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第11話

「おはよう、セイジさん」


「おはよう、ナズナ」


 翌朝、ナズナはこれまでと同じような笑顔をぼくに見せてくれた。でもよく見ると、これまでの無理やり作った表情ではなく、自然と生まれる笑顔であることに気づいた。姉に内心を吐露することによって、彼女は前に進めるようになったのかもしれない。


「今日はいい天気ですよ」とナズナは言った。


 まだ午前中だというのに、天上へと昇る太陽はこれでもかと言わんばかりに照り輝いている。これから先、秋の訪れの前の最後の花舞台でもあるのだろう。晩夏の太陽は、暑苦しいという表現以外の何者でもなくなっていた。


「食堂で待っていて欲しいって、お姉ちゃんからの伝言です」


「了解」


 ぼくはあくびを噛み殺しながら応答した。まだ完全に目が開ききっていないぼくを見て、ナズナは苦笑する。


「セイジさんって、こんなに朝に弱かったんですか? ここにくる道中では朝もきっちり目を覚ましてたじゃないですか」


「あれは気を張っていたからだよ。こうやって安全が確保された安心できる場所だと、眠りも深くなるんだ」


 旅の最中では、いかにキララの助けがあるとは言え、そう安心して熟睡することはできない。常に緊張を強いられる眠りになってしまい、どちらかと言えば深く沈み込む前に目が覚めることになる。屋根があればどこでも熟睡できるわけではないのである。


「それはつまり、わたしたちの集落を気に入ってくれたってことですよね!」


「そうなるかな」とぼくは言った。「病気でもないのに病室のベッドで眠るのは変な感覚だったけど、やっぱり布団に抱かれて寝られる環境は何事にも代えがたいね」


 寝袋は必要最低限の寝具だ。便利ではあるが、ベッドや布団には敵わない。まだ蒸し暑い夜が続く季節ではあるものの、就寝環境によっては心地よさも段違いなのだった。


 ナズナと会話しながら食堂へと向かう。途中で出会う住人たちの姿はまばらだった。彼女の話では、すでに大方が働きに出ているらしい。


 太陽が沈んでからは仕事ができなくなるので、早起きしてできるだけ作業時間を確保しているのだそうだ。昔ながらの早寝早起きの習慣は、文明社会の崩壊と共に復活したのであった。


 歩いていたナズナは、「そう言えば」と呟いてぼくの背後に回った。後ろをてくてく歩くキララの服装を指して、


「キララちゃん、元の黒いワンピースに戻っちゃったんですね」


「乾いたみたいだったから。キララはこの服が着てて一番落ち着くみたいだ」


 お気に入りなだけあって、少々くたびれている感が否めないものの、それがかえって心地いいのかもしれない。ぱりっとした新しいものよりも、肌に馴染んだものの方が着心地は上である。


 でもそろそろ替えの服を探すべきかもしれなかった。洗剤も柔軟剤もない現状は、服にとって快適な環境ではない。彼女のお気に入りのワンピースも、来年の今頃には寿命が尽きているはずだ。


 キララはきっと悲しむに違いない。その前に似たような黒いワンピースを探さねばならないだろう。しかしながら、服はある程度手に入りやすいとは言え、今着ているような黒のレース地のものは、簡単に見つかるとは思えなかった。


 近場のデパートを当たってみるか、と構想を立てるも、そういった場所は危険な人間の住処となっていることが多い。集落に属せなかった連中は、デパートや総合商業施設のような巨大な建物に住み着く傾向があるのだ。


 服のストックがないかスミレと交渉するのも手のひとつとして考えておいた方がいいだろう。


 暗かった昨夜と違って、太陽の光が差し込んでいる食堂はその表情を異にしていた。端から端まで見渡せるので広く感じる。全く人気がないので、余計にそう感じるのかもしれないのだが。


 朝食のピークはとっくに終わっているらしく、ぼくが一番の寝坊らしかった。居候の客分だったとしても、非常に恥ずかしい気がした。明日はもっと早起きしなくては。


 給仕役の女の子が昨日の残りのスープを温めて持ってきてくれた。おさげ髪の少女は、慣れた様子でぼくとキララのぶんを並べると、お盆を胸に抱いた格好でお辞儀し、さっさと帰っていってしまった。


