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婚約解消の申し出に『完璧に整えた微笑』で応えた私。新しい婚約者の『君はどうしたい?』という問いに戸惑う

作者: 相野端摘
掲載日:2026/05/15

 午後の西日が、応接室の絨毯に淡い幾何学模様を落としている。

 私は背筋を伸ばして椅子に腰かけ、深く息を吸いながら新たな婚約者を待っていた。指先の腹でドレスの布地をそっと撫でる。冷たい絹の感触が、私が今も『アメリア・ヴォルテス』というヴォルテス家の「道具」として仕事があると教えてくれた。

 光の粒子が宙を舞うのを目で追ううち、十日前の記憶が、この同じ部屋の空気と共に蘇った。



 あの日のロレンツ様は、飾り気のないフロックコートを隙なく着こなしていらした。襟元には伯爵家の紋章が刻まれたカフスボタンが冷たく光り、透き通ったエメラルドグリーンの瞳には感情の揺らぎがない。背筋は一寸の歪みもなく、落ち着き払った物腰で、彼は静かに口を開いた。


「僕たちの婚約は解消となる。驚かせてすまないが、我がクロイツ家にとってより条件の良い縁談がまとまったからね。これは僕自身の責任において下した判断だ。家門の利益を考えれば、これが最も正しい選択であることは、君にも同意してもらえると思う」


 その言葉には私を責める色など一片もなかった。いつものように、ただ淡々と事実を告げただけだ。

 私にも彼への執着はない。互いに家の歯車として役割を演じる者同士の、言葉にならない連帯感があっただけだ。だから、何の抵抗もなく受け入れた。


「この役立たずめ! 一体どんな不手際をやらかした! クロイツ家のような上位の伯爵家との繋がりを失うことが、我がヴォルテス家にとってどれほどの損失になるか分かっているのか! お前がもっと上手く立ち回っていれば、こんな事態にはならなかったはずだ。まったく、顔に泥を塗ってくれたな!」


 鼓膜を引き裂く父の甲高い声が、応接室の空気を濁らせた。額に脂汗を浮かべた父はロレンツ様を睨みつけかけ、しかし相手が伯爵家だと思い出すと、途端に卑屈な笑みを貼りつけた。


「父の無礼を、どうかお許しくださいませ」


 父の怒声を遠い雑音のようにやり過ごし、私はロレンツ様へ深く頭を下げる。


「気にするな。君のせいではないし、急な決定で君の父上が取り乱すのも無理はない。僕はこれ以上長居せず、予定通り手続きを進めるよ。これまでの君の完璧な振る舞いには感謝している。では、失礼する」


 ロレンツ様の飾り気のない背中が扉の向こうへ消えるまで、歩幅も手の動きも乱れることはなかった。最後まで完璧な次期当主だった。

 彼が去ると、父は舌打ちをして部屋を歩き回り、やがて私を売れ残りでも値踏みするような目で見下ろした。


「本来ならお前の妹に来た縁談だったが、マーロウ侯爵家との縁は、価値の落ちたお前に回してやる。無能と呼ばれる三男なら、お前くらいがちょうどいいだろう。とはいえ相手は侯爵家だ。これ以上、家門に泥を塗る真似は許さんぞ。お前は家を繋ぐための道具なのだから、せいぜい媚を売って、指示された場所に収まることだけを考えろ!」


 乱暴な物言いだが、貴族の理屈からは正しい。指先の腹でもう一度、布地を強く撫でた。私は道具であり、命じられた場所に収まることだけが存在の意味だ。そう繰り返すと、乱れかけた鼓動が静かに落ち着いていく。



 ――そして十日後の今日。私はこの応接室で、新たな婚約者を待っている。


 控えめなノックの音に、意識が現在に引き戻された。重い扉が開き、男性が姿を現す。琥珀色の瞳には、私を品定めする鋭さがない。柔らかなライトブラウンの髪は整えすぎておらず、上質だが肩の力が抜けた装い。鼻腔をくすぐるのは、古い羊皮紙とハーブの穏やかな香りだった。

