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「これが返事だ!」

 若々しい声がしたかと思うと、白刃が光った。次の瞬間、六角家から遣わされた使者は斬り捨てられていた。

 斬られた初老の男は、虚ろな目を次兵衛に向けている。だが、見つめられているという感じがしない。

 忠三郎がせいせいしたように、立ち上がった。傍らの賢秀が次兵衛に言う。

「我等蒲生は織田家に従うたのだ。他の家になぞ断じて従わぬ。それが長年の主からの誘いであってもな」

 忠三郎がその辺にいた者──何故か顔がはっきりしない──に、男の首を六角家へ送り返すようにと言っている。

 次兵衛が再び男に視線を戻すと、男は目を閉じていて、先程の者とは違う、若者になっていた。それを見ても次兵衛は全く不思議にも思わず──しかも、よく知っている人なのだが──


「──衛殿……次兵衛殿!」

 おかしい。座っているわりには体が楽だ。どうも体の実体が感じられない。

(うむ?寝て……)

「次兵衛殿!」

(起きたぞ……)

 これは夢、夢を見ていると実感したところで、ぱちりと目が開いた。侍女の顔が視界に入る。

 辺りは明るい。腕を枕に畳に横になっていた。

「まったく、真っ昼間から眠っておいでとは。北ノ方様がお呼びですよ」

 うっかり昼寝をしてしまった老人を、侍女はさも汚なそうに見下ろしている。

「おう、こりゃいかん」

 次兵衛の頭の中にはまだ夢が残っていた。ぼんやりした頭に、若き日の忠三郎が、六角家からの再出仕の誘いを断った時の思い出を、夢に見たのかと理解する思考があったが、

「よいしょ」

 起き上がった瞬間に、斬られた男の後にすり替わった知人が誰だったかすっかり忘れた。

「姫さまはどのようなご用向きで?」

 侍女に尋ねて現実に戻ったら、もう完全に夢の内容さえ消えてなくなった。

「殿のご帰還のことです」

 侍女は答えて、忙しそうに、すぐに去って行った。


 その頃、八月。

 秀吉の側室が男子を出産していた。産んだのは故浅井長政の娘・茶々。その母は信長の妹・お市御寮人である。

 秀吉は大いに喜び、その子に会うため、船で大坂へ向かった。

 忠三郎はまだ完治していなかった。とはいえ、秋風が体によかったのか、外出が可能なまでに回復していた。

「動いて支障がないなら、供をせい」

 秀吉はそう命じて、忠三郎を大坂に連れて行った。さらに、そこからは京に帰ってよいとまで言った。

 忠三郎は、ようやく京の屋敷に帰ることができるのである。家族とは一年数ヶ月振りの再会となる。

 大坂から京までの道すがら、河原に藤袴が咲いているのを目にして、摘んでいた。それを手に聚楽第の屋敷に帰ると、冬姫が待ち構えていて、物具解く暇さえ与えず、寝床に臥せさせられた。

「もう平気ですよ……」

「いいえ、いけません。肥前からの長旅だったのです。お疲れになって悪化しておいでのはずです」

 きっぱり言い、仰臥する忠三郎の胸を掛布の上から手で押さえている。

 忠三郎は苦笑しつつ、恐いので従った。藤袴を病床から差し出す。

「土産です」

「まあ、有難うございます」

 冬姫は忠三郎の胸から手を離して、その花を受け取った。

「それにしても、忠三郎様はしばしば私に藤袴を下さいますのね」

 何故と首を傾げる冬姫に、忠三郎は戯れた。

「これは、気が利かなくて申し訳ない。もっと高価な調度などを土産にするべきでしたね」

 肥前土産が藤袴とは、そんな大名がどこにいるかと自虐しつつも笑うと、冬姫も笑顔で首を横に振った。

「いえね、冬様は藤袴がお好きだと思って」

 忠三郎は意味あり気な眼差しを向けると、朗々と吟じはじめた。

「主知らぬ香こそ匂へれ秋の野に誰が脱ぎかけし藤袴ぞも」

 そんな忠三郎を冬姫は怪訝そうに見ていた。

「……少し干して、後で枕辺に置いて差し上げます」

 忠三郎は素直に笑顔で頷いた。それから程なくして、うつらうつらと微睡みはじめる。やはり疲れているのだ。

 冬姫はそっと音もなく病室を出て、藤袴を日干しにする。

 籍姫の輿入れは近い。忠三郎には回復してもらわなければ困る。

 冬姫は病状を詳しく知ろうと医師を呼んだ。

 侍女というのは口さがない。医師を待つ間、早くもおかしな話を冬姫の耳に入れた。

「どうして毒など!」

 冬姫は思わず声を上げた。

 侍女達が忠三郎は毒を盛られたのだと言ったからだ。叫んだきり絶句している冬姫に、侍女達はさらに重ねて。

「名護屋でもそのような噂が広がっていたそうでございます。皆、殿のご病状を病とは思えなかったということです。病にしては余りに不自然」

「……いったい誰が?」

 ややあってようやく冬姫が問うと、

「さ、それは」

と、皆口を濁す。

 言うも憚られる人物ということだ。

 つまり、秀吉。

 しかし、何故か。

「殿は朝鮮を賜るならば、明を討ち滅ぼし、殿下に中原を献上すると大言遊ばしたとか。朝鮮王にしてくれとか、キリシタンの殿が、その代わりに会津は返上すると仰せになったのですもの。きっと危険と思われたのです」