 お礼を言いたかったのに、とぼくは口を半開きにしたまま固まった。


「彼女、恥ずかしがり屋なんです」とナズナは言った。「真っ赤になって照れてましたよ? 可愛いでしょ?」


「残念ながら見逃したよ」


 ぼくは「いただきます」と言って朝食に口を付ける。煮こまれて味の奥行きが増しているスープを胃に収めていく。食事は摂れる時に摂っておかなければならない。特に朝食は大事だ。一日の活力となるエネルギー補給なのだから。


 キララは促されつつ、よそられた半分を食べ、残りをぼくに差し出した。手をつけてくれたのだからよしとしよう。

 

 残されたもう半分は、ぼくがありがたくいただいた。おかげで朝からお腹は満足している。いつもは軽く済ませてしまうものだから、これだけ満足感を覚えたのは久しぶりのことだった。


 食べ終わりを見計らって、先程のおさげ少女が戻ってきた。今度こそ礼を言うと、彼女は顔を赤くしてうつむいた。なるほど、ナズナの言った通りだった。小動物みたいで愛らしいではないか。


「お、お水、どうぞ」


 ぷるぷると不安定に揺れる水差しを受け取る。その際、少々手が触れると「びっくん!」と擬音が成りそうなくらい彼女は身体を硬直させた。まるで雷に打たれたみたいだった。


 さっと一瞬のうちに仰け反り、日本語とは思えない不可思議な言語を口から発している。彼女はおそらく「ごゆっくり」という意味の言葉を言い残して食堂の厨房へと逃げ帰っていった。


「たぶん、まだ地球の環境に慣れてないんだろうなあ」とぼくは言った。「大気組成が彼女の母星と異なるのかもしれない」


「またそうやって意地悪を言う。彼女をいじめないでくださいよ、セイジさん? 弄り回したい気持ちはわからないこともないですけど」


 あんな可愛らしい給仕がいるとは恐るべしである。思わぬところに伏兵がいたものだ。彼女は朝にしかいないのだろうか? ぼく専属にして貰いたいくらいである。


 用意して貰った水は冷たかった。ぼくが一口飲んで驚きの表情を浮かべると、ナズナは自慢気に解説する。


「すぐ裏に川が流れているんですよ。それに少し遠いですけど、上流の方に温泉が湧き出ている場所があるんです」


 そういえば、以前にナズナが言っていたっけ。水資源が豊富であるのは大きな強みである。この立地は、飲水にも灌漑用水にも困らない理想的なものだった。彼女たちがこの土地を確保できたのは幸運というほかない。


 ぼくは透明度の高い水をグラス越しに見ながら喉を潤した。こうも物に不足している世界だと、水でさえ非常にうまく思えるから不思議だ。食料の窮乏に伴って、人の味覚が研ぎ澄まされているのかもしれなかった。


 グラスに満たされていた水がなくなる頃、スミレは食堂に現れた。まず妹に微笑みかける。見たところ、姉妹仲は以前よりも深まっているようで何よりである。


「待たせてしまってごめんなさい」と彼女は謝罪した。


「新しい発見があったし、ぼくは気にしてないよ」とぼくは言った。


 返ってきた返答に小首を傾げるものの、話を逸らすのは得策でないと判断したのだろうか、彼女は開口一番に今日これからの予定を説明し始めた。


 まず集落の食糧事情を説明するために周辺の畑の様子、生産している作物、それを加工した漬物の作業行程を見せてくれるそうだ。その後で今度はぼくの側の物資をスミレたちに提示することになる。取り引きの交渉は一番最後である。


 彼女たち集落側にとって、自分たちの生産力を示すことは示威行為となる。あまりに切羽詰まっている様子を見せると相手に足元を見られる恐れがあるからだ。余裕があるのを示しておけば、いきなり無理難題をしかけられることも少なくなる。


 まあ、ぼくはそういったあくどい<キャラバン>のうちに入っていないつもりなのだけれど、出会って間もない彼女に言ったところで意味はないだろう。付き合いの短い人間が「自分を信じて」なんて台詞を吐くのは茶番以外の何者でもないのだ。


 ぼくは使った食器をキララと一緒に返しにいった。スミレは「お客らしく気にしないでいていいのに」と言ってくれていたが、ぼくの譲れない信条として「使った食器は自分で返す」という決まりがあるのだ。


