第13話
浮かない顔をしたスミレと入り口前で別れる。子供たちが起こした言動は彼女にとって衝撃だったのだろう。それまで無口だった子供が急に喋り出したかと思えば、見ず知らずのぼくを父親呼ばわりしたのだから無理はない。
理解の及ばない存在だった子供が、さらに埒外へ行ってしまったように感じられたに違いなかった。ぼくも通った道である。
すでに何度も経験しているぼくの場合は、いつまでも囚われているわけにもいかないので気持ちを入れ替える。わからない問題はどれだけ考えても無駄なのだ。下手の考え休むに似たり。
案内役がいなくなってしまったので、急に手持ち無沙汰になった。ぼくは周囲の地形を頭に入れておくためにも散策をすることにした。
滞在3日目ともなれば、ひとりで辺りを徘徊していても怪しまれはしないだろう。
ぼくは病院の建物を正面に捉えながら、もしも攻めるとすればどこからが攻め易いだろうかと考えた。別に実際に仕掛けようとしているわけではない。こうして自分が敵の視線で考えた方が、防御の穴というのは見え易いのである。
スミレの話では、この集落は敵襲の警戒は怠っていないものの、実戦は未経験であるとのことだった。武装は手製の槍に刃物類というポピュラーなものだ。弓矢を用いていないところを見ると、彼らの中に扱える者がいないのだろう。
飛び道具がないのは痛手だ。しかしながら、素人が扱う弓矢は命中率がかなり低い。ましてや動いている人間など、目の前まで迫ってこなければ命中させることはかなわないだろう。
それならば、スリングショットや投石の方がまだ実用性がある。建物に篭って籠城するならば、窓から重量物を落下させる戦法は有効なのだ。
入り口は正面玄関と、そこから右奥の緊急搬入口の2箇所だから、そこを封鎖すれば守備位置も限定されて守りやすくなる。また、建物背後は斜面になっているので、挟撃される可能性も少ない。
つまりこの病院は守りやすい構造をしているのだった。ぼくは周囲を観察しながら、自分だったらどう備えるかを考える。以前所属していた<街>では、この手の仕事を担当していたから、職業病のごとく癖になってしまった。
小川に降りる斜面と反対方向に行ってみると、先客に出会った。ナズナだった。彼女は腕に男物の服や小物類を携えていた。
足元にはスコップが置いてあり、それをどう持っていこうかと悩んでいる様子だ。すでに腕には持ち物があるので、スコップを持てないようだ。
「手伝おうか?」とぼくは声をかけた。ナズナはぎょっとして振り返る。ぼくの姿を認めると、ほっとため息をついた。
「驚かせないでくださいよ。セイジさんもキララちゃんも、揃って気配がないからびっくりしちゃいます」
「……そうかな? 驚かせて悪かったよ」と謝罪し、「そのスコップ、ぼくが持っていってあげるよ」
「……そうですか? じゃあ、お願いしますね」
ついてきてください、とナズナが先導して歩き出す。ぼくとキララは彼女の背中を追いかける。今更ながらに気づいた。何だか彼女は元気のない様子だった。
林に分け入り、踏みならされた道を行く。周囲は木々に囲まれているものの、背後にはしっかりと病院の建物が見える。迷うことはなさそうだった。
辺りは気のせいか陰気な空気が漂っている。我々は無言で歩みを進める。どこに行くのか訊ねたかったが、彼女の背中は会話するのを拒んでいるように思われた。自分から手伝うことを言い出したぶん、小煩い質問をするのは憚られた。
そうしている間に、道は開け、小さなエアポケットのように墓地は現れた。
そう、墓地だ。
いくつもの墓標が立ち並んでいる。先程感じていた陰気な空気を発生させていた正体はこれらだったのだ。
数は軽く数えても30はくだらない。それだけの人が亡くなっている証拠だった。
でも、ここに埋葬された人々は幸運なのだろうな、とぼくは思った。<審判の日>に亡くなった多くの人々は埋葬されず、<黒いケモノ>の胃袋に収まってしまったのだから。こうして弔って貰えているのは、破格の扱いだった。
