3
公爵家長女、アリアナ・ド・ベルフォール。
その美貌は国境を越えて知れ渡り、彼女の元には数百を超える縁談の申込書が、まるで供え物のように積み上がっていた。
そのリストの中に、サヴォワ王国皇太子、ブリオッシュ・ド・サヴォワの名を見つけた時、アリアナが嬉々として彼を選んだのは何の不思議もないことだった。
学園での彼女は高嶺の花そのものだった。
非公式のファンクラブが組織され、後輩の女子生徒たちからは神を崇めるような恍惚とした視線を送られる。
何もかもが順調。すべてが完璧。一点の曇りもない人生。
そう――聖女が学園に編入してくる、あの日までは。
聖女マノン・フルニエは、眩しいほどに無害で、人懐っこい庶民の娘だった。
誰にでも分け隔てなく接する彼女は、貴族という存在への畏怖が欠落していた。
それゆえに、アリアナの懐にも、子犬のような無邪気さでするりと入り込んできた。
「ねえねえ、アリアナ様ぁ。王子様との恋愛って、やっぱり大変なんですかぁ? 苦労とか、秘密の悩みとかないんですかぁ?」
「……そうね。まったくないと言えば嘘になるけれど、それ以上に今は、とても幸せだわ」
「えっ、苦労! あるんですね! ぜひ詳しく聞かせてくださいっ!」
「……あんまり、人にお話しすることではないわね」
「私、アリアナ様と喜びも苦労も分かち合って、本当の親友になりたいんです! 何でも話してください! 私、絶対に誰にも言いませんから!」
そう申し出てきたマノンに、アリアナはあっさりと心を許してしまった。
美貌に守られ、育ちの良い上流階級の人々に囲まれて生きてきた彼女には、マノンの瞳の奥にある歪みを見抜く術がなかった。
アリアナは、ほんの少しの、恋人同士なら誰でも抱くような愚痴をこぼした。
「殿下ったら、この前お会いした時、私があげたバングルをつけていらっしゃらなかったの。……もちろん、つけてきて欲しいと言ったわけじゃないし、何を身につけられるかは殿下の自由なのだけれど。ほんの少し、寂しかっただけなのよ」
◇
その「秘密」は、翌日には形を変えて学園中を駆け巡った。
「ねえ、聞いた? 殿下とアリアナ様、もう破局寸前らしいわよ」
「えっ、あんなにお似合いなのに?」
「殿下、アリアナ様からのプレゼントを、拒否して身につけないんですって」
「うわあ……それって、明確なお断りのサインじゃない」
「もう、殿下には他に女がいるんじゃないの?」
その日の午後、アリアナは重苦しい空気の漂う生徒会室に呼び出された。
ブリオッシュが、沈痛な面持ちで口を開く。
「……アリアナ。急に呼び出して済まない。何か誤解やすれ違いがあったのだと信じたいが。……僕があのバングルを身につけていないのには、相応の理由があって」
「ええ、わかっていますわ。殿下、どうか噂なんてお気になさらないで。私は貴方を信じていますから」
「ならいいんだが」
言葉とは裏腹に、二人の間には、それまで存在しなかった一抹の不穏な風が吹き抜けた。
◇
その後も、マノンという触媒を通じ、新たな噂が次から次へと生み出されていく。
「どうなっているんだ! 僕はアリアナだけを愛しているというのに、なぜ僕が彼女を疎んでいるなどという話が流れる!」
苛立つブリオッシュに、マノンはすっとぼけた顔で、あざとく首を傾げた。
「そうですわよねぇ! とっても奇妙な噂ばかり流れて……いったい、誰がこんな根も葉もないことを言っているんでしょうねぇ?」
マノンの白々しい受け答えが、王子に誤った「気づき」を与えてしまった。
「よく考えたら、最近のアリアナはどこか余所余所しい。僕を避けているようにも見える。……もしかして、僕に非があるのではなく、アリアナの方にこそ、別の男がいるんじゃないか?」
「そんなことは……ないと思いますっ!」
マノンは、わざとらしく意味深な溜めを作った。
その溜めに、王子はすかさず突っ込んだ。
「今の間は何だ。……マノン、君はアリアナと仲が良いだろう。何か知っているんじゃないか?」
「いえ、私の口からは……何も言えませんっ!」
嘘は言っていない。
マノンは一言も、アリアナが浮気をしているとは言わなかった。
ただ、相手が勝手に誤解するように、巧みに誘導しただけだ。
その瞬間、王子の疑念は確信へと変わった。
「……あの女、僕を裏切っているのか」
破滅の足音が、すぐ背後まで迫っていた。




