花見と温泉
数日、長旅の疲れを癒し、ゆっくり過ごした後、大坂へ向かい、忠三郎は秀吉の供の人数に加わって、吉野へ旅立った。この吉野での花見は、思いも寄らず素晴らしく癒やされ、気分転換にもなった。
古来より吉野は花見の名所。全山に桜が咲き、まるで山に雲がたなびくようにも、霞がかかっているようにも見える。
遠くから山全体を眺めるのも素晴らしい。だが、その桜の群だちの中に入ってしまっても、夢路に迷い込んだようだ。
どの顔も穏やかに笑っている。忠三郎も陶然と微笑を浮かべていた。
花垂れ下がる枝を間近に見たり、姿のよい木を少し離れた所から眺めたり。また、花を下から空と一緒に眺めると、より美しいと感じる。
(花筏だ)
空の青と白い花。まるで天空の水面にたゆたう花筏を、水底から見上げているような。
(可愛いな……)
花びらはきれい。可愛いと忠三郎は思う。
木は一本一本違う。花の色も形も。それぞれに個性を持っている。
花の中を歩くうち、一際白く輝く一本を見つけた。
天空から雲が降ってきて、この木を被ったか。春風に吹き飛ばされた残雪がこの木に宿ったか。それほど白く、日に輝いて眩しい。
そういえばと、不意に、昔自分で詠んだ歌が脳裏によみがえった。
雪か雲かとばかり見せて山風の
花に吹き立つ春の夕暮
忠三郎は目を細め、その木に寄った。
花弁は溜め息が出るほど完璧な造形をしていた。理由もなくつい触れると、忠三郎の指に花粉を付けて、花びらはさらっと散ってしまった。
(おっといけない!)
力が強過ぎたか。
その時、やわらかな風が微かに吹いて、花びらを数枚ふわりと舞わせた。
頬の皮膚に笑いが浮かんでくる。
(なるほど、同じだ)
ふふっと一人、笑ってしまった。
(風の恋だな)
冬姫の色っぽい言葉を思う。
「そなたは、触らないで、ただ見ていてと訴えているのか?」
花に話しかけ、ふうっと息を吹きかけた。はらりと一枚散っていく。
「そなたがあまりにも美しいから、風も我慢できずに触ってしまったのだよ。恋をして、見ているだけでは堪えられないのが風の性というものだ」
男というもの──好きなものには触れずにいられない。短絡的な性。花は儚くなってしまうのに。
美しいがために魅入られて散らされる。優れたものほど散り急ぐのはそのためか。
吉野から京へ帰ると、忠三郎は、
「籍は馴染めたのかな?」
と、嫁いだ籍姫はもう新しい生活に慣れたかと、心配を口にした。
「ええ、前田家の皆様はとても良くして下さっていますから」
冬姫は朗らかに答えた。
実は忠三郎が会津に行っている間に、籍姫は隣の気安さもあって、何度か蒲生家に来訪していたが、正月を過ぎた頃、一度、蒲生家と前田家との違いに軽い戸惑いを見せたことがある。
前田利政のもとへ、正月の挨拶に来た家臣達への手土産を、蒲生家から籍姫に付けた老女達が用意しておいたのだが、籍姫はそれを手渡せる状態にして、一つ一つに会津の起き上がり小法師を添えた上で、並べておいた。夫の利政は、
「そなたが用意したものなのに、何故自分の手から家臣達へ直接渡さないのか。我が家では母上や姉上達が、何でも自分の手でやる」
と言って、籍姫に家臣一人一人へ配らせたのだという。
「母上はいつも、支度だけしておいて、家臣達に直接手渡すのは、父上でしょう」
前田家で冬姫のやり方をしたら、家風の違いに戸惑ったというのだ。
「それで、ご家中の籍殿への評判は良くなったのではありませんか?」
「評判は知り得ないけど、皆喜んで、親しんでくれました。起き上がり小法師が良かったのかしら?」
「嫁いだばかりの籍殿に、初めて年始の挨拶に来た家臣の方々は、興味津々でしょうし、不安もあったかもしれません。籍殿が自ら土産を用意して、手ずから渡したら、ご家中の評判は良くなったはずです。前田家は、籍殿や籍殿を育んだ蒲生家に、気を使って下さったのですよ。有難い御家ですね」
利政の、籍姫への気配りなのだと、良い夫君で良かったと冬姫は喜んでみせた。それで、戸惑い、少し悩みさえした籍姫は安心した。
「このような些細なことで、父上を煩わせてはなりません。父上にはこのお話はなさらないように」
冬姫はそう言ったが、籍姫は、父の家臣からの評価を上げるために、母はいつも用意だけしているのだろうかと思った。確かに、忠三郎の気配り、思いやりに、家臣達はいつも感謝している。
そのようなこともあったが、それだけに籍姫は前田家で大事にされている証拠であるし、冬姫は忠三郎に、案じることは何もないと言った。
忠三郎は安堵し、己の役目に集中する。彼はまた休む暇もなく準備にかかった。
秀吉は今、伏見に城を築いている。そのため、蒲生家もその地へ屋敷を建てねばらならかった。
伏見城はまだ完成していないが、蒲生屋敷はできつつある。そこへ秀吉がやって来るというのである。
至急完成させて、御成の支度を整えなくてはならない。
「本当にお忙しいこと……」
このままでは使い殺されてしまう。冬姫は日々駆け回る忠三郎を心配した。
その一方で、ここまで動けるようになったことが嬉しい。一年前に下血したとは思えない。
毒素は完全に体外に排出されただろうか。それだけが気掛かりだ。
顔色もよく、元気な忠三郎が、久しぶりにくすんだ色を見せたのは、夏になってからのことであった。
「伏見屋敷に太閤を迎えなければならないが……その、冬さまにもご同席頂かなければならなくなったのです」
「私が表に出て行くのですか」
とはいえ、天下人のお渡りともなれば、臣下の妻も出迎え、もてなさなければならないだろう。
「かしこまりました」
冬姫は快諾した。だが、忠三郎の顔色が冴えない。
「どうかなさったのですか?」
まさか具合が悪いのかと慌てたが、忠三郎は何でもないと首を振った。
「三条殿(とら姫)もお越しとのことです」
「それは楽しみですね。それなのに、どうしてそんなに暗いお顔なのです?」
「……」
何とも言いようがない。
(秀吉め、何故急に冬さまを思い出したのだ?)