 私は立ち上がり、完璧な淑女の礼を取った。


「お初にお目にかかります。アメリア・ヴォルテスと申します。なにとぞ、いたらぬ点ばかりかと思われますが、お見知りおきいただければ幸いです」


 私が顔を上げると、セドリック様は少し驚いたように瞬きをして、頷いた。


「丁寧な挨拶をありがとう。セドリック・マーロウだ。どうか、そんなに硬くならないでほしい」


 低く穏やかな声でした。ロレンツ様が纏っていた無機質さはなく、ただ言葉を交わすための間がある。少なくとも私の第一声は正解だったと判断できるでしょう。


「お気遣いありがとうございます。妹へのご縁でしたのに変更になり驚かれたでしょう。よろしければ、妹のどこにご興味を? 妹への期待は私が満たせるよう努力いたします」


 私がそうあるべき役割は何でしょう。と、心のなかで付け足した。

 何も言わず、後ろで従う貞淑な女性を望むならそのように、全ての仕事を任せられる働き手を求めているなら、またそのように。望まれた役割に私を当てはめることしか、私にはできないのですから。


「父が『婚約者を持てば結婚に興味を持つだろう』って勝手に進めた話だから気にしなくていい。それに俺に合わせなくていい。俺が聞きたいのは、君が俺をどう喜ばせるかじゃないんだ。君自身は、これからどうしたい?」


 その言葉に返事をしようとして、声にならない息が喉の奥に詰まる。私がどうしたいか? そんな問いに対する答えなど、今まで積み上げてきた教えの中には一つも存在しない。私は期待に応える器であり、中身などはじめから空なのだ。

 張りついていた微笑が、初めてわずかに引きつった。耳の奥で自分の心臓が不規則に跳ね、指先の感覚が急速に冷えていく。咄嗟にドレスの布地を握りしめた。


「あの……申し訳ございません。私の理解が及ばず……。私のような中身のない器に主観を求められましても、何をお答えすればよいのか分からないのです。どうか、私にどのような役割を与えてくださるのか、明確な命令をいただけますでしょうか」


 声が震えぬよう必死に抑えながら、どうにかそれだけを絞り出した。セドリック様は白くなるまでドレスを握りしめた私の手を見て、琥珀色の瞳をわずかに揺らした。そして、急かすことなく言った。


「急がなくていい。まずは、自分の気持ちを探そう。君がずっと家門の歯車として生きてきて、すぐに答えが出ないのは当然だと思う。だから、ただ黙って従う人形ではなく、時間をかけて『自分の意志を持つこと』を始めてみないか?」


 自分の気持ちを探す。その言葉が、私の足元を激しく揺さぶった。

 けれど、歯車として生きてきた私には、その温かさをそのまま受け止めることができない。そうか、と一つの歪んだ答えにすがりつく。これは彼が私に与えた「新しい命令」なのだ。ならば、何としてでも応えなければ。


「……承知いたしました。それが貴方のお望みであり、私に与えられた新たな命令であるならば、異議は申しません。どれほど困難であっても、私は完璧に演じ切ってみせますわ。私は、自分の意志を持つことをこれからの目標にいたします」


 私がそう告げると、セドリック様は苦笑するような、けれどひどく切なそうな微笑を浮かべた。彼は私の歪んだ解釈を否定せず、ただ「そうだな。そこから始めよう」と呟いて、小さく頷いてくれた。

 窓から差し込む西日が、いつの間にか傾きを深めている。応接室に落ちる影が、ほんの少しだけ、その形を変えていた。


     ◆ ◆ ◆


 王立公立庭園の入り口で馬車を降りた瞬間、街中の埃っぽさとは無縁の、青々とした若草の匂いが肺の奥まで入り込んできた。

 午前十一時。柔らかな陽光が微細な塵を黄金に染めて、空中に漂わせている。光の粒子が舞い踊るような、穏やかな春の朝だった。


 私は自らの意思を一度凍結し、ヴォルテス子爵家の長女としての皮殻を纏い直した。背筋を伸ばし、顎を引き、視線はわずか数歩分だけ先へ落とす。


 初めての対面から半月。次の交流は王立庭園の散策と決まってから、絹を用いながらも装飾は控えめに仕立てた散策着。マーロウ侯爵家の好む慎み深さを丹念に調べ上げ、この一着に凝縮させた、相手を立てるための戦略だ。