 秀吉はキリシタン領主の多い西国に忠三郎を置いておくのは危険だとして、会津に追いやったのだ。その会津を要らないと言った時点で、怪しまれよう。

 しかし、そう単純なことだろうかと冬姫は思った。

 イエズス会は明で布教することを望んでいたと聞く。だが、明の支配者はスペインでなくてはならない。秀吉に明を奪われるのは我慢ならないはずだ。

 イエズス会は、スペインと友好的でない秀吉による明征服を、阻止したかっただろう。だから、小西行長らキリシタン武将たちは、開戦時から和議を模索し続けていたのではないか。

 或いは。キリシタン武将ほど、朝鮮での戦闘では功績を上げていた。朝鮮を蹂躙し尽くし、明軍を弱らせた上で、和議を模索し続けているのである。朝鮮から撤兵し、あとをスペインに譲るつもりではないか。

 だとすれば、忠三郎の大言はイエズス会やスペインにとって、不都合なものの筈だ。

 忠三郎の発言は裏切り。イエズス会にそう受け取られた可能性はありはしないか。

 一方で、キリシタンである忠三郎が朝鮮を寄越せと言ったなら、秀吉の周辺からも危険と見られたであろう。朝鮮を手にした忠三郎が、それをイエズス会やスペインに献上してしまうかもしれない。

 そもそも、秀吉は本気で明まで手に入れようとしているのだろうか。あれほど調略に長け、戦闘無しでも勝利を手にしてきた秀吉が、一度や二度、朝鮮に同心を断られたくらいで、いきなり朝鮮を襲撃するとは思えない。唐入りは口先だけで、本来の目的は朝鮮なのではないか。

 和議の条件にある朝鮮南部の割譲が当初からの真の目的なのではないか。だとしたら、忠三郎のような人物が朝鮮一国を任せよと息巻いたら、秀吉はどう思うだろう。

 忠三郎の反骨を、秀吉周辺が危険に感じるのは当然だ。だが、それでも冬姫は思う、忠三郎に毒を盛る可能性があるのは、秀吉だけではない。

「とにかく、毒なのかどうかもはっきりしないのに、滅多なことを口にしてはなりませぬ」

 冬姫はこれ以上おかしな噂を広めないようにと、侍女達をたしなめた。

 やがて、やって来た医師に病状を尋ねる。

 毒なのかとは、なかなか聞けない。医師もそうは言わない。だが──。

「随分よくなられました。もうご心配には及びませぬ。ただ、体にたまった毒素を、完全に体外に排出させてしまわないと、後でまた症状が出る可能性がございます」

 そう言った。

 もう大丈夫なのかと安心する一方で、冬姫は毒素という言葉を聞き逃さなかった。つまり、忠三郎は何らかの毒素が原因で発病したのだ。


 翌日、冬姫は部屋を散らかしていた。様々な薬草を広げ、その中央で思案していた。

 その中から乾燥させた藤袴を取り上げる。忠三郎が持ってきたものではない。それは今、彼の枕元に置いてある。冬姫が手にしたものは、花が咲く前に刈り取り、生薬として加工しておいたものだ。