 厨房に入ると、先程のおさげ少女が大量の洗い物をしていた。汲み置きの水を使って丁寧に洗っている。見るときちんと泡立っていた。洗剤の在庫がまだあるのだろうか。食料品と違って日用雑貨類は保存が効くのでまだ廃墟に眠っていることも少なくないとはいえ。


 そこら辺の事情もそれとなく訊いておいた方がいいな。


 ぼくの姿を見てびくびくしている彼女に対して必要以上に近寄り過ぎないよう配慮する。


「ごちそうさまでした」とぼくは言って、使用済みの食器を返す。


 彼女は小さく頷いて返してくれた。方向性は異なるけれど、どことなくキララに似ている気がした。ぼくは苦笑する。


「ほら、君もちゃんとお礼を言って」


 促されたキララは、おさげ少女の腰くらいの位置から彼女を見上げた。それに応えるようにじっと見返す少女。何で見つめ合っているのだろう。


 キララはクールに目礼をした。


「……お粗末さまでした」と少女はもじもじと返答した。


 微妙な沈黙が周囲を巻き込んで出現していた。交響曲の楽章間みたいな奇妙な沈黙だった。ぼくは咳払いをして場を動かし、「じゃあ」と言って厨房を出ていこうとする。


「あのっ」


「……ん? 何かな」


 ぼくは扉に手をかけたまま振り返る。彼女は顔をうつむかせて、たどたどしく言葉を紡いだ。


「あ、あの、食器、持ってきてくれて、ありがとうございました」


 ひとつ頷いて返すと、彼女はぎこちない笑みを浮かべてくれた。ぼくは朝から清々しい気分になれたことを内心で感謝した。集落の状況や性格は、住人たちの態度に如実に現れる。彼女みたいな優しい人がいるのだから、ここの居心地のよさも頷けるというものだった。


 さてさて、困ったものだ。取り引きというのは、好ましい人たちが相手だと非常にやりにくくなるのだ。早くも住人たちに情がわき始めた自分を、ぼくは自覚していた。




   ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■




 老後は田舎で農業でもやろうか―――――なんて風潮がかつての世界にはあったけれど、農業の実態を知る者として言っておきたい。農作業というのは、片手間にできるものではないということを。


 機械を十分に活用できた時でさえ重労働である。それが現在になって殆どの行程を人力で行わなければならなくなっている。燃料であるガソリンが手に入りにくい、そしてそもそも機械そのものが破損していたりするのだ。


 つまりは耕しから水やり、雑草抜き、収穫の全てが人力による作業となった。これは非常に手間がかかるし重労働である。苗を植えて水をやれば勝手に育つなんて生易しいものではない。害虫に害獣に病気にと、作物の天敵は数えればきりがないのだ。


 園芸でもする気分で農業に手を出した素人は、早々に音を上げるに違いない過酷な作業なのだった。


 ぼくが案内された畑は、病院の建物から少し離れた所にあった。入り口を出て右側には林が広がっており、その木々の向こうに彼らの畑があった。驚いたことにそこだけでもテニスコートふたつぶんの面積があった。スミレの話では、ここの他にもまだ畑があるらしい。ぼくが見てきた中で一番大規模にやっているかもしれない。


 遠目で住人たちが作業をしているのを見ていると、それに気づいた面々がこちらに向かって手を振っていた。皆帽子を被っている。一列に並んで作業をする行程は、まるでお茶摘みでもしているかのようだ。


「ジャガイモとか人参とか、メジャーな野菜はここで作っているわ。最近になってやっとお米も作りだしたのよ」とスミレは自慢気に言った。


「それはすごいな」


「茂野さんが農家だったから詳しいのよ。彼にノウハウとか種とかを提供して貰ってるわ」


 姉に追従してナズナは「茂野さんは農協職員もしてたんだって」と補足してくれた。


 なるほど、それならば大きな問題である種や土地の問題にも対応できるかもしれない。素人がいくら集まったところで文殊の知恵にはならないのだ。農業にしろ漁業にしろ、専門の知識がなければ立ちゆかない。その意味で言えば、この集落は恵まれているのだろう。