 これならばいかなる問いにも相応(ふさわ)しい正解を返せるはず。私は鏡の前で繰り返した整った微笑みを、そっと唇に乗せた。


「待たせてしまったかな。おはよう、アメリア」


 聞き慣れない低い声音に、私は反射的にカーテシーを捧げた。


「おはようございます、セドリック様。私こそ、少し早く到着しすぎてしまったようですわ」


 セドリック様は、私より少し高い位置から、暖かみのある琥珀色の瞳でこちらを見つめていた。


 侯爵家の三男。能力主義の頂点にありながら無能と蔑まれるお方。けれどその佇まいに卑屈な影はなく、古い羊皮紙を思わせる落ち着いた空気を纏っている。


「今日は最高の散策日和だね。……ああ、その装い、とても似合っているよ」


「恐縮ですわ。マーロウ家の皆様が好まれる、実用的でありながらも品位を損なわない意匠を学ばせていただきましたの。それにこの庭園は、初代国王が王妃のために開いたと伺っておりますから、当時の記録に残る王妃の散策着から少しばかり着想を得ておりますのよ。お気に召していただけたなら、十日間の準備も報われますわ」


「それはとても光栄だけれど、今の僕の目には、君の装いが歴史の重みよりも、この庭園の木々の色にこそ美しく調和しているように見えるよ。事前の知識や伝統も大切だけれど、今はただ、この少しだけ雨を含んだ土の匂いや頬を撫でる風の冷たさを一緒に感じてみないか? ほら、あちらの小径は名もなき花が綺麗なんだ」


 セドリック様が示したのは、整備された「王の回廊」の先にある小径だった。私は戸惑いながらも、彼の一歩分だけ斜め後ろを歩く。


 用意していた知識の数々が、喉元で意味を失い宙に浮いていく。代わりに内側へ侵入してきたのは、制御の及ばない外界の刺激だった。


 頬を撫でる風が驚くほど湿り気を帯びている。気がつけば私は無意識のうちに深い呼吸をしていた。濃厚な花の香りが肺の深くまで満ちていく。


 歩くたびに伝わってくる土の確かな柔らかさ。屋敷で叩き込まれた人工的な洗練とは程遠い、剥き出しの生命の感触だ。


 管理され維持されてきた私の「器」が、不規則な刺激に軋むのを感じる。


「……アメリア」


「はい、セドリック様」


「そんなに肩を強張らせなくても、道は逃げないよ」


「失礼いたしました。少し、自然の生命力に圧倒されてしまったようですわ」


「圧倒されてもいいんだよ。ここは、誰かを感心させるための場所じゃないからね」


 セドリック様の瞳は、私を評価しようとはしていなかった。ただそこにあるものとして、静かに映し出しているだけだ。


 やがて、私たちは庭園の中央にある噴水広場へと辿り着いた。


 陽光に砕けた水が無数の光の粒子となって霧散している。その温かな飛沫と冷ややかな水音が、過熱した思考を静かに鎮めてくれた。


 ベンチに腰を下ろそうとしたとき、背後の植え込みの向こうから、散策する貴族たちの囁き声が流れてきた。


「……あの方の話、聞いた? クロイツ家のロレンツ様のことよ」


「ええ、急に髪を短くして、まるで別人のような野性的な振る舞いをしているそうじゃないの」


 ロレンツ様。つい半月前まで私の主人のような存在だった男性。その名を聞いても、心にはさざ波一つ立たなかった。鼓動が速まることもなく、規則正しいリズムを刻んだままだ。


「元婚約者の変貌……君は、気になるかい?」


 セドリック様が穏やかに問いかけてきた。私は飛沫に視線を向けたまま、静かに首を振る。


「いいえ。彼が何を求め、どのような姿になろうとも、それは彼自身の選択でしょう。すでに道を分けた相手ですもの。私には未練も恨みもございませんわ。ただ、……幸せを祈るばかりですけれど」


「そうなんだね」


 セドリック様は理由を問うことはせず、ただその言葉を真実として受け取ってくれた。


 否定せず、ただ認めてくれる。それだけで内側の重みがわずかに軽くなった気がした。


「さて。少し、庭の隅まで行ってみないか。僕のお気に入りの場所があるんだ」


 セドリック様に導かれ、私たちは管理の目が行き届ききっていない庭の隅へ足を踏み入れた。「迷い子の生垣」と呼ばれる、入り組んだ緑の壁がそこにあった。


 行き止まりに佇んでいたのは、一本の生垣を刈り込んで作った巨大なトピアリーだった。


 王家の庭園に据えるなら、威厳ある獅子か優雅な白鳥が相応しい。けれどそこに鎮座していたのは、耳が左右で歪に垂れ、不自然に丸まった体をしたウサギだった。


 完璧とは程遠い、不格好な造形。私は反射的に、庭師の怠慢を指摘するための言葉を探した。


 それこそがヴォルテスの長女として培ってきた正解の出力だ。けれど、西日を浴びてその毛羽立った緑の表面で光の粒子が遊んでいるのを眺めているうちに、私の思考は不意に、理由のない沈黙に陥った。


