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壺の余波(上)

「姫さま!」

 意を決して呼びかけた。

 びくっと姫は彼を見上げる。思いのほか距離が近かった。だが、どぎまぎする心は忠三郎はすでに忘れている。

「大事なるお話がございます!」

 冬姫を見つめる少年の目は真剣で、そこには憧れの君の許嫁になれた喜びも、甘美の心地も垣間見えない。その双瞳には危機感さえ窺えて、冬姫は羞恥をおき捨てた。真剣な目へ、真剣に、

「何事ですか?」

 彼女も居ずまいを正した。

「この御城の中に、六角の密偵がおります!」

 忠三郎は声はひそめつつも、鋭い息で、周囲の空気を切り裂く。

 冬姫は目をしばたたいた。

 阿弥陀像の話でも、許嫁となった喜びでも述懐でもない。だが、忠三郎は天の巡り合わせを悟り、彼女に打ち明けるしかないと信じている。

「先程、奥御殿の御女中がそれがしに手渡して参りました」

 忠三郎は萌葱色の文を差し出した。

 冬姫は黙って受け取り、促されるまま文面に目を落とす。姫も彼のただならぬ様子に、反発もなく素直に話を聞くつもりのようだ。

 一読して、冬姫は首を傾げた。

 冬姫はまだ幼い。世間のことには疎いかもしれない。だが、忠三郎は彼女に賭けた。

「六角の間者から受け取ったとか?鶴殿?」

「はっ、左様でございます。鶴とは、それがしの幼名が鶴千代ゆえのこと。我が家は長らく南近江の六角家に仕えておりました。それがしは昨年、六角家が御屋形様に敗れて居城の観音寺城から落ちた時、御屋形様に降伏し、臣従の証としてご当家に参りました。しかし、御屋形様に勿体なくも烏帽子親となって頂き、忠三郎賦秀と」

 冬姫は得心して頷いた。

「では、この文の主は、元服する前のあなたしか知らない人ですか?」

「左様でございます、これは井口様──六角家当主・四郎義治の奥方から、それがしに遣わされた密書でございます」

「密書というほどの内容でもないような……」

 言いかけて、姫ははたと頬に手を当てた。何か思い至ったらしい。

「母の身が案じられるというけれど、母って、近江の御方のこと?」

 やはり。冬姫は幼少ながらも、世間に疎くはない。しっかり教育された、国主の姫だ。忠三郎は強く肯いた。

「井口様・六角義治の内室は一色、いや斎藤左京大夫の御娘でございますれば、左様、母儀は近江の浅井氏ということになります」

 斎藤義龍は十三代将軍・足利義輝より一色姓を名乗る許可を得ており、義龍・龍興父子は幕府からは一色氏とされている。だが、この織田家にあっては、一色ではなく、あくまで斎藤と称さなければならない。

 一色は、斎藤道三が追い出したもともとの美濃の守護・土岐氏よりも格上であり、幕府の要職を得た六角家と同格の家だ。

 六角家の家臣として、さんざん一色殿と呼び慣わしてきた忠三郎だったが、美濃から龍興を追い出した信長の今の岐阜城中のこと、斎藤と言い直した。

「では、母の身が案じられる、兄弟国衆も含めた大事というのは、先日の──」

と、冬姫はこの文が密書たる理由を考察した。

 井口様こと六角家内室の父・斎藤義龍の兄弟姉妹、その婿等の美濃国衆の大事について、忠三郎はあまり詳しく知らない。忠三郎が元服して初陣を告げられた七月頃、信長が斎藤義龍の後家と揉めたという話は聞いