東風
明けて文禄三年(1594)二月。
忠三郎は近江にいた。十一月末に会津に着いて、年明けにはもう上洛するために、会津を出ている。
今日はその旅の最後。
急がずとも、今日のうちには京に着くはずである。しかし、故郷を前にして、彼は去りがたく思われて、草津に泊まることにした。
一ヶ月かけての長旅。
明日は京の屋敷に入って、冬姫と再会できる。しかし、すぐに大坂城へ赴かなければならない。
秀吉が吉野へ花見に行くという。同行を命じられたのだ。そのための上洛でもある。
年末に会津に戻ったばかりでこの強行軍は、さすがに今の彼には身に堪える。とはいえ。
「花見には丁度良いか」
馬の背から伸び上がって見回せば、周囲の桜は蕾が膨らみ、いよいよ開花が迫っている様子。
下旬に予定の秀吉の花見。丁度満開だろう。
前の宿では、行列の者全てを着替えさせ、美々しく雄々しく飾り立てた。全ての馬沓を新品にした程、その支度は抜かりなく。忠三郎の一行は、近江は堂々と行かねばならない。
近江路を南下し、いよいよ故郷の日野の近くを通ると、沿道の人々の歓声に包まれるようになった。
立派だとか、懐かしいとか、全て肯定的な感想である。
見慣れた景色で、忠三郎は懐かしい。
「ああ、この匂いよ」
匂いまで変わらなかった。
草津まではまだ先だ。安土城の威容さを胸に思っていると、込み上げてくるものがある。
「まだ日は九天に差し掛かっておりません。寄り道しても、明るいうちに草津に着けましょう」
不意に、横を行く町野左近繁仍が飄々と言った。その町野の髪には白い物が見える。
(町野もそのような年齢か。望郷の念は私よりも強いのかもしれない)
ふと、忠三郎は傅役だった初老の腹心に、不憫な気持ちがわき起こってきた。
「余りな長旅で日付をつい忘れるが、二月七日だったかな、今日は。松坂を出たのが三年前の今日だった」
小田原への出陣のために、松坂を出たのが三年前。小田原で勝利すると、そのまま秀吉は奥州を制圧。忠三郎は会津領主に任じられたのだった。
思えば、遠い陸奥への旅の始まりが、三年前の今日だったのである。
「ちと、寄り道するか」
丁度分岐点。左へ行けば、日野。忠三郎の故郷であるばかりか、この町野はじめ多くの家臣達の故郷である。皆の先祖が眠る場所。
彼らの感傷を思い、日野が見える所までなら、寄り道しても構うまいと考え、忠三郎は道を左へ、蒲生野を行く。
進めば進む程、見慣れた景色。だが、どうしたことか、今日の忠三郎が思い出すのは、信長が非業の死を遂げ、あの天下に轟いた安土城から、信長の家族と共に逃げてきた時のことだった。
知らず、涙が込み上げてくる。手弱女の冬姫は涙を他人には見せないが、どうにも忠三郎には無理だ。
「そうだ」
泣くまいと喉に力を入れると、不意に思い出した。
「蒲生野といえば。奥のおくるみ。蒲生野の紫草で染めた布だとか。奥は桐箱に入れて、今でも大切にしているのだが──」
隣を進む町野に語り始めた。
「端が裂けているのだ。何でも亡き上様がその昔、悪戯小童を助けてやったとかで。あの桜の木の下で」
彼方に大きな桜の木が見えてきた。昔、近くに佐久良城があって、忠三郎の叔父・小倉実隆が城主だった。
「殿はお小さい頃から、よくあの桜を愛でておられましたなあ。御方様が嫁いでこられてからも、お二人でよく花見にお出ましでした」
町野がしみじみと言う。
忠三郎が幼い頃から親しんだ木でもある。彼と同じように、あの桜を愛でた悪童がいたのだ。そして、その子は信長と出会った。
「永禄二年、上様はまだ尾張におられたが、時の将軍足利義輝公に謁見されるためにご上洛なされ、その帰り道、八風越えをなさろうと、この辺りをうろうろされていた時だったそうだ。あの桜の木の下を通られて──」
幼い童と出会った。
まだ花は一枝しか咲いてはいず。童はその咲き初めの枝を折ろうと、従者の背を踏み台にしたり、跳びはねたりした。しかし、枝は童には届かず。
童は別の枝を掴んだが、その拍子に枝で手を切り、掌を負傷した。
たまたまそこを通りかかった信長が、童の手当てをしたのだ。
