効能(上)
数日後。
突如として忠三郎は体調を崩した。それも、かなり深刻な病状だった。
忠三郎発病の噂はあっという間に名護屋じゅうに広まった。
「食中りか?悪いものでも召し上がったのでは?」
季節柄、食中りはありえる。
「食中りで出血があるか?」
「あるだろう。吐血、下血、たまに聞くぞ」
「いや、一服盛られたのではあるまいか?」
このように様々な憶測を呼んだ。
わかっているのは、忠三郎が内臓を患っていること。出血があること。
忠三郎は病床に臥せ、起き上がれない。
(毒か?)
いきなり下血してしまい、驚いた彼は、毒を盛られた可能性も考えていた。なかなかよくならない。
(コンタツ(ロザリオ)を食べて生き延びたという話があったな……)
朝鮮に渡って、病にかかった者は多数いた。
その中で、あるキリシタンはかなり重篤な病状に陥り、医者もなす術もなく、見放されていたという。食べ物にも乏しく、その者は死を待つばかりだった。
だが、彼はふとロザリオを思い出し、取り出して眺めたところ、何思ったか、それを食べ始めたのだという。朦朧として、丸薬にでも見えたのであろうか。
ところが、驚いたことに、ロザリオは本当に彼の薬となり、彼は平癒して、すっかり元気になってしまったのだという。
(朦朧として、丸薬がコンタツに見えただけでは?その者が口にしたのは丸薬だったのではないか?)
病床で忠三郎はその奇跡について、そのように分析する一方、自分もロザリオを口にしてみようかとも思った。
枕元に布に包んで置いてあるロザリオ。忠三郎は横臥したまま、枕元に手をやり、探ってロザリオを取り出そうとして、指が別な物に触れた。
(冬姫の阿弥陀か)
見なくてもわかる。常にロザリオと一緒に布に包んで持っていたから。
──これを持っていれば、見る度、嫌でも思い出す。忘れなくなる──
幼い日の冬姫はそう言って、彼にくれた。
忠三郎が冬姫の夫となったが、夫婦になってから、あまり一緒にいられた時間はなかった。ほぼ毎年戦に出ていたし、近年は離れて暮らしている時間の方が、圧倒的に長い。丸一年会わないこともある。
(そういえば、もう一年以上会っていないな……)
京を起つ時、しかと目蓋に焼き付けてきたが──。
冬姫の当初の目的通り、この阿弥陀は、忠三郎が遠く離れた冬姫を懐かしむための物になってしまった。それだけに、余計に手放し難く、ロザリオと共に常に彼の懐中にある。
(デウスはさぞお怒りだろう)
ロルテスが阿弥陀を持っていても平気だと言っていたが、果たして本当だろうか。
本当に神は忠三郎に怒ってはいないのだろうか。
忠三郎は今度こそはロザリオを掴み取り、その手を顔の上にかざして、ロザリオを見つめた。
ローマで入手した象牙のではなく、自分で作った漆塗りの方だった。
(これを……食べる?)
口を開けてみて、ふっと笑い、そのままロザリオごと手を下ろした。
忠三郎はロザリオを握ったまま、眠ってしまった。
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赤座隼人と彼と気の合う者を数名、京に呼んだ冬姫だったが、隼人は京屋敷の家臣達とも仲が悪い。だが、さすがに京であるので、大した口論にもならずに、互いに我慢しているようだ。
会津ではそうはいかない。京からかなり離れているし、忠三郎も不在なのでやりたい放題だったようだ。
やはり隼人を京に呼んでよかったのだ。
会津は隼人がいなくなり、少しは落ち着いたであろう。
だが、案外そうでもないようだと次兵衛が調べてきた。
「赤座殿派と上坂殿派と、単純に分けられるわけでもございませぬ。さらに、キリシタンとそうでない者との間にも、何やら溝があるようですなあ」
次兵衛は冬姫のもとで、苦々しい表情を見せた。
「今、会津での布教はどの程度進んでいるのでしょう?」
バテレン追放令の覚書を無視して、会津では領民のキリスト教への改宗が進んでいた。
忠三郎本人がというより、キリシタンの重臣たちが、それぞれの領地で布教しており、この時世にもかかわらず、京から遠隔の地にある会津では、どんどんキリスト教が広まっている。
「伊勢にあった時、殿下の仰せもあって、神宮をかえって保護していましたが──」
伊勢神宮の破壊は困難であるし、伊勢という土地柄も、また件の覚書もあって、キリシタン家臣たちも我慢していたが、遠い会津ならば秀吉の目も届かない。
「されど、殿は城下に高巌寺はじめ寺を配置なさり、破却どころか父君様の菩提寺を築かれました」
未だ冬姫を改宗させないし、不満に思う者も少なくないらしい。さすがに主君やその親戚を異端視することは憚られようが、心中では疑惑を持っている者もいるのかもしれなかった。
「そのためか、最近、家中のキリシタンどもが、そうでない者を蔑むようなことも、会津ではあるようです」
隼人はじめ、在京家臣たちにはそのような過激な言動は見られないが。遠隔の地・会津では秀吉の目を気にする必要がないため、キリシタンがそうでない者を差別し、軋轢が生じているのだろう。
日本では神にも仏にも手を合わせてきたが、キリスト教は違う。神は唯一であり、その神以外は認めない。