「おや、薬草の海で足の踏み場もない」

 起き出してきた忠三郎が、部屋に入ってきた。薬草を避け、能の『船弁慶』の後シテみたいな足取りで器用に歩いて来ると、冬姫の背後に回り込んで座った。

「まあ、まだ寝ていらして」

 振り返って忠三郎と向かい合うように座り直した冬姫は、彼の顔を見て眉を顰めた。

「では、冬さまのお膝をお貸し下され」

「え?」

「冗談」

 忠三郎は戯れたが、なお活気に欠ける頬の色。冬姫はくすりともせず、眉を寄せ続ける。

「藤袴なんか睨みつけて、いったいどうしました?昔もそんな顔をしていらしたな……」

「これを煎じて、忠三郎さまに差し上げようかと──え、昔?」

「そんなもの飲まされたら……」

 藤袴には利尿作用がある。何度も雪隠に駆け込むことになる。

「私の顔、そんなにひどいのですか?」

「いいえ、いつも通りです」

 浮腫んでいるわけでもない。ただ、やはり覇気なく映る。

 毒素が抜けきっていないからだろう。毒は尿とともに全て体外に出してしまうに限る。

 とはいえ、毒の話も憚られ、冬姫は、

「昔って何のことですか?」

と、話を逸らした。

「ああ、初めてお会いした日のことです。あの時も藤袴を抱えて涙をこらえ、何やら必死に思案しておられたなあと思って」

「初めて?藤袴?」

 確か冬姫が忠三郎に初めて会ったのは、結婚することが決まった数日前だったはず。

「あの時は冬でした。藤袴なんて枯れ果てて。持っておりませんでしたけど……?」

 忠三郎はくすくす笑い出した。

「いや、違いますよ。それよりもっと前です。私が御身を見初めたのは秋。といっても数ヶ月前の話ではありませんよ。その前の年の秋です。あれは岐阜に来たばかりの頃でした。どこぞからの帰りに、藤袴咲く野辺で御身をお見かけした。たった一人で涙と戦っておられた。どうしてそんな顔をするのだろうと、とても気になったものです」

 冬姫は心底驚いた。

「長年お側におりますが、初めて聞くお話です」

 はははと、忠三郎は楽しそうに笑った。時々冬姫に向けてくる目が、冬姫には何だか気に入らない。

「あの時が初対面なら、あんなに思い詰めて、上様の姫君様に想いを伝えたりしませんよ。一年以上お慕いし続けていて苦しかったから、ついに我慢できなくなったのです。ずっと好きだった」

「……まあ……」

「で、あの時は何故あんなに泣きそうな顔をしていたのですか?」

「……今だって……」

 泣きたいくらいだと、冬姫は消え入りそうな声で呟いた。本当の初対面のことを、今まで黙っていたなんて、信じられない。

「これは、すみません」

「今と同じです」

 冬姫は昔を、あの日のことを回想する。姫育ちの彼女が、人気のない城外の藤袴の野辺に一人でいたことなど、一度しかなかった。

 忠三郎の顔を見つめながら、手の藤袴を差し出すようにする。

「これを、藤袴を飲ませて差し上げようと──」

「え?涙と戦っているように見えましたが、藤袴を飲ませようと考えていたというのですか?はて?」

「あの日は、兄・信雄殿に、萩を見に行こうと誘われていたのです。いやな予感はあったのですが、拒むといじめられるかと思って、仕方なくついて行きましたところ──案の定、置き去りにされました」

 子供の頃の信雄は、なかなかの悪戯小童で、よく冬姫をからかって遊んでいたものだ。今となっては笑い話、楽しい思い出だが。

「あの時は私も幼く、野辺に一人にされて、心細かった……だから、仕返ししようかと思案しておりましたの」

 そうしているうちに、上の兄・信忠が迎えに来てくれたのだった。

「で、仕返しなさったので?」

「藤袴を干して、煎じてみようかとは思ったのですが──」

 薬草を、知識がない者が飲ませるのも良くないかと思い。

「干した藤袴は匂袋に入れて、兄には桜湯を持って行きました。雪深い日でした。兄は雪の中を転げ回って、衣を濡らして帰って来たのです。それでも全然寒くなかったようで。温かい桜湯も、ちっとも有り難がられませんでしたけれど」

 言ううちに、冬姫はくすくす笑い出した。

「ほう、兄上に果たせなかった可愛らしい仕返しを、代わりに私に果たそうというわけですね?」

「ええ、そう」

 くすくす笑い続ける冬姫。忠三郎もふざけて、彼女の手の藤袴に食いつく真似をした。

「まあ、駄目です」

 冬姫は藤袴を引っ込めた。

「おや、どうして?」

「医師の許可を得てから」

 医者の許可もなく飲ませて、もしも悪化したら大変だ。

「忠三郎さまに藤袴を差し上げても良いか確認して、それから差し上げます」

「そうですか。ところで──」

 頷いた後、忠三郎は改まって冬姫の瞳を見つめた。

「私が冬さまを見初めた日のことを、今までずっと黙って、大切な思い出にしてきたことを、御身はお恨みのようだが──お互い様ではありませぬか?」

「え?」

「御身もずっと私に隠していることがあるでしょう?」

 冬姫はやや首を傾げさせた。忠三郎はしてやったり。

「母に初めてお会いになったのはいつです?」

「……あ」

「籍が生まれる前でしょう。そういうわけで、御身もずっと秘密にしておられたわけだから、私のことも、お許しになるべきだ」

 くっくっと笑う。

「まあ、忠三郎さま」

「あはは、私は許してあげますよ」

「……ごめんなさい」

 頭を下げる冬姫と、笑い転げる忠三郎と。

 平和な時間が流れていた。

 翌日には、忠三郎は能の稽古を始めている。大曲の『誓願寺』や曰く付きの『鵜羽』等、近々シテを三曲も務める予定がある。それも五日程の間に三曲である。体調は回復したようだ。


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