 衣食足りて礼節を知る、なんて古語があるくらいだ。彼らから感じられる余裕のような朗らかさは、自給自足できるという自信からもたらされるものなのだろう。反対に、今日の飯にも困る輩は何をしでかすか知れたものではないのだ。


 ぼくは作業の様子を間近で見せて貰った。雑草を抜いたり、何かを撒いたりしている。訊くと、草木灰だと言う。肥料にも虫よけにもなるそうだ。大したものである。


 ここはカボチャを育てているようで、青々と実ったカボチャを収穫しているのも見ることができた。皆嬉しそうに作業をしている。重労働で厳しい農作業ではあるが、こうして収穫する楽しみが味わえるから、いいストレス発散になるのかもしれない。


 ぼくの感心した様子に、スミレも手応えを感じ取っているようでご機嫌である。ここで内心を見透かされないようポーカーフェイスを保っていられれば言うことなしなのだが、仮にも取り引きの相手であるぼくに指摘されるのは彼女としても屈辱だろうから黙っておく。後でそれとなく教えてあげようか。


 次に水源を見にいくとスミレは言った。我々は畑から戻り、開けた道から逸れて林のから出る。それから病院まで続く道まで戻ったところで、建物を右手に見ながら裏の斜面へと向かった。


 近くまで来ると階段が設えられているのに気づく。遠くからでは見られない死角になっている。予め位置を知っていなければ見落としそうな些末な造りだった。


 急な石段であり、ぼくはキララが転げ落ちないよう細心の注意をしながら下っていく。案内役の姉妹は慣れた様子で滑らかに降りきっていた。もう何度ともなく繰り返しているからだろう、目をつむっていても平気そうだった。


 ぼくは振り返って病院を仰ぎ見た。裏側を露わにした建物は、どこかうらぶれているようだった。本来の役割を果たせずに終わった退役軍人みたいな哀愁を漂わせている。


 木々の匂いがいっそう強くなった。斜面の向かいは森になっている。その手前に川が流れ出していた。幅は2メートルもないだろう小規模な川だ。小川と言っても過言ではない。だが近づいてみるとそれなりに水深があるようだった。


 水は澄んでいる。場所が場所ならオオサンショウウオが住んでいても不思議ではなかった。


「下流の方には温泉も沸いてるんですよ」とナズナは清らかな水流に手をつけながら言った。「元々、この病院も温泉療法を行えるようにこの場所に立てられたそうなんです。当時は話題になったみたいですけど、イロモノ扱いされてそれ程流行らなかったんですよね」


「まあ、普通の病院としては必要十分に働いてくれたわけだけどね」と姉がフォローをする。


 温泉とな。ぼくは小躍りしたい気分だった。水浴びができる季節だとは言え、やはり温泉という言葉には日本人を浮かれさせる魔力がある。シャワーでは味わえない極楽感は非常に魅力的である。


 ……それにしても、恵まれ過ぎている集落ではないか。ここまで来ると何か尋常ならぬものを感じないこともない。誰かによってセッティングされたみたいな好条件だ。


 とは言え、それはあくまで必要最低限の生活環境であって、この終末世界において豪遊できるような異常さはないようだが。


 偶然が重なって現状に落ち着けているのなら、それは彼女たちの日頃の行いがよかったせいかもしれなかった。


「それにしても綺麗な川だな。魚を捕ったりしないのかい?」


「以前はひとりふたりと魚釣りをする役回りを決めてたんですけど、あまりに効率が悪いんで辞めちゃったんですよ」とナズナ。


 今では与えられた休憩時間に趣味として魚釣りをする人間くらいしかいないらしい。確かに、ここで竿を構えて何時間も時間を浪費するくらいだったら、農作業を手伝わせたくもなるだろう。


 それに、堅実な収穫があるのでそちらに比重が置かれるのも頷ける。偶に魚が食べたくなったら個人で釣りをするのだろうな、とぼくは思った。


「なら、罠を仕掛けてみたらどうだ? それなら人手も割かれないと思うけど。餌を入れて沈めるだけでいいんだし」


 ぼくの提案に姉妹は顔を見合わせた。スミレは右手を軽く唇に当て、考え込んで言う。


「魚を捕るような罠はなかった気がするわ。釣竿は見つけてきたものがあるけど……」


「いや、手製で作れるよ。ウケ罠っていうんだけど、竹とかヤナギを使って作る設置型の罠なんだ。結構大物もかかるんだよ」


 へえ、とスミレはため息をもらした。


「できたら、後で作り方を教えて貰えるかしら。わたしたちの知識は農業に偏っているのよね」


「というより、茂野さんの知識って言った方が妥当かも」と姉の言葉をナズナは補完するように付け足した。「だって、殆どの人たちはサバイバル関係の知識なんて全然持ってなかったわけだし」