神以外のものを神として、また偶像を作って礼拝する者を、悪魔に憑かれた者と見下したり、差別したりしているのだろう。
キリシタンは教理に従って生きているが、そうでない者は、日本は仏教の国であるから、仏教的習慣を常識として生活している。キリシタンはそのような者を蔑む。
例えば、男色している者には、それが仏教寺院発祥の文化であるが故に、
「豚より汚れた犬以下の奴だ、などと申しているようですな」
と次兵衛は言った。
寺の僧侶と稚児の間で、宗教的な意味を持って行われ、やがて公家社会に、さらに武家社会にまで広がった男色。寺では、師僧が幼少の稚児を支配、洗脳して、稚児を観音菩薩だの清らなる宗教儀式だのと、公然と稚児愛が横行していた。
そこから派生した少年への愛玩は、公家や武家社会では、出世と結びついた。
美貌の者ばかりがちやほやされ、それによって問題が生じた。
物の判断もできない少年が衆道の対象となるため、美貌なだけで才知がなく、媚び諂う者になってしまうことがある。そういう者であっても、高位高貴の人が、つい愛情にまかせて権力、重職を与えるために、賢人との間に争いが生じ、政が滞って世の乱れの原因にもなったのだ。武家の場合は刃傷沙汰にもなって家中が混乱したり、優れた臣下から下剋上されて、主家が滅びることしばしば。
「デウスの御目に悪とされることだからだ」
キリシタン達は、神が禁じている男色だからこそ、このような悪しか生み出さないのだとして、その発祥の仏教が悪魔であることの証拠だとした。
キリシタンから見れば、男色の趣味は異教を信じているという罪の証。しかし。
「敵──異教の邪淫に耽ることが罪のはずです。生まれつき男とも女ともつかない人、男にしか恋情を覚えられない男もいます。そのような人の中にも、デウスを信じ、慕う人はありましょう」
それなのにキリシタンは、神を乞う者であっても受け入れない。勿論、幼い美少年を玩んだ上で重用し、手懐け信奉させ、命をかけた君臣の契りだ絆だというのは問題だ。以前からそのような衆道は悪としてきたし、美少年を愛玩する領主は蔑まれていた。キリシタンか否かに関係なく。
そのような衆道と、男女の区別の難しいものとを一緒くたに男色と称して、キリシタン達は大罪だと口を極める。
もともと全ての人間に罪がある。だが、それはイエスによって許される。許しを乞う者に、神が怒るのだろうか。冬姫は疑問に感じている。
「全能なるデウスが、生まれつきそのような者に作られたのでしょう。その人に試練を与えられ。その艱難に堪えた者を、お許しにならないというのでしょうか?──信仰のない国は攻め込まれ、信仰のない人は虐げられ、差別されて売られて。私には……」
冬姫は、これでは手放しでキリシタンに賛同できないと思う。
次兵衛は姦淫を禁ずる理由の中に、答えがあるように思った。
姦淫が罪である理由は。神が最初の人間・男を作った天地創造の時、人を助け、支えるものを男の肋骨から作った。それが女・妻だ。夫の体から作られた女は、男と一つ。神によって二人は一つとされた。それが夫婦。
「だから、姦淫によって妻への信頼と尊重を破ることはデウスへの罪?──よくわかりませぬが、すると、妻を裏切り他の女を手に入れるのも、男色も大罪ですの。心で妻以外の者に邪恋するのも姦淫とも申しておりますが……」
妻以外の者に欲情し、心の中で犯せば、妻との心の繋がりを絶ち、裏切ったのだから、姦淫。
「心の中で罪を犯したことのない人間などいないと、安土でパードレから伺いました。全ての人間には生まれながらに罪がある。罪ある人間には、他者を裁くことはできないのでは?信仰があるからと、家中のキリシタン達に、そうでない者を裁き、差別することができるのか……」
「イエズスを信じて許しを乞えば、許される。どんな罪でも許される……」
次兵衛のその言葉に、冬姫ははっとした。以前、信仰を持てば天国に行けると言った家臣達の真意がわかった気がした。
しかし、次兵衛は、
「死ぬ間際に許しを乞い、告白さえすれば、どんなに大きなたくさんの罪でも許されるのですか。キリシタンなら、死ぬ間際まで放縦に生きていても構わないのですかな。信仰を持つことより、これ以上罪を犯さないように、ポロシモを大切に思って生きる方が大事だと、姫さまは仰せでしたな。信仰に入った後、罪と自覚しながらも、信じているから許されるのだと、悪気もなく平気で罪を重ねる者がいる以上──そのような者でも、信仰によって、生前のいかなる罪も許されてしまうなぞ、そんなもの姫様はお信じになれますまい」
とにかく、会津がこれ以上おかしくならないように──そう祈った時、肥前名護屋の陣中で、忠三郎が倒れたという知らせが届いたのだ。
「なんと……」
次兵衛に様々な思考が浮かんだ。
どんなに危険な戦でも、決して死ぬことのない忠三郎。彼は必ず無傷で帰ると疑わず、彼の出陣に不安を感じたことのなかった冬姫。
まさか、彼が陣中で倒れるなど、夢としか思えなかった。だが、体は瞬時に強張り、震えて寒く、見れば爪は紫色になって縮んでいた。