「包帯はお持ちではなかったそうだが、懐に、京土産に買われた紫草染めの上布があり、その端を裂いて包帯の代わりとし、悪童の手に巻かれたのだとか。奥が上様から聞いた話だそうだが」
「ほお?」
「悪童めは、桜が散るのを見るのが嫌で、花が散る前に咲き初めの枝を折って、持ち帰ろうとしたのだと、上様に言ったそうだ」
「風が吹いたら、咲いたばかりの若い花であっても、風によって散らされてしまうからですか?」
町野が変な表情をしている。
「そのようだ、よくわかったな」
町野はさらに口もとを歪めた。
蒲生家の一行はどんどん桜の木に近づいていく。やはり、まだ開花していないようだ。
いよいよ桜の木の前に至った時、日当たりのよい高い所にある一枝に、五輪ほど咲いているのが見えた。馬を止め、馬上からそのまま花を見上げる。
「おお、咲いているではないか。風が花を散らす、か」
「嵐の如き強風は、うば桜ばかりか、かような咲いたばかりの花であっても散らしますからな」
「風の恋だよ。咲き初めの花は愛らしい。初々しく美しいものには触れずにいられない。風の心とは、男と同じで……」
「ぶっははは!」
堪えきれないように、町野は吹き出した。
「なんだ?趣のわからぬ奴」
風の恋。これは以前、冬姫が言ったことだ。彼女はなかなか色っぽいことを言う。
しかし、
「優れたものは、風に魅入られ、災難ですなあ。がはは」
と、町野はげらげら笑い続けていた。
「なるほど、その御子は風と同じですな。上様はその御子に、『咲き初めの花を手折るは、そなたが風になったのと同じことよ』と、お叱りになられたのでございましょう?」
「そうだ……む?」
何か変な気がして、忠三郎が横を向いて町野を凝視すれば、町野は自身の懐をまさぐっている。
「上様も殿も、お忘れとは……」
赤地錦の香袋を取り出した時には、むしろ悲しげな表情に急変していて、忠三郎はたじろいだ。
そして、香袋の中から町野が取り出したのは、紫草染めの麻布の包帯だった。
「町野?」
町野は咲き初めの一枝を見上げるや、突然その包帯を上へと放った。だが、当然のように、包帯は町野の頭の上は越した辺りで、へなりと落ちる。
「くっ!ふぉっ!」
繰り返し、上へと放り投げ続けるのが、何とも滑稽で。
「何をやっているのか?」
「何って、ほれ、あの、花の咲いた枝にこの紐を引っ掛けるのですよ」
と、町野は頭上遥か、高い所にある花の枝に狙いを定めているらしい。
「届くわけがないではないか。さようにひらひらと軽いもの。扇にでも括りつけて、重しにせよ」
幼子でも気付きそうなことをと、忠三郎が呆れていると、町野は振り返って、笑った。
「ははは、同じことを三つ四つの幼き若様がなされば、それがしはお褒め致しますものを」
「……」
「殿、まだ思い出されませぬか?上様の御声は覚えておられましょう?」
はっとして、忠三郎は虚空を見やった。町野に言われたからではない、町野の問いと同時に、信長に呼ばれた気がしたのだ。
「……ああ、町野。鮮明に覚えている」
「では、その上様の御声で、『こわっぱ』、『やや』と呼ばれるのを想像してみて下され」
「は?」
「それがしを馬鹿になさいますがの、幼き日の殿は同じことをなさったのですぞ。しかも、ご自分の袴の腰紐を解いて、枝に引っ掛けようとなされたのです。それがしは褒めて差し上げたのですがの」
その時、また信長に呼ばれた気がして、ざわっと風が吹いた。
一陣の風が忠三郎の目を痛めつける。うっと瞼を瞑った瞬間、蘇った。幼き日の彼の、この木の下での光景が──。
──
町野ら数人の従者が見守る中、三つ四つの幼い忠三郎は、花の咲いた一枝を折ろうと、この木を見上げていた。どうやっても届かない高い場所にあるその枝。
飛び跳ねたり、風が枝をしならせるのに合わせたり。ただただ夢中で、枝を折ろうとして。
不意に幼い彼は袴の腰紐を解いた。
「若様、何なさるんですかっ?」
慌てて駆け寄る町野に、にこにこ笑って。
「あのね、いいこと思いついたの!紐を枝に投げて引っ掛けて、紐を引っ張ったら、枝が垂れて、お花に手届くよね?」
