和議(下)
日本軍は漢城から釜山まで撤退した。代わりに明軍が漢城に入り、休戦している。
──明が朝鮮の半分を日本に割譲することを条件に、秀吉に和平を求めている。そのため明皇帝の使節が名護屋に赴く──
三成や行長らは、秀吉に対してそのように偽った。そして、彼等は実は沈惟敬が用意した二人の偽使節を伴って、名護屋へ。
明から持ちかけてきた和議であり、朝鮮半国を割譲すると言ってきていることから、秀吉は、明は日本に降伏したのだと思った。
そこで。
──明は朝鮮半国を日本に譲ること。明の皇女を、和平の証として帝に嫁がせること。日本と明との間の通商を再開すること──
などを、秀吉は使節に対して要求した。
「明からの回答があるまで、停戦するわい」
忠三郎は、秀吉が使節を引見した時、他の大名とともにその場にいた。
(明がこのような要求を受け入れるとは到底思えない。受け入れられなければ、まだまだ戦は続けるつもりだろうが──)
ともかく、秀吉が使節に言った通り、言行一致していれば、本当に一時は停戦になる。それですむ話で、わざわざ忠三郎が撤兵を進言するまでのことはないと思われた。
しかし、そうではなかった。
「停戦中に、既にこの戦で得た地の防備を堅固にする必要がある。朝鮮各地に城塞を築き、さらに全羅道を攻略せよ」
使節のいない席では、秀吉がそう命じたからだ。
その場には、キリシタンの大名も、キリシタンと親しい大名も複数いる。秀吉の発言を聞いて、彼等がしきりに忠三郎の顔を見る。彼等は小西行長らの計画を知っているはずで、忠三郎にその後押しを依頼していることも知っているはずであった。
だから、忠三郎は言わないわけにはいかなかった。
「和平交渉中は敵味方何れも停戦してございまする。しばし撤兵させても問題ないはずです。十五万人もの兵糧、十分に補給できませぬ。兵どもはそれでなくとも疲弊しきっておりまする。これ以上どうして攻撃する必要がありましょうや」
先日の貞秀の顔が頭にあった。セスペデス、イエズス会の面々の姿も目に浮かぶ。この場にいるキリシタン大名達がかすかに頷いたようだ。
しかし。
「撤兵じゃと?」
すかさず、秀吉は聞き咎めて、いったいどうしたらそんな考えになるのかと、目を丸くした。そして、ややあってから、さも憎々しげに、顔じゅう皺だらけになるほど眉を強く顰めたのだ。
「だから、そちはイスパニアの犬だというのじゃっ!」
苛立ちを珍しく隠そうとしなかった。
「そちが如き売国奴に、信長公ほどのお方が、どうして冬姫さまをご下賜になったかと思うぞ!」
忠三郎には口是心非な思いもないわけではない中、意を決して発言したこともあり、思わずかっとなって、顔を紅潮させた。だが、秀吉は本音を包み隠さなかった。
「伴天連の犬め!──信長公も明を抑えねばならぬとお考えだったかと思うが──最悪でも、朝鮮南半分は確保せねばならぬ!できれば明も手に入れたいが、最低でも朝鮮はなければ困るのじゃ。わからぬか?そちはルソンを刺激するなと申したな?イスパニアが怒るとな」
「ですから、そもそも渡海を致しては……」
「イスパニアの水軍は今、日本を攻撃できる状況にはない。我等がルソンを撃っても、イスパニアに反撃する力があるかどうか」
忠三郎は前のめりになっていた体を後ろに引いた。顔の赤みがやや引く。
秀吉もふうと一つ息を吐き出し、今度は冷静に言った。
「問題は、イスパニアがポルトガルを併合したことで、天竺をも手にしたことだ。わしが朝鮮を固守するのは奴らへの備えぞ。伴天連どもは、わしが朝鮮、さらに明へ出兵することに反発していよう。それは、奴らが欲していた明を、わしに奪われるのが悔しいからじゃ」
