズで湯に身を委ねた。
「どう? なかなかのものでしょ」とぼくのすぐ隣に入ったスミレが言った。「生きててよかったぁって気分にならない?」
「なるね」とぼくは言った。
キララの存在のおかげで、未成年者お断りの事態に発展することは避けられそうだった。和気藹々とした雰囲気である。スミレと肩を並べてナズナがいるし、彼女の周りには女の子たちが集まっている。おさげの少女は髪を結い上げて、おさげの少女ではなくなっていた。
川のせせらぎを聞きながらの温泉は非常に乙なものだった。それに眼福な光景が目の前に広がっているとなれば、ここはどこの桃源郷かと言いたくなってくる。
「他の所には、こんないい場所なんてないと思いますよ」とナズナは言った。
ぼくは同意した。日頃の飲料水にも事欠く集落が殆どなのだ。こんな贅沢が許されるのはここくらいだろう。
いつの間にか、彼女たちに囲まれていることに気づいたぼくは退路が絶たれたことを悟った。温泉の心地にやられて昇天している間に逃げ道を失くすとは何たる失態……!
ぼくはアルカイックスマイルを心がけて紳士を気取ろうと奮闘する。キララの手前、情けない姿は見せられない。
というか、お子様がいるのもお構いなしに仕掛けてくるのはルール違反ではなかろうか。
ぼくの内心の同様を見て取ったスミレは、一気に攻勢に出た。何気ない動作で距離を詰め、ぼくの腕に押し当てたのである。何を当てられたのかは敢えて言うまい。時には想像力にかきたてる方が都合のいい場合があるのだ。
ノリがいいのか悪ふざけが過ぎているのか、妹も同様の戦法で攻めてくるものだから、戦場は混乱の様子をきたし始めた。女の子たちが押し合いへし合いポジション取りに躍起になり始めたのである。
キララも子猫が毛を逆立てるみたいに威嚇して追い払おうとしているのだが、生憎歴戦の先輩たちには効き目もないらしかった。逆に「可愛い!」となで回される始末である。涙目になってぼくにしがみついてくるキララは確かに可愛らしい。
男なら泣いて喜ぶ状況に置かれているのにも関わらず、一向に気の休まらないのはどうしたことだろう。実に不可思議だった。
スミレにナズナ、それからおさげ少女(変形済み)を筆頭とした女性陣に侍られている三十路男。そんな不届き者をぼくが川辺の温泉で見つけたら、きっと躊躇なく心臓を弓矢で射抜くに違いない。ウィリアム・テル真っ青の正確さで。
「ぼくはついに辿り着いたんだ……夢に見た桃源郷に……」
「何言ってるのよ」
少々呆れた調子でスミレは言った。
「あなたも裸の女性に囲まれてるのに、よくも冷静でいられるわね」彼女ははっとした表情で、「もしかして、女の子には興味がないとか?」
「ええ!?」とか「きゃー」という黄色い悲鳴が上げる。もしかしなくてもぼくは弄られているようだった。女性陣のいい玩具にされている。男女比がこんなだと、自然とこの流れになるから女性は恐ろしい。
「ぼくは男色趣味じゃないよ。ちゃんと奥さんだっていたんだ」
「いた? ……それって」
言ってから、「しまった」という顔のスミレに微笑みかける。別に気にしていないことを伝える。まだ立ち直りきっていない部分もあることは間違いないものの、いつまでもアカリの死を引きずっていられる程平和な世の中でもないのだった。
「正確には、ぼくの『元』奥さんだけどね。そういうわけで、ぼくに初な反応を求められても困るのさ。年齢なりの経験はあると思ってくれなきゃ」
なんて、格好付けたことをのたまうぼくであるが、彼女たちの裸体を前にしてのぼせかけていた。鼻血が垂れないことを祈ろう。
「君たちの際どい姿も堪能したし、ぼくとしてはゆっくりと湯に浸かりたいだけど、どうかな?」
「ちょっと悪ふざけが過ぎたかな……」とナズナたちは少しばかり反省した様子で押し合いをやめてくれた。スミレはぼくを探る目付きで「それもそうね」と引き下がる。女の子たちを使った温泉イベントで、ぼくがどういった反応をするのか探っていたに違いなかった。
誰彼構わず無理やりに女の子に狼藉をはたらく男も存在するのである。ぼくがそうでないとどうして言えようか。もしも「自分たち」を差し出すとしても、それは最大限に安全を考慮した上で、最大限の効果を狙って行わなければならない。
それがリーダーに求められる要求なのだった。彼女は性別的にも、年齢的にも、楽とは言えない地位を任されているのだ。それは仕方のないことだとしても、ぼくは彼女に責任を押し付けている年上の住人たちに物申したくなっていた。