「よく気づかれました」
町野はほめたが、
「ですが、紐を解いたら、袴が脱げてしまいます。見苦しいのは駄目です」
と、彼の腰紐を結わえ直した。
きちんと着せてもらうと、忠三郎は、
「じゃ、他に思いつかないや。わかんない。町野をふんずけるくらいしか」
「ええ?それがしをふんずける?」
「うん、そうだよ。町野、そこに馬の格好してごらんよ。そしたら、鶴、背中に乗って、それで飛び上がったら、お花取れるよ」
「それがしを踏み台になさるとは。勘弁して下さい」
「えええ。絶対届くんだけどな」
その時、再び良い風が吹いて──
「……の……殿!」
現実に引き戻されて、呼ばれた方を見れば、白髪の目立つ町野の顔。今まで耽っていた回想の中の町野とは違って、顔の皮膚もたるんで張りがない。
町野が眉を寄せ、もとから刻ませていた額の皺を、より深くさせている。
この元傅役は、先程香袋から取り出した紫草の包帯を、忠三郎の前に翳してみせた。
「お忘れですか?これは、幼き頃の殿の御宝です。血も泥もついて汚いものを、わざわざ洗って後生大事に持っておられたもの。亡き御父上様が、そのような幼き殿を案じられて、こっそり捨ててしまえと、それがしにお命じになったのでした。それがしは、殿が見ていない隙に、隠してしまったのですが。殿はあれほど大事になさっていながら、全くお気づきになることなく。なくなったことも知らず、そのままお忘れに」
「なんだと?」
忠三郎は町野からそれをひったくるように奪った。
「亡き御父上様の御命とはいえ、さすがに捨てることはできず、今までこうして隠し持っておりました」
近くで凝視すると、見覚えがあった。
この包帯が、ではない。
「……奥の……似ている」
以前見た、冬姫のおくるみに似ているのだ。色や織、布の質感がまるで同じだった。
「幼き日の殿は、ここで先程のそれがしと同じように、紐を投げて枝にかけ、それをしならせようとなさいました」
「だが、それはこの紫草の布ではなく、腰紐だろう?」
「それやそうです。これは包帯ですからの。永禄二年の、そう、確か今日です、殿はここで手を負傷されたのですから」
「今日?」
目が点になる忠三郎に、町野は眉を下げた。
「その後、殿は十三の御歳に上様と再会され。そして、婿にまでなられて。それがし、いつその包帯のお話をするべきかと悩んでおりました。上様とはなかなかお目にかかる機会もなく。お話できぬままに、上様はあのように明智光秀の返り忠に……よもや上様があの時のことを覚えておられたとも思えなかったのですが、ああ、そうでしたか、覚えておられたのですか。それならば、ご生前のうちにお伝えするべきでしたなあ。ご自分の可愛い婿が、あの時の童だと知ったら、どんなにお喜びになられたことでしょうか」
町野は自分の落ち度だと、下馬して桜の幹の前に跪いた。
「申し訳ありませぬ」
忠三郎も下馬し、手綱を藪下に預けて町野の傍らに座る。
冬姫がおくるみを前に、話していたことを思い出す。
ここで昔、信長が負傷した童の手当てをした時のことを。信長や濃姫は、しばしば冬姫に語って聞かせていたらしい。
その内容は、冬姫の口から信長の一周忌を前に聞いた。
それによれば、信長が昔、ここを通った時、この木の下に童がいて。桜の枝を手折ろうとしていた。信長が少し離れた場所から、じっとその様子を見ていると──
──
ちょうど良い風が吹いて、風を読んでいた童は、今ぞと飛び跳ねた。
「わ!」
童は確かに掴んだ、まだ蕾しかない枝を。枝は激しくしなり、べきっと乾いた音と共に派手に折れ、童は枝と一緒に頭から地面に叩きつけられた。
花の咲く一枝は無傷のまま、平然と高い場所に鎮座して、童を見下ろしていた。
「ああっ、若様!」
従者たちが助け起こして。
だが、頭を打ったか、茫然とする童。よろけて、その拍子に右手に掴んでいた枝をぽろりと落とした。
ぽとっと地面に雫が落ちた。掌を仰向けると、夥しい出血で。
蒼白になった従者たちが、止血しようと自身の着物を探ったが、適当なものがなく。そこで信長が声をかけ、歩み寄った。