ナズナは持ち物を地面に下ろし、ある墓標の前で立ち止まった。
「ナズナだよ、お父さん」と彼女は言った。「いろいろ大変な目にあったけど、まだ頑張って生きてるよ」
ナズナの父親の墓。そういえば、スミレは父親の話もしていたっけ。彼はスミレの前のリーダーだったはずだ。そのこともあって、娘であるスミレが地位を受け継いでいるのだ。
「彼はセイジさん。わたしの命の恩人さんだよ。それから彼女はキララちゃん。セイジさんの婚約者だよ」
「墓前でそのジョークは許されるのか……?」
「お父さんは湿っぽいのが苦手だったから。このくらいが丁度いいんです。それにラブラブなのは嘘じゃないでしょう? ね、キララちゃん」
話を振られたキララは「何を当たり前のことを」という顔をしていた。いや、ぼくの見間違いかもしれないけれど。
周囲に生えた雑草を手早く抜いたナズナは、お世辞にも立派とは言えない墓標を愛おしげになでた。目をつむって彼女は黙祷している。きっと脳裏には、生前の父親の姿が浮かんでいるのかもしれない。
……父親か。
ぼくの両親はどうなってしまったのだろう。今となっては、確かめるすべはない。逮捕された後に一度だけ面会にきたことがあった。その時に父親は激怒していて、親子の縁を切ると宣言された。ずっと仲直りできないままだった。
久保田姉妹の場合、父親を看取れたのだろう。それは幸運なことだった。この全てが灰色の終末世界では、親の死に目に立ち会うことさえ許されない者が多い。分断された社会の残りかすの中で、人知れず朽ちていく命ばかりだ。
「墓参りに来たわけか」
「それもあるけど、本来の目的はこっち」
彼女は再び持ってきた服などを腕に抱える。よく見てみると、若者向けの品々であるようだった。彼女の父親の遺品ではなさそうである。
「これはね、あの人の服なの」
その言葉でぼくは理解した。これらの遺品は、亡くなった恋人の品なのだ。埋葬されるべき遺体は持ち帰ることができなかった。その代わりに遺品を埋葬するのだと彼女は言った。
「ごめん……彼の遺体のことまで、頭が回らなかった」
そのまま捨て置いてきてしまったのが悔やまれた。彼女と一緒に探索するべきだったのだ。野ざらしにされた遺体の悲惨な末路は、とても口にできたものではない。この辺りには、死肉を貪る動物がうろうろしているのだ。
「いいんですよ。わたしも無我夢中で逃げ回ったから、彼がどこにいるのかわからなかったですから。この遺品の埋葬だって、きっと自己満足以外の何者でもないんだと思います」
「……自己満足は、悪い行為ではないと思うよ」
「そうかもしれませんね……そうであって欲しいと思います」
スコップを手にしたナズナは土を掘り始めた。手伝うのを提案すると、「これはわたしひとりでしなきゃ駄目なんです」と断られた。それに遺品を収めるだけなので、それ程深い穴を掘るつもりはないのだと言う。
ぼくは墓場の地面に腰を下ろし、彼女の作業を黙って見守った。このひんやりとした墓土の中には、多くの故人が眠っているのだと思うと不思議な気分だった。
土を覆いかぶされ、暗闇の中でバクテリアに分解されていくのはどんな心地がするのだろう。きっと息苦しいに違いない。娯楽がないから暇を潰すにも一苦労だろう。だから時折、耐えかねた者がゾンビとかになって復活するのだろう。
ぼくは目をつむって耳を澄ませてみた。ナズナが土を掘る音の他には何も聞こえない。土中で暇を持て余した故人の鼻唄でも聞こえないかと期待するも、彼らは皆死人のように午睡にまどろんでいるようだった。
ゆっくりと意識を周囲に埋没させていく。ここの陰気な空気は思いの外快適だ。まるで月の裏側にでもいるような気分になる。ぼくのお気に入りの場所は山中の社だったが、それに次いでランクインさせてもいいくらいだ。
どこまでも自我が拡散していく感覚がする。きっと、埋葬された故人たちも分子レベルに分解された後に、こうして母なる地球の胎内に回帰していったのだろうとぼくは思った。