 それはそうだろう。都会に住む多くの人間が衣食住を保証された文明社会に住んでいたのだ。世界の混乱によって多少物資が手に入りづらくなった時期があったとは言え、雁首揃えて野山に繰り出していたわけでもない。ちゃんと買い物したり、配給を受けたりしていたのである。


 人間は必要に迫られなければ動かない生き物なのだ。サバイバルの知識を必要とする環境になかったのならば、別に全くその知識に疎くても不思議ではなかった。


 アウドドアを趣味にしている人間は幸運だっただろう。サバイバル全般の知識は、この終末世界において非常に役立つものだからだ。


 そうして大人たちが会話している中、キララはいつの間にか靴を脱いで小川に足をつけていた。活動時間ではない昼間であるはずなのに、自発的に行動するようになっている。


 ぼくは嬉しさと共に疑念も覚えた。彼女に見られる変化は確かに喜ばしいはずなのに、感じる胸騒ぎのようなものは何なのだろうか。ぼくの考え過ぎか? それとも虫の知らせというヤツか?


 いずれにせよ、気を配っているに越したことはない。用心するに越したことはない。様々なサインを些細な変化だと見過ごすような輩から死んでいく世界なのだから。


「気持ちよさそうね、キララちゃん」とスミレは隣に腰を下ろして言った。彼女も靴を脱いで川の冷たさを楽しんでいる。姉に倣ってナズナも同様である。彼女たちは七分のワークパンツなので裾をめくり上げる必要もないようだった。


「美人さんが3人も素足を晒しているなんて眼福だなあ」とぼくはしみじみ言った。


「えへへ、美人なんて照れちゃいますよ。ねえ、お姉ちゃん」


「ま、まあね」


 姉妹は満更でもなさそうな顔をしている。ぼくはキララの隣に割って入って、


「でももちろん、一番かわいいのはキララだけどね」


「…………」


「…………」


 キララの向こうから刺さる鋭い視線は何だろうか。ぼくは事実を言ったまでだし、10歳の少女と張り合うのは大人らしくないではないか。何でぼくが失言したみたいな雰囲気になっているのだろう……。


 スカートが濡れないように用心して、キララはぼくの前に腰を下ろす。彼女を抱き抱える形になったぼくは、一緒に清涼な流れを楽しんだ。


 水に浸かっている足をバシャバシャさせて遊んでいるキララを微笑ましく鑑賞することしばらく、ぼくはスミレの方に顔をやって言った。


「それで、ぼくの用意できる品なんだけど」


 その前置きで、彼女は重要な情報が語られるのだと察したようで、若干態度を硬化させた。そこまで気張るとかえってやりにくいと思うのだが、まあ仕方ないだろう。


「まず、昨日の夕食の場でも提供したように、ウィスキーを始めとした嗜好品だね。保存ができるものに限られちゃうけど、氷砂糖とかチョコレートがある」


「チョコ!」とナズナが声を上げた。スミレは妹のはしゃぎようを叱咤するも、あまり効果はないようだった。お菓子なんてしばらく口にしていないのだろう。スーパーやコンビニにあったお菓子類は、1年も経たずに略奪され尽くされてしまっただろうから。


 甘味なんて知らなかった世代ならともかく、彼女たちは砂糖をふんだんに使った菓子類を知る世代である。それだけに、一切甘味を口にできなくなって飢えている様子だった。


 こうした嗜好品は非常に重宝される。人間の欲望の中でも、食欲は我が強いのだ。娯楽が消滅した世界においては、楽しみなんて食事と性行為くらいしかないのだ。


「それから調味料がひと通りに缶詰類」


 ぼくが指を折って在庫に思いを巡らしている傍ら、スミレもどうやって目の前の獲物を獲得するか熟考しているようだった。あまりに見当外れな取り引きを持ちかけた場合、その取り引きは破談になることが多い。案外、先走ってそうした失敗をする輩が多いのだ。さて、彼女は大丈夫だろうか。