 不完全なままでも、ただそこに在ることを許されているような。そんな穏やかな空気がこの場所には満ちていた。


「……変な顔」


「そうだね。すごく変な顔だ」


「あっ……申し訳ございません。つい、不躾な言葉を」


「謝る必要はないよ。君が初めて、自分の言葉で笑ってくれた気がするから」


「私が……笑って、おりましたか?」


 言われて初めて、自分の頬が緩んでいることに気づいた。


 鏡の前で調律した完璧な微笑ではない。張り詰めていた糸がふっと切れたように顎の強張りが解けた、無防備な表情。

 子爵家の道具として生きてきた私にとって、本来ならば致命的な失敗だ。


 けれど胸の奥を通り抜けていく爽快な風は、それを失敗だとは告げなかった。

 調律された微笑が崩れていく。それは苦痛ではなく、閉ざされた部屋の窓が不意に開け放たれたような……。


 そんな、恐ろしくも鮮やかな自由への第一歩だった。


     ◆ ◆ ◆


 雨上がりの夜気が、肺の奥まで冷たく染み込んでくる。

 王立大劇場の正面玄関に広がる濡れた石畳が、灯火の光を不規則に弾いていました。私は少し早めに到着し、白く濁る自分の息を眺めながら、ただ静かに待っていました。


 手元には、日付も時間も記されていない招待状がある。

 「君の都合の良い時に」という残酷なまでに委ねられた自由を、私はヴォルテス家の娘への試験だと受け取った。彼が望むのは人形のような受動性ではなく、相手を損なわない知的な洗練。そう判断した私は、王道の悲劇を避け、喜劇『三つの嘘と、黄金の果実』を指定させていただいた。

 品位を保ちつつ庶民の逞しさにも理解を示す「器」の提示こそが正解であると、私は確信していた。


「お待たせしてしまいましたか、アメリア」


 聞き慣れた、けれど聞くたびに胸の奥を細く震わせる声。

 振り返れば、外套を軽く翻したセドリック様が立っている。春の雨を含んだ土の、少し重たく、けれど生命力に満ちた香りが漂っていた。


「いいえ、私も今しがた到着したところですわ。セドリック様」


「雨が上がって良かった。冷えませんか?」


「ええ、少し冷たい風が心地よいくらいです」


「それは何よりです。さあ、中へ入りましょうか」


 調律された微笑を浮かべ、案内を受け入れる。

 歩きながら、今回の演目に喜劇を選んだことを告げると、セドリック様はぱちくりと目を瞬かせた。次の瞬間、まるで子供のような純粋な輝きが瞳に灯る。


「喜劇ですか! あはは、やはり君は面白い。実を言うと、僕もあの演目の結末がどうなるのか、ずっと気になっていたんです。ただ、僕から誘ってしまうと、君に『無理をして笑う』という役割を強要してしまうのではないかと思って、言い出せませんでした。だから、君がご自身の意思でこれを選んでくれたことが、本当に嬉しい。最高の選択ですよ、アメリア」


 私の計算を遥かに上回る熱だった。

 聡明さを評価するという予測は、彼の無邪気な喜びの前にあっけなく霧散する。わずかに戸惑いながらも、差し出されたその手を取った。


 劇場内は着飾った紳士淑女たちの熱気と、高価な香水の匂いに満ちている。

 開演の鐘が鳴り、灯火が絞られていくにつれ、意識が舞台へ吸い寄せられた。最初は「喜劇を楽しむ淑女」という役割を演じるつもりだった。


 けれど──舞台上の役者が口にする、権威を皮肉る鋭い台詞回し。

 それがヴォルテスの思想によって押し殺されてきた私の気質に、驚くほど正確に共鳴してしまった。役者が言葉を発する一呼吸前に、脳内で次の落ちが鮮やかに組み上がる。知的な興奮が全身を駆け抜けた。