ありとあらゆるものが渾然一体となった世界。そこには全てがあって、全てがなかった。
心地いいとか苦しいとか、そうした感情を超越した安らぎがそこにはあった。生まれる以前には傍らにあったものだ。母親の胎内から生まれ出ると同時に失われたものだ。その喪失感ゆえに赤子は泣き叫ぶのだ。
いつしかシャベルの土を掘る音は遠ざかり、一定間隔のリズムのみが受け継がれた音が聞こえてくる。速過ぎず、遅過ぎもしない理想的な感覚で打ち鳴らされる。自分が自分として形付けられる遙か以前から耳にしていた子守唄だ。
鼓膜を優しく揺るがし、あるいは身体と精神全体を包み込む波動のような旋律。
鼓動だ。
優しく力強い鼓動だった。身体を包む羊水を通じて伝えられる母の鼓動だ。それを媒介にして伝えられる命として地球の脈動だ。自我も知識もない赤子を安心させる調べは途切れることなく鳴り響く。
それに比べて、外の世界はあまりに寒々しく騒音に満ちている。生まれたばかりの赤子が絶望して泣き喚くのも無理ないことだった。
『……ジさん』
誰かが肩を揺する。戻らなければならない。何もかもが荒廃して意味を失った世界に。それはとても気の進まない話だったけれども、現実を履き違えてはならないのだ。その最低限のラインだけは弁えているつもりだった。
深い海の底から水上へと浮上する要領でゆっくりと意識を覚醒させていく。あまり急いではいけない。急の浮上は肺を破裂させる恐れがあるのだ。肺の代わりに意識が膨張して破裂するのが今の場合だと思えばいい。
溜まった空気を吐き出し続けるように、この深海での記憶を排出していく。「表」に生きる人間には度が過ぎた代物を切り離していく。ぼくはいつからか、こうした一連の作業を自然と身につけていた。
『起きて、セイジさん』
ナズナの声。待っててよ、今起きるから。
ぼくは光のさす方へと浮上する。周囲には数えきれないくらいの気泡が取り巻き、ぼくはまるで自分がシャボン玉になった気がした。七色に輝く泡玉は上下左右関係なくふわふわと漂っている。
その表面には何かの映像が写り込んでいる。内容は知れない。ぼくはこの世界では盲目なのだ。でもおかしいな。目が見えないなら、なぜ七色の泡だとわかるのだろう? 色形をぼくはどうやって知っているのだ?
四肢を投げ出したぼくの身体は浮力によって自分の意志とは無関係に水上を目指す。その途中で弾ける泡に触れると、ノイズのような音が一瞬だけ流れ込んでくる。次々に触れては弾け、とてもではないが内容が読み取れない。
その中において、忘れるはずのない声が聞こえた気がした。何かを言っている。呟いている。ぼくは全神経を集中させてその声を聞き分けようとした。
『―――――許して』『ごめんなさい……』『これは、きっと―――――』
<苦慮><後悔><懺悔> ――――― <憤慨><嘲笑><失望>
シーンも台詞もバラバラのフィルムを見せられているみたいだった。ぼくの脳は理解が追いつかず、断片的な情報しか得ることができない。
無理もない話だった。
これはそもそも、「人間向け」ではないのだ。
ぼくがいくら頑張ったところで理解できるはずがないし、してはならない代物なのだ。ぼくは諦めて浮力に身を任せることにした。無理をしたせいで酷く倦怠感があった。慣れない頭脳労働を長時間させられた時に感じる後頭部の鈍痛がした。
自分でも思ったより無茶をしてしまったようだった。水面を乱反射する光に近づくごとにぼくは鈍痛だけを残して忘れていく。
何を求めていたのか、そこで何を見たのか聞いたのか。
目を覚まして太陽の光に晒される頃には、跡形もなくこの記憶は忘れ去られている。ぼくは少し寂しい気がした。こうして繰り返す忘却には意味なんてあるのだろうか? 記憶に残らない思い出に意味はあるのだろうか? 「表」には顕れず「裏」に沈殿し続ける記憶たちに意味はあるのだろうか?