「後は、医療品目として抗生物質に痛み止めの薬かな。まだ他にもあるけど、今までに人気があった物はこれらだね」


「そうね……薬関係は喉から手が出る程欲しいわ。ここ、病院のくせに院内薬局がないんだもの」


「そうなの? じゃあ、近くに薬局があるはずでしょ」とぼくは訊ねた。


「市内に続く県道沿いにあったのよ、薬局は。今じゃ、跡形もないけどね」


 そんな交通の便のいい通りにあったら略奪してくださいと言っているようなものだ。少し頭の回る人間ならば、これから先、医療品が貴重になることはすぐにわかる。転売目的でかっぱらっていったに違いない。


 もっとも、ぼく自身もその人間のひとりに過ぎないわけだが。


「まあ、ぼくの方の物資類は、実際に見て貰った方が早いと思う。確認するだろ?」とぼくは言った。


「もちろん」とスミレは言った。


 川から上がって停めている馬車へと向かう。温泉も見ておきたかったけれど、実際入らせて貰うまでのお楽しみに残しておこう。


 公爵夫妻は馬車から解放されていて悠々としていた。雨ざらしにならないよう屋根がついた小屋の中が彼らのホテルだった。小屋の前面は壊れてしまって人間が使えたものではないものの、馬小屋としては丁度いい。


 周囲には夫妻の餌となる青草が群生している。我々が近づいてきたことに気づくと食事を一時中断し、公爵閣下は歓迎のひと鳴きで迎えてくれた。


「後でブラッシングしてやるからな」


 そう言うと、今度は夫人が喉を震わせた。とても嬉しそうである。上流階級の馬は身だしなみにも気を使うのだ。夫人は特に綺麗好きなのだ。


 すぐ隣に停めてある荷馬車部分をさり気なく観察する。見たところ無理やりこじ開けられたりした痕跡はない。鍵がかけられている前面の扉部分も変わった様子はないようだった。


 ふむ、とぼくは住人たちへの評価をさらに上乗せする。彼らは物資が満載の荷馬車に手を付けなかったのである。お宝の山を前にして理性的な行動を取れる相手は信用できる。これで欲望に任せて物資を盗む輩がいたら、ぼくは取り引きをそうそうに、ここを去るつもりだったのだ。


 卑しさに対して無自覚になった人間は碌なものではない。己の欲望を満たすために何だってするようになるだろう。そうなってしまえば、人間お終いである。


 ぼくは鍵を取り出して扉を開錠する。荷馬車の中は薄暗いが通気性のいい造りにしてあるので不快ではない。湿気の多い時期は過ぎ去ったものの、まだ油断ならない季節である。大事な物資にカビが生えたりしたら笑えない。


 内部に積み重ねられた木箱には、それぞれ収められている物資のインデックスが貼ってある。お目当ての物を探す時は目印にするといい。ぼくはスミレにそう教えた。


 彼女はメモを片手に目で確認できる物資の品質を丁寧に調べている。どれが現在の集落にとって必要な物なのか見極めているのだ。ぼくがただで好きなだけ取り引きに応じるとは思っていないのだろう。懸命な判断だった。


 彼女ならば隙を狙って盗むこともないだろうと、姉に構わずお菓子類を物色しているナズナに目をやる。


「おおっ」とか「これは!」とか、喜色満面で積まれている木箱をより分けている。まだ手に入ったわけでもないのに、すでに食べる気満々なのだから微笑ましい限りである。姉の苦労も少しは理解してやって欲しいところだが。


「どうりで運ばれている時、甘い匂いがしてたわけだよ。わたし、ずっと気になってたんだよね」


「……チョコ類は密閉されてるから、匂いなんてしないはずだけど」


「ううん。するよするよ、絶対にするよ! わたしにはわかります。何たって大の甘党だから!」


 えへん、と胸を張るナズナはなぜか自慢気だった。ぼくはどちらかと言えば辛党なんだけど、ぼくにはわからない嗅覚が彼女たち甘党人類には備わっているのだろうか。


「タバコもあるのね」とスミレは声を弾ませていった。「茂野さんが喜びそうだわ」


 愛煙家にとってこの世界は酷く苦しいものだろう。大好きな煙を味わうことができないのだから。タバコは早いうちに稀少品となって、それ自体が貨幣の役割を果たすこともあるくらいだ。タバコ何本と食べ物、といった取り引きは普通に成立する。