きっと彼らには彼らなりの理由があるのだろう。しかしながら、余所者であるぼくの率直な意見の矛先は、茂野さんたちに向かうことを恥ずかしく思わなかった。彼らの理由を聞けば、考えも変わるかもしれない。それでも、今こうして腹を立てていることに間違いなどないと断言できた。
そして、そうせざるを得ない世界の在り方を酷く腹立たしく思った。
一度落ち着きを取り戻すと、彼女たちの興奮も潮が引くように治まったようだった。相変わらず離れてはくれないものの、リラックスしてお湯加減を楽しむことができた。
お湯は無色透明で、白い温泉に比べると物足りない感が否めない。けれども、ただのお湯とは違うことは、体の芯から温まっていく感覚が証明している。
それ程気温の低くない晩夏の昼下がりである。熱を増した身体に打ち付けられる涼風の心地よさは筆舌に尽くしがたい。
と、ぼくはいいことを思いついた。
「ちょっと失礼」
キララをスミレに預け、温泉を横切って川べりへと向かう。途中、女の子たちの前を通ることになったけれど、隠すべき所はきちんと隠して通った。紳士の嗜みである。
川と温泉を隔てる位置。岩の向こうは緩やかな水流の川が流れている。ぼくは岩を乗り越え、川に飛び込んだ。
どぼん、という音に驚いて皆がいっせいに注目する。ぼくは温度が一転した川を悠々と泳ぐ。身体には悪そうであるが、この温泉から川へのダイブは爽快も爽快。夏にしかできない楽しみ方だった。
しばらくして、再び温泉の方面に戻る。冷やされた身体が、まだじんわりと温められていく。ああ、天国って地上にもあったんだなあ、とぼくは思った。今日まで地上には地獄しかないのだと勘違いしていた。でも確かに天国はあったのだ。生きててよかったなあ。
「そんなことして、風邪引いても知らないわよ?」とキララを抱いたスミレが心配そうにやってきた。彼女からキララを受け取る。
「ほら、キララちゃんもあなたが突拍子もないことをするものだから、目を半開きにして呆れてるじゃない」
「これは元々だよ」
「冗談よ」
このお固いイメージがあるスミレが冗談を言うなんて、温泉の効果だろうか。彼女はリラックスした様子でナズナとも雑談している。姉妹の憩いの時間を邪魔しても悪いかな、とぼくは少し距離を取って湯に漂う。
隣にきた人に目をやると、食堂の女の子だった。彼女の友人らしき数名とも一緒である。興味津々に、「さっきは何で川に飛び込んだんですか?」と訊ねてきた。
ぼくは以前に、テレビでロシアのサウナ風呂を見たことがあるのを話した。凍てつくような冬場に、高音のサウナで身体が真っ赤になるまで温め、そのまま近場の湖にダイブするのである。
心臓発作になるためにやっているようなものだと思われても仕方のない行為である。しかしながら、その時のロシア人の爽快な表情が忘れられず、そのダウングレード版とも言える先程の行為を試してみたのだった。
「どうでした?」と女の子のひとりが言った。
「とても爽快だったよ」とぼくは言った。
試してみようかな、と思案する彼女たちに待ったをかける。
「川に飛び込むには、岩を越えていかなきゃならないんだ。あの岩を越える時に大股開く君たちを見るのは、非常に忍びないんだけど……」
おっぴろげで岩を越える姿を想像したのか、彼女たちは「やっぱりやめときます」と大人しく引き下がってくれた。乙女の純情は、かくして無事守られたのである。
それから彼女たちとお喋りしているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。長風呂し過ぎたせいでのぼせかけているのを自覚したぼくは、お先に上がることにした。
女性陣は平気な顔をして湯に浸かっている。男と女で、のぼせやすさに差があるのだろうか。不思議だ。
キララと一緒に温泉から上がり、彼女を拭いてあげるついでに自分も着替えを済ませる。下着だけというだらしない格好だが、風呂上りにはこれ以上ないファッションである。少々の親父臭さは見逃して貰いたい。
キララの髪を乾かしていると、女性たちも上がってきた。皆肌がほんのりと桜色に上気している。色っぽい姿にぼくの表情は自然とほころんだ。
「あー、セイジさんったらやらしいんだ。何かエッチな目で見てる」