表層の間近、ぼくのすぐ隣に馴染み深い、それでいておぞましい感覚があった。それらは泡にまみれて水面へと向かうぼくを興味深げに眺めている。落ち込んだ目、耳、鼻、口でぼくの全身を虱潰しにする。
黒い牙がぼくの喉元にかかる。身体を動かすことのできないぼくはじっと耐えるしかない。殺意も害意もない。単純な「食欲」からくる戯れだった。
その時、冷たい感覚がぼくの身体を押し上げた。勢いに任せて一気に水面上に躍り出る。水しぶき、散乱する太陽光、バランスを崩す身体、水面に映る、
―――――黒いケモノ。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
「あいたっ」
地面に転げたぼくは情けない声をあげた。寝ぼけ眼で辺りを見ますと、手を差し出したままのナズナが呆れた視線を寄越してくる。待ちぼうけしている間に眠り込んでしまったらしい。仮にも死者の眠る神聖な場所で、バチあたりも甚だしかった。
頭を振って身を起こすと、ぼくに巻き込まれて転倒したらしいキララも殆ど閉じかけの目を困惑に染めている。
「よくこんな場所で寝られますね……」と半ば感心の声色で、「セイジさんもキララちゃんも、気持ちよさそうに居眠りしちゃうんですから、もう」
ぷんすか、という擬音が描かれそうな彼女の剣幕に、ぼくは誠心誠意謝罪した。これはどこから見てもぼくが悪い。
ぼくの真剣な謝罪の成果か、ナズナは苦笑すると「構いませんよ」と静かに言った。
「遺品の埋葬は済ませました。できたら、セイジさんも拝んでいってくれませんか」
「……うん。そうさせて貰うよ」
力及ばず助けられなかった青年だ。恨まれても仕方のないかもしれない。亡骸も放置されたまま、人知れず動物に食べられる最後なんてあんまりだった。
遺体の収められていない墓前の前で、我々は手を合わせた。
「どうか安心して眠ってね。敵は、わたしとセイジさんで取ったから」
はっとしてぼくはナズナを見た。彼女は強い。だから今まで泣き顔も泣き言も最低限に抑えていた。だけど、その奥底では消えることのない黒い火種が燻り続けているのだ。真っ白な灰に覆い隠されながらも、熱を失わず、誰からも気付かれずに燃え上がる時を待っている。
彼女の笑顔に同居した怒りが、怨嗟が、ぼくの首筋をちりちりと焦がした。彼女の表情は安らかなものだった。それ故に、根ざした感情の根深さがうかがい知れた。
済まない、とぼくは歯を噛み締めながら謝罪する。
君を助けられなかったばかりか、君の愛する人までもきちんと助けられていなかった。ぼくは助けた気になっていただけだった。彼女の表面上しか見ていなかった。
結局、ぼくは誰ひとりとして救いきれてはいなかったのだ。
―――――2年前と同じように。
いつだってこうだ。ぼくは致命的な間違いと犯さずにはいられない身の上なのだ。自分でも嫌になってくる。その過ちに気づくのは、手遅れになった時ばかりだ。こんな思考を何度繰り返しただろうか。
彼女は目を開けて、「さて、戻りましょうか」と告げた。ぼくは黙って頷くことしかできなかった。清閑とした墓地の空気がぼくから思考力を奪っているみたいに何も考えられなかった。
親に叱られた子供のように。親から逸れて途方に暮れる子供のように。
ぼくはナズナの背中を追うことしかできなかった。