「数は少ないんだ、それなりの価値はあるから注意してくれよ」とぼくは予め言っておく。タバコは交渉の場でも活躍するから、安易に手放したくない品目だった。


「了解よ」と彼女はメモに書き込みながら返事をする。


 とんとん、と方を小突かれるので振り向くと、ナズナが上目づかいに、


「ねえ、セイジさん。ひとつ味見させて貰えないかなあ、なんて」


 とってもあざといです。父親に小遣いをねだる娘みたいな声色だった。世の中のお父さん方は、こんなわかりきった娘の策略に翻弄されてきたのだろうな、とぼくは思った。現にぼくも篭絡されかかっているし。


「ねえ、セイジさん。お願い!」


 かつての世界でおじさんによる援助が絶えなかった理由がわかった気がした。性欲はとにかく、父性も揺さぶられるから正気を失うんだろうな、きっと。男のDNAには、「娘には甘い」というプログラムがしっかり書きこまれているに違いなかった。


「こら、ナズナ! 止めなさいっ。彼だって遊びでやってるわけじゃないんだから」


「そんなことわかってるよ。子供扱いしないで!」


 ぼくとスミレは顔を見合わせた。お菓子をねだりつつ子供扱いされたことに立腹している矛盾をナズナは気づいていないようだった。狙っているのか、いないのか。いずれにせよ、年齢相応の顔を垣間見せたナズナの姿に、スミレも毒気を抜かれたようだった。


「仕方ないな。みんなには内緒だからな?」とぼくは念を押した。


「もちろんです!」とナズナは答えた。何か不安なんだよなあ……。


 ぼくは封が開いている氷砂糖の袋からひとつ取り出す。半透明な砂糖の塊は長期の保存にも耐え、溶け出したりもしないから扱いやすい。携帯食としても有用である。


 ナズナの目の前に差し出して、


「ほら、あーん」


「あーん」


 待ちかねている彼女の口に投入してやる。無事に口内に収まると、彼女は頬に手を当てて至福の声を上げた。


「甘いよぉ、おいひいよぉ」


 大袈裟なんだから、とスミレは言っているが、姉の言葉も耳に入らない様子で口の中に広がる甘味を味わっている。味付けなんてないシンプルな糖分である。それでも、長いこと遠ざかっていた甘さに感激しているようだった。


 わからなくもない。ぼくだって、同じような立場だったら彼女のような反応をしていたに違いないのだ。長いこと渇きに支配されていた時に飲む水の一滴。空腹に支配されていた時に口にする温かいスープ。涙が出るくらいにうまいのをぼくは知っている。


 スミレにも勧めるも、彼女は遠慮して受け取らない。「味見も大事な取り引き行為だ」と説得してひとつ彼女の口に放り込む。


「んんっ」と妹に負けず劣らずの顔である。いつもはきりりとしている目尻も若干垂れ下がっている気がする。何てわかりやすい姉妹だろう。


 ぼくとキララもひとつずつ口にして、しばらく馬車内で氷砂糖を転がすことに専念する。噛み砕かなければ、この一塊でも十分に楽しめるのだ。しかも空腹時に食べると、いくらか空腹感を紛らわすこともできる。


 案の定というか、予想通りというか。ナズナが最初に食べ尽くしてしまった。名残惜しそうに、悲哀の声を上げる様は非常に見苦しい。ぼくとスミレは苦笑せずにはいられなかった。


「この世には、まだ甘いお菓子が残ってたんだね。何だか生きる気力が湧き上がってきたよっ」とナズナは満面の笑みを浮かべて言った。


 些細な喜びも生きる糧になることをぼくは知っている。「もう一度チョコレートケーキを食べるまで死ねない……!」と決心する彼女は、ささやかだが大きな願いを胸に灯したのだ。何もかもが朽ち果てた世界においては、それは大きな希望にも成り得るに違いないのだ。


「夢は大きく、チョコレートケーキワンホール!」とナズナは言った。


「素敵な夢だね」とぼくは心底共感して、そう言ったのだった。


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