 偽りを重ねて領主をやり込める主人公の姿が、かつての自分と重なる。それでいて、その偽りすらも生きるための武器として肯定される物語の強さに、私は震えた。

 ふと隣に気配を感じ、視線を微かに動かす。セドリック様の大きな肩がすぐそばにあった。彼もまた舞台を見つめながら楽しげに肩を揺らしており、その体温が冷えた指先まで伝わってくるようだった。


「……ふふっ」


 堪えきれず、小さな笑いが漏れた。

 一度溢れ出したそれは、もう私の制御を完全に振り切っていた。横隔膜が激しく波打ち、喉の奥から込み上げる熱い塊が、声を、音を、外へと押し出していく。


「あはっ、あはははは!」


 調律された微笑などではない。魂の底から湧き上がる、本物の笑いだった。

 目に涙を浮かべ、肩を震わせて笑い続ける私を周囲の観客が怪訝そうに見ている。それすら気にならない。世界がこんなにも愉快で、滑稽で、美しいものであるという事実に、ただ打ち震えていた。


 不意に、隣の柔らかな気配がさらに近づいた。

 拍手と笑い声が渦巻く中、微かに擦れる上等な生地の音。セドリック様が耳元へ身を寄せる。温かな吐息が髪を揺らし、静かに、けれど確かな熱を持って囁いた。


「……君は、笑うとそんな顔をするんですね。今の君が、これまでで一番美しい」


 心拍が跳ね上がった。

 彼が見ているのは、ヴォルテス家の長女という「器」ではない。今この瞬間に我を忘れて笑っている、「私」という人間そのもの。その事実が、石畳に反射する光の粒子よりも鮮やかに、内側を照らし出した。

 息を吸い込むと、肺をきつく締め付けていた目に見えないコルセットが、音を立てて解け落ちていくのがわかった。強張っていた背筋からふっと力が抜け、深く、甘い酸素を胸いっぱいに取り込む。


 ああ、なるほど。

 そういうことだったのか。

 私はこの人のことが、どうしようもなく好きなのだ。


 終演後、火照った頬を夜風に晒しながらロビーを歩き出す。


「素晴らしかったですね」


「ええ、本当に。私、あんなに笑ったのは初めてかもしれません」


「涙まで浮かべていましたからね」


「もう、からかわないでくださいませ」


 穏やかなやり取りの中、不意に人だかりの向こうに、見覚えのある色彩を見つけた。


「オレは言ったはずだ。この事業は、我が家が主導権を握るべきだと」


 かつての婚約者、ロレンツ様だった。

 伝統的な装束を脱ぎ捨て、野性的で威圧感のある装いに身を包んでいる。周囲の貴族を圧倒するその姿は、一見すれば劇的な躍進を遂げた勝者のようにも見えた。


「あの方……随分と雰囲気が変わりましたね」


 セドリック様が、純粋な感心を含んだ声を漏らした。

 確かに、周囲は彼の変貌を称賛し、新しい婚約者の女性も、自慢げに彼の腕に指を絡めている。


「ええ、本当に」


「頼もしくなったと、そう思いませんか?」


「そう見える方も、いらっしゃるのでしょうね」


「アメリアには、違って見えると?」


 称賛の眼差しの中で、私にだけは、全く別の景色が見えていた。

 彼が今、どのような場所に立っているのか。それが私には、手に取るように分かってしまう。


「……お可哀想に」


 自分でも驚くほど、そぐわない言葉が零れた。

 セドリック様が不思議そうにこちらを振り返る。私はただ、石畳の上に散らばる光の粒子を見つめ、微笑みを返すことしかできなかった。


「おや、どうかしましたか?」


「いいえ、何でもありませんわ」


「冷えますか? 外套を貸しましょうか」


「ふふ、大丈夫です。少し、夜風に当たって帰りましょう」


 私はもう、この温かな光の中にいる。


     ◆ ◆ ◆


 琥珀色の光がサンルームを満たしていた。

 空気の中を漂う光の粒子を眺めながら、私はセドリック様の手元をぼんやりと見つめている。古い羊皮紙の上を、彼の細い指先が滑るように動いていく。その所作を見ているだけで、呼吸が自然と穏やかになった。


「この箇所、アメリアならどんな風に言葉を補いますか」


 琥珀色の瞳を細めて、セドリック様が問いかける。かつての私なら、即座に『正解』を計算したことだろう。けれど今は違う。胸の奥にじわりと滲む何かを、私はそのまま言葉にしてみた。