そして、袂、懐を探ると、紫の大判の布が出てきた。信長はその布の端を細く裂いて包帯にし、童の掌にぐるぐる巻いていった。
──
町野が幹に平伏していた。
腰紐を投げて、枝をしならせようとして町野に止められた幼き日の忠三郎は、単純に跳んで枝を掴む方法をとり、手を負傷していたのだ。その手当てをしてくれたのが信長だった。
忠三郎は十三歳の時に、祖父や父に人質に差し出され、初めて信長に出会ったのだと思っていた。だが、本当はもっと幼い時に、会っていたのだ。
信長も、その思い出の悪童が忠三郎であると気付かず。お互い気付かないまま、舅婿として、ずっと近くにいた。
いや──。
「町野、上様はきっとご存知だったのだよ。三十五年前の今日か……上様のお引き合わせだ。まさか、奥の話に出てきた花盗人の悪童が、私だったとはな。織田信長ほどの男の娘婿になれるなど、どんな幸運だろうかと、我ながら未だに信じられないが」
運命だったとしか思えない。
「この包帯、よく持っていてくれたな。よかったら、返してくれ。明日、奥に会ったら、見せるよ。奥も喜ぶ」
冬姫のおくるみと、この包帯とを合わせてみるのだ。ぴったり合った時の、冬姫の歓喜の表情が目に浮かぶ。
「そろそろ行くか。長居して、草津までたどり着けなかったら、物笑いのたねだ」
忠三郎は冬姫の物の片割れのそれを自分の懐深く納め、再び馬に乗り、桜の木をあとにした。
今日の目的地である草津への道すがら、町野が言ったことは、やはり興醒めなことで。
「御方様が嫁いでこられてから、殿は毎年のように御方様をお連れになって、あそこに花見にいらしていたのです。永禄二年に近隣の良家の幼児が、その花を愛でていたと聞けば、御方様はとっくに、その泣き虫童が殿のことだと、お気付きになっていたのでは?」
ぐふふと笑う。腹が立つやら呆れるやら、忠三郎もつられて笑った。
「そなた、よくもまあ今まで、ずっと黙っていたものだな。克明に覚えているようなのに、私にも奥にも上様にも黙っておって、不忠者よ」
冗談に詰ってやれば、町野は一転、態度を改め、辟易する程しつこく詫び続ける。
「ええい、もう良いから、あの日のことを話さぬか!」
忠三郎がうるさいと手を払えば、ようやく黙って、昔語りを始めた。
「あの日、上様から、咲き初めの一枝を手折ろうとしたのは何故かと問われて、幼き殿は、逆に上様にお尋ねされたのですぞ」
いや、はらはらしたの何のと、町野は大袈裟に言う。
「どうして風は、花を散らしてしまうんですか?」
幼児の忠三郎は初対面の旅人に、そう尋ねたらしい。
「干からびてない、まだ瑞々しい花びらは、散らないのに……」
寿命が来ていないのに、風が吹くと、散ってしまうと、言った。
「昔の私を阿呆と叱ってやりたいが……」
その反面、実は今でも同じようなことを時折思ったりもする自分に、忠三郎は苦笑しか出てこない。
幼い彼の問いに対して、将来、互いに父子になる運命とも知らず、
「散り際ってものだ。一番良い時に散るのが良いのだ。散り際を逸するのは見苦しい。お前もそういう生き方をしろ、良き武士となれ」
と、信長は頭を撫でてくれた。
「せっかく咲き初めた花が風に散らされるのが嫌で、持ち帰ろうとしたのか?だが、枝を折るのは、お前が風になったのと同じだぞ」
信長はそう言うと、名乗りもせずに去って行ったのだという。
「……人の思考というものは、何十年経とうが、幼児の時の発想と変わらぬものだな」
「はあ?」
町野は当然、わけがわからないという顔をしていた。
翌日、京で冬姫と再会した忠三郎は、さっそく彼女のおくるみを出してもらって、包帯と合わせてみた。ぴったりと寸分違わず合ったそれは、紛れもなくもとは一枚の布であったことを証明していた。
「これは、何ということ……」
冬姫はしばし言葉を失い、二、三瞬きすると、彼女の方から忠三郎に抱きついてきて、
「忠三郎さま、忠三郎さま……」
ただ、彼の名を呼び続けた。
その夜の閨は、これまでの二人の夜の中で、最も深くしっとりしたものであった。