ナズナの小悪魔声に、悲鳴というよりは歓声を上げて身体を隠す面々。
「別に今まで裸の付き合いしてたんだから、そんな恥ずかしがる必要ないのに」
「わかってないなあ、セイジさん。お風呂は裸でも恥ずかしくないけど、着替えてる時に裸を見られるのはすっごく恥ずかしいんですよ?」
「よくわからないな」とぼくは言った。「水着は平気だけど、下着は恥ずかしい、みたいなものかな」
「そうですね、近いかもしれません」とナズナは答えた。「ようするに、シチュエーションが肝心なんですよ、女の子にとっては。それが全てだと言っても過言ではありません。クリスマスケーキと、誕生日ケーキくらいに違うんですよ」
「……ごめん、余計にわからなくなった」
などと掛け合いをしていると、くちゅん、という可愛らしいくしゃみが聞こえてきた。ぼくは慌ててキララの髪の水分を拭ってやる。夏場とは言え、油断すると風邪を引きかねない。彼女のような年齢では、まだ免疫力も万全とは言いがたい。満足に治療を受けられない現状では、風邪ひとつとっても大事になる可能性はゼロではないのだ。
病院がすぐ目の前にあるのに治療が受けられないというのは変な気分だった。ラーメン屋に入ったのに、うどんしかメニューがなかったみたいだった。
入浴の爽快感で皆は機嫌がいい。ぼくも年甲斐もなく高揚していた。身体の中に溜まっていた不純物が一気に流し出された気がする。それは身体的なものであり、精神的なものでもあった。
「これでコーヒー牛乳があれば言うことなしだったんだけどなあ」とぼくは無意識に呟いた。
「コーヒー牛乳ですか?」とナズナは小首を傾げる。ぼくの言葉にあまり共感できてないようだった。
ジェネレーションギャップか、とぼくは嘆息しかけて、はたと気づく。そういえば、彼女たちの世代が物心つく頃には、世情は不安定になっていて治安も悪化する一方だった。公共浴場も閉鎖される所が相次いだのだ。
銭湯=瓶の牛乳という等式を彼女たちが知らなくても無理はなかった。
ぼくの場合は、世界が混乱の極地にある時に刑務所暮らしだったため、そうした外の環境の実情に乏しかった。ぼくの記憶にある平和な世の中―――――とは言っても、大まかに現れていなかっただけで、十分異常をきたしていたのだろうが、表面上は平穏を保っていた世界が、「平和な日常」としてぼくの脳裏に焼き付いているのだった。
「さてと、綺麗さっぱりしたし、戻りましょうか」
スミレの言葉に我々は頷いた。辺りが暗くなるまで時間はありそうだったけれど、所々から夏虫の鳴き声が聞こえ始めていた。これから始まる野外コンサートに向けてウォーミングアップを行なっているのだ。
「どうでした、温泉は。気持ち良かったでしょう?」
「すごく良かったよ。生き返った気分だった」
ぼくは正直にどれだけ感動したのかをナズナに述べた。熱の入った言葉に彼女たちも嬉しそうだった。自分たちの集落が褒められて誇らしげな様子である。
「わたしたちの所に来てくれれば、いつだって入れるわよ」とスミレはさり気なく言う。
控え目な勧誘の言葉だった。ぼくのような<キャラバン>の人間を呼び込むには何かしらの目玉が必要だ。その点、この集落は温泉もあるし生産力もある。なぜ今まで他の<キャラバン>のルートに入っていなかったのか不思議でならなかった。
強欲な人間の多い<キャラバン>がこの集落を見逃していたとは考えにくい。となると、意図的にルートから外していたことになる。
……何か敬遠される理由でもあるのか?
ぼくは笑顔で応じながら、それとなくスミレの表情を盗み見る。彼女はさり気なくも懸命にぼくに対してアピールをしてくる。このあざとい混浴も演出の一環だろう。ナズナたちは無自覚に利用されているだけなのだろうが。
必死さの裏には何かがありそうだった。彼女はまだ若いリーダーだから、以前に失態を犯しているのかもしれない。そのせいで切羽詰まった内心をもらしてしまっているのだろう、とぼくは邪推した。
彼女の場合、こちらが探るよりも正面から訊ねた方が面倒も少ないはずだ。後で訊いてみることにしよう。
風呂上りに感じる夕暮れ時の風が火照った身体をすり抜けていく。こんなにも素晴らしい場面の中にありながら、ぼくはせかせかとスミレを疑っている。何とも滑稽で嫌らしい男だった。
どうやらぼくの身体の中にある黒い汚泥は、温泉に一度入った程度では消し去れないようだった。