「……そうですね。私なら、『失われた色』を嘆くのではなく、『新しく描き込まれる線』への期待を記すでしょうか」


「それは、とても素敵な主観だね」


 彼が穏やかに微笑んだ、その時だった。

 荒々しい足音が廊下を叩き、扉が乱暴に開け放たれる。そこに立っていたのは、父バルトだった。穏やかだった空気が、一瞬で張り詰める。反射的に背筋が伸びた私の隣で、セドリック様の落ち着いた香りだけが、かろうじて呼吸を繋いでくれた。父は私を睨みつけ、尊大な態度で口を開いた。


「アメリア! こんなところで、いつまで油を売っているのだ」


「子爵、どうされましたか?」


「セドリック殿、本日は娘に家の用向きがありましてな。身分の差というものを、改めて説かねばならんと思い至ったのです」


「身分の差、ですか」


「そうだ。侯爵家の三男であるセドリック殿と、我が子爵家の娘では釣り合いが取れん。アメリア、お前からも身を引くと言え」


「俺の方から、拒否します」


 セドリック様の低く落ち着いた声が、サンルームの空気を切り裂いた。父が目を見開くよりも早く、彼は杭を打ち込むように父の視線を捉えて離さなかった。


「子爵、あなたが仰っているのは身分のことではないでしょう。俺の父であるマーロウ侯爵から、何か魅力的な『吹き込み』があった。例えば、俺とより条件の良い家門の縁談を成立させるために、今の婚約を解消させれば、子爵家に莫大な後援を与える、といったような……違いますか? 俺の父が息子を『道具』として扱うのと同じように、あなたもアメリアを『在庫』として処理しようとしている。その浅ましい計算が、この光の中で、これほど醜く映るとは思いませんでしたよ」


「な……何を無礼な! 無能な三男坊の分際で!」


 父は顔を真っ赤にして開き直った。そして、脅すような目を私へ向ける。


「アメリア! 侯爵家の要請だぞ! お前がセドリック殿を説得し、この婚約を解消させるのだ。子爵家の娘として生まれたからには、上位の家門に従うのは当然の義務だろう!」


 怒号を浴びた瞬間、肺が浅く強張った。指先から血の気が引いていく。かつての私なら、ここで息を止め、心を殺して父に従ったことだろう。けれど今、胸の奥には自分の意志で吸い込んだ、確かな重みの酸素が満ちている。


「お父様。その言葉は、もはや私を縛る鎖にはなりません。あなたが『義務』と呼んでいるものは、ただの茶番です。たとえ私が心にもない言葉でセドリック様を説得しても、彼がそれに従うはずがない。私はアメリア・ヴォルテスとして、セドリック様との婚約継続を、自分自身の心で望んでおります」


 父は口をはくはくとさせた後、今度は実利という名の醜い言葉を並べ始めた。


「……狂ったか、アメリア。侯爵家の意向に逆らえば、我が家は潰されるのだぞ! 逆に従えば、和解金として莫大な富が約束されているのだ。お前一人が我慢すれば、家は救われる。それがどれほど大きな価値か、分かるだろう!」


「和解金、ですか。それが実体のあるコインとしてあなたの手に届くことは、決してありませんよ」


 セドリック様が、冷ややかな微笑を湛えて告げた。その声には、侯爵家の内情を見透かしている者だけが持てる、静かな確信があった。


「俺の長兄──つまり次期当主とは、既に話がついています。野心的な兄は、父をこの機会に表舞台から引きずり下ろそうと狙っている。俺がアメリアとの婚約を維持することは、兄にとって父の失態を突く絶好の武器になる。これがどういう意味か、子爵ならお分かりでしょう」


 父の顔から、みるみる血の気が引いていった。まるで糸が切れた人形のように膝が折れかけるのを、私はただ静かに見つめていた。父が必死にしがみついていた方程式が、音を立てて崩れ落ちていく。


「お引き取りください、お父様」


 父は呪詛のような言葉を吐き捨てて、逃げるように去っていった。

 再び訪れた沈黙には、どこか凛とした重みがあった。セドリック様がゆっくりとこちらを向き、一歩歩み寄る。彼の温かな体温が近づいて、私は少しだけ口元を緩めた。


「……セドリック様。一つ伺ってもよろしいですか。あなたは、本当は『無能な三男』などではないのでしょう?」


「無能、というのはね……野心が俺に欠けているのを見て、父がそう言っているんだ。俺には、そんなことよりも大切な、守りたいものがあったから。だからこそ、君と生きていくために、俺なりに努力は重ねてきたつもりだよ」