近年、秀吉には子が二人できただけに、子に夢中で、またその母の茶々を寵愛しており、冬姫からは気が逸れていたと思っていたのに。
忠三郎は冬姫を聚楽第から嫌々連れ出し、伏見に移った。
そして、秀吉が三条殿と共にそこを訪れた。蒲生家では豪勢な饗応をしなくてはならず、前々からの準備も含めて大変だったが、特に当日はてんやわんや。裏では特に戦のようだ。
表では華やかに、整然と秀吉を迎える。
冬姫も忠三郎の後ろに控えて迎えたが、上機嫌でやってきた秀吉は、彼女の姿を見た途端、愕然とし、そのまま陶然と無遠慮に見つめ続けた。
忠三郎や三条殿だけではない。さすがに、蒲生家の家臣達も異変を感じ、こそこそと目配せし合っている。
冬姫も何事かと思った。
(まずい!家臣達にも気付かれたぞ!)
忠三郎は冬姫を思い、秀吉の気を逸らそうと、自慢の庭木の話題でも振ろうとしたところ、秀吉は冬姫目掛けて歩み寄り、目の前で膝をついた。
「はああ、何と、冬姫さま、少しもお変わりなく……いいや、さらにお美しく艶やかであらせられる……お若いですなあ、お子をお産みになって、ますます嫋やかに、お綺麗になられて。いったいお幾つになられたのですか?」
容色は衰えるどころか、色香が増し、十代の頃よりも、さらに秀吉の好みになっている。それに、二十歳前後にしか見えない。若さをそのままに、そこに艶やかさだけを加えたように見えた。
「……それがしより五つ下でござる」
秀吉の供廻りや蒲生家の者達も多数いる中、女性の年齢を言うのも憚られ、忠三郎はそう答えた。
「えっ、左様か?いやお若い。姫さまは不老不死の天女さまか?十七、八とも見えるぞ」
さすがにそれはないだろうと、冗談だと思って冬姫は笑って答えた。
「それが誠でございましたら、私は余程長生きするのでございましょう。常人の二倍、百まで生きるかと存じます」
いくら老けないとはいえ、百にもなったら老婆だろう。
「ひゃひゃ、姫さまは面白い。なるほど、だから普通より老いるのに二倍の時を要するのですな。とはいえ百を越えたら、さすがに皺もありましょうなあ」
それは困るなあと秀吉は笑って、
「のう、忠殿」
と、忠三郎に同意を求めた。
「……は」
「だそうじゃ、姫さま。忠殿は姫さまが若くないと嫌じゃとよ」
「まあ、では早く死ぬことに致します」
冬姫は莞爾と答えた。
「わしゃ別に見た目なんぞ、どうだって構わんがのう。醜い醜い醜いと、醜いとしか言われたことのないわしに、初めて勇気を下されたお方じゃからのう、冬姫さまは」
六指を褒めて慰めた幼かった姫は、大人の女性になって、今も秀吉を魅了する。
「忠殿は若い美女でなきゃお嫌だそうじゃから、長生きして皺が出てきたら、わしの所へおいでませ。わしが面倒見てあげましょ」
忠三郎も三条殿も、そして秀吉の供も蒲生家の者も、凍り付いた。
冬姫もはっとした。秀吉の瞳を見つめ、青ざめる。
秀吉が冬姫を狙っているという噂は、この時から広まった。そして、冬姫自身も秀吉の邪心に気付いたのだった。
そのしばらく後で、体調のすぐれない秀吉は、有馬湯山温泉で湯治した。供を命じられた忠三郎も、前田利家等と一緒に、数日湯治生活を送った。
その間、とら姫や本願寺准如とやりとりをしており、秀吉もいたことなので、単純に湯治や遊びとは言えない。湯は気持ち良いが、正直心からはくつろげなかった。
ただ、短期間での会津との往復、吉野への花見と、長距離移動が続いたので、有馬までの移動は疲れはしたものの、湯は彼の身体に良く効いた。
また、時間もあったので、前田利家とはじっくり話もできた。
利家の嫡男・利長(利勝)は忠三郎と相婿だったが、数ヶ月前からはそれだけの関係ではない。利家鍾愛の次男・利政は忠三郎の娘婿となったばかりだ。
利長と利政は歳が離れていて、同母兄弟とはいっても、共に遊んだ仲ではない。利家は自分そっくりな質の利政が可愛くてならず、子のない利長にこのまま男子が生まれなければ、利政を利長の養嗣子にして、前田家を継がせたいと考えるようになっていた。
何より舅に、忠三郎を持つことになった。蒲生氏郷というこの上なく強大な後ろ楯がある利政なればと、ますます利家はそう思う。
これまで、弟のような、息子のような存在だった忠三郎が、我が子の舅となった。互いの息子、娘の舅同士として、これまで以上に親しく語り合った一時であった。
忠三郎も安心しきって利家に籍姫を頼んだ。
心身すっかり快復して、京の冬姫のもとに帰ったのだった。