その先は、頭に閃いたものを忘れぬうちに吐き出そうと、一息に捲し立てる。
「仮に奴らが怒って日本に攻めてくるとして、奴らには前線基地がない。ルソンから直接日本に来るのは難儀ゆえ、おそらく明のいずこかに拠点を築き、さらに容易に日本へ出兵できるよう、朝鮮にも拠点を築こうとするであろう。水軍に頼れぬなら、天竺より陸路辿って攻めてくるかもしれぬ。奴らが明を突き破って日本を目指した時、それでも奴らは朝鮮に拠点を築かねばならぬ。だから、そうさせぬための先手を打ったのだ。我等が朝鮮を前線基地としている限り、日本本国に攻められる危険は減る。我等の基地が明国内にもあれば、二重の防衛にもなる──だから、信長公も明に目を付けられたのであろう──だが、最低でも朝鮮は固守せねばならぬのじゃ。それを、苦労して得た朝鮮に城塞も築かず、どうして撤兵なぞできようぞ?」
だから、そもそもスペインを刺激してはならなかったのだ。日本が朝鮮、明に攻めて行きさえしなければ、スペインは黙っていただろうに。いや、それ以前に、日本の実力では唐入りは不可能。途中で投げ出すしかなくなる、撤兵せざるを得なくなる。
日本が撤兵した後、さほど軍事力のないスペインとはいえ、日本との戦で弱体化した朝鮮ならば、制圧できるし、交渉による同盟もあり得る。
だから、日本は渡海してはならなかったのだ。
だが、現実として、忠三郎が会津に押しやられている間に、秀吉はフィリピン総督やインド副王に挑発的な書簡を送りつけている。そして、朝鮮に攻め入ってしまった。
時を遡って、やり直すことはできない。
(取り返しがつかぬ以上は……始めてしまった戦には必ず勝利せねばならぬ!)
「イスパニア海軍が弱体化しているならば、撤退してきても問題ありませぬ。されど、弱体化したという確証もございませぬ。我等は彼等を怒らせてしまったのですから──。陸路に備えるだけでは不十分、海軍にも備えるとして、確かに、イスパニアがルソンから直接日本に来ることは難儀でしょう。おそらく明のいずこかに拠点を築き、さらに容易に日本へ出兵できるよう、朝鮮に拠点を築くに違いありませぬ。されど、イスパニアはヌエバ・エスパーニャからルソンに直接渡ってくる力があるのでございます。日本の海も克服できるかもしれませぬ。ルソンから直接日本へ来ることも?」
忠三郎は言いながら、過去の自分を思い出していた。
いつの間にか、彼は熱烈な信仰心を持っていたが──。
先年のコエリョの言動に、スペインの奸策を疑った秀吉。だが、最初は忠三郎も、ポルトガルの、スペインの考えを探るため、伴天連に近づいたのだ。いつしか信仰に入ってしまってはいたが。
本心は知らぬが、秀吉は度々帝を明皇帝にするつもりだと口にしているので、忠三郎は言った。
「おそれながら、朝鮮をそれがしに賜りませ。それがしが明まで撃って出て、中原を献上致します」
明への遷都。秀吉は忠三郎の豹変と、その発言に驚いた。
そして、しばしの後。半分呆れて、
「これやまた、随分とまあ、とんだ大言壮語よな」
「いいえ。イスパニアの艦隊に備えて、高山(台湾)にも琉球にも参りまする。これらを拠点とすることで、ルソンから攻めてくるイスパニア艦隊を食い止めることができます。日本の近くにさえ寄せさせませぬ。これらをことごとく日本の拠点と致しましょう。そして、攻めに攻め上り、それがし、ルソンを献上致します。それがしに琉球をお任せ下さりませ」
忠三郎は西欧の海軍技術を研究する目的も兼ねて、昨年、ロルテスや六右衛門らをローマに派遣している。
「ふうん、そちは頭のめまぐるしい奴よな」
秀吉は無表情に感心した。