「アメリア。出会った頃の君は、凍りついた泉のように静かだった。けれど今の君は、自分の意志で呼吸をし、自分の言葉で世界を彩っている。その変化が、俺にとって何よりの救いであり、奇跡なんだ。……俺は一人の男として、君を愛している。役割でも契約でもなく、君という存在そのものを、隣で支え続けたい」


「……はい。私も、同じ思いです。誰かの期待に応えるためではなく、私自身が、あなたの隣にいたいと願っています。私を、私として見つけてくださって、ありがとうございます」


「実は兄から、領地の運営を補佐してほしいという具体的な打診を、二人分もらっているんだ。視察で各地を回るのは、君の気質には案外向いているかもしれないね」

「それは、素敵ですわ。……ふふ、何が見られるか楽しみです」


 そっと指先を重ねた。秋の冷たい空気とは裏腹に、彼の指は確かな温もりを帯びていて、その熱が胸の奥までじんわりと沁みていく。


「ロレンツ殿もすっかり変わって、今や婚約者と共に社交界の花形だ。互いに良い縁を結べたのは幸運だ」

「私もあなたと出会えて幸運でしたわ」


 私はあえて、そう答えました。

 だってわかるのです。ロレンツ様の気質ならきっと、今は――


     ◆ ◆ ◆




 祝祭の音楽が鼓膜を打ち、濃いムスクの香りが鼻腔にまとわりつく。

 僕は――いや、『オレ』は、今この瞬間も完璧に演じ続けている。

 ヴォルテス家との婚約解消は、社交界ではすっかり美談に仕立て上げられていた。あの無機質だったロレンツ・クロイツが、公爵令嬢に相応しい野性的な騎士へと生まれ変わった、と。それこそがこの国の社交界が求める『正解』であり、家の利益にかなう最善の帰結であるはずだった。


「……ええ、実に素晴らしい夜ですね」


 低く(かす)れた声を意識して作りながら、オレは隣の女の腰に手を回す。頬の筋が引きつるのを奥歯で噛み殺す。仕立ての良い装束の下を、冷たい汗が背筋を伝い落ちていった。

 公爵令嬢エラ・ベルモンド。この女が求めているのは、対話のできる伴侶などではない。自らの美貌と権威を引き立てる、従順で見栄えのする『人形』だ。

 彼女の指がオレの腕を引き寄せた。絹ごしに、爪が肉へ食い込む。所有を示す印。オレという人間が、彼女の管理下に置かれているという、紛れもない事実の刻印だった。


 会場の向こうに、光の粒子がひと際明るく溜まっている一角があった。

 かつての同盟者が、そこにいた。

 アメリア・ヴォルテス。オレと同じように、家門の掟に縛られ、血の通わぬ人形として生きていた女だ。だが今、彼女を包むのはシャンデリアの照明ではない。もっと柔らかな、内側から滲むような輝きだった。

 彼女はセドリックの手を取り、自分の意志で微笑んでいる。その指先がセドリックの袖に触れる仕草に、かつてのあの強張った癖は、もうどこにもない。

 その光景を目にした途端、頭の奥で何かが(きし)んだ。錆びた蝶番を無理にこじ開けたような、嫌な音だった。


 アメリアが切り捨てられたあの日、オレはあれを妥当な帰結だと受け入れた。個人の感情など誤差に過ぎない。それがクロイツ家の跡取りとして叩き込まれた唯一の答えだった。

 だが今、あの日の直後にエラと初めて会った時の記憶が、このムスクの臭いに混ざって蘇ってくる。


「まずはその退屈な服から変えましょう。あなたの『正しさ』は、わたくしの隣では不備でしかありませんわ」


 彼女はオレにとって楽な装束を、一瞥で切り捨てた。

「あなたはわたくしの作品になるのです。わたくしに相応しい男は、わたくしが仕立てなければなりません。これは救済ですのよ」

 あれは提案ではなかった。宣告だ。公爵家の令嬢である彼女は、我が家が高みへ登るために欠かせない梯子だ。逆らうという発想そのものが、オレには許されていなかった。

 言われるままに髪を崩し、肌を晒し、本来の気質とは正反対の荒々しい男を演じる日々が始まった。話し方が変わり、一人称まで『オレ』に塗り替えられた。

 実利と引き換えに行われた、緩やかで、徹底的な自己の抹殺。


 劇場でアメリアを見かけたあの夜も、エラは隣で『もっと情熱的に振る舞え』とオレを責め続けていた。

 アメリアの背中が目に入った瞬間、声をかけようとした。いや、あれは助けを求めようとしたのだ。かつて同じように、与えられた役割の中で息を殺していた彼女に。

 だが、声にならなかった。今のオレの口から出る言葉は、すべてエラに仕込まれた台詞でしかない。オレ自身の声など、喉の奥のどこを探しても残っていなかった。

 アメリアはオレに気づくことなく去った。彼女が纏っていたジャスミンと、雨上がりの土の匂い。あれこそがオレの失った唯一のまことだったのだと、後になって、骨の髄まで思い知った。


「ロレンツ様、先ほどの領地の件ですが、いかがお考えで?」


 知人の貴族に声をかけられ、意識が引き戻された。

 オレは反射的に、求められている『豪放な笑い』を顔面に貼りつける。

「ああ、あの件か。心配はいらないさ。オレが手綱を取れば、荒れ地だろうと極上のワイン畑に変えてみせる。なあ、エラ?」

「ええ、もちろんよ。あなたのその力強さこそ、わたくしが選んだ理由ですもの」

 エラが満足げにオレの胸を撫でた。その芝居がかったやり取りに胃の腑がせり上がり、一瞬、視界が白く(くら)んだ。

「それで、具体的な方針なのですが……」

 知人がさらに踏み込んでくる。その期待に満ちた目を見た瞬間、オレはただ、かつての静寂が欲しかった。

「ああ、もちろんだ。……僕、は……」


 血の気が引いた。

 矯正されたはずの、古い一人称だ。封じ込めていたはずの『僕』が、意識の隙間から零れ落ちた。

 隣のエラの空気が、剃刀(かみそり)のように研ぎ澄まされるのが分かった。

 彼女は笑みを崩さないまま、オレの耳元に唇を寄せて囁く。重い重いムスクの臭いが、頭の芯を乱暴に揺さぶった。


「ロレンツ。もっと野性的に、俺様らしく振る舞って。わたくしの期待を裏切るなんて、許さないわよ。あなたは、わたくしだけの持ち物なのですから」


 美しく、冷たい、呪いの言葉。

 痛みがオレの中身を叩き直す。焼けた鞭で背を打たれたように、体が勝手に『役割』の形に戻っていく。

「……すまない。オレとしたことが、少し夜会の熱気に当てられたようだ。領地のことはオレに任せておけ」

 エラが好む粗野な笑みを作り、知人の肩を叩いて大げさに笑ってみせる。

 その滑稽(こっけい)な芝居の裏側で、何かが決定的な音を立てて砕けた。


 アメリアとセドリックが、テラスへ歩いていくのが見えた。

 二人の足取りは驚くほど軽い。何にも縛られていない、自由というものの形をしていた。

 アメリアは今、自分自身の言葉で話し、自分の目で世界を見ている。

 かつてオレと彼女が分かち合っていた、あの無機質な安らぎ。

 互いに人形であることを黙って認め合い、その空虚さの中でだけ、何者でもない自分でいられた。あの静かな聖域。


 それをオレは、自分の手で離したのだ。家の繁栄という実利のために。

 その報いが、この、他人の色で塗りつぶされたオレだ。

 いや、オレではない。ぼくは、ほんとうは、だれだったのか。

 あめりあ、きみは、あんなにきれいな、ひかりのなかにいるのに。

 ぼくは、おもく、くるしい、けもののにおいのなかに、とじこめられて。

 もはや、ぼくには、もどれない。

 エラの、にんぎょう。オレは、だれの、どうぐだ。

 ぼくなのか、オレなのか。わからない。

 アメリア、タス、ケテ。ボクハ、ココニ、イル。

 シカイガ、マックロニ、ヌリツブサ、レ、テ。

 ボクハ、ダレダ。オレハ、ダレダ。

 アメリア。ボクハ、キミト、アノベンチデ、タダ、ナニモセズニ――

 家から命じられた「役割」に従って生きてきたアメリアとロレンツ。似た者同士だったので、アメリアだけは婚約解消後のロレンツの状況に気づいていました。

 将来的にロレンツはエラと結婚し、伯爵家を継ぎ、一見すると華やかな成功者として生きていきます。それが幸せかは――別の問題ですが。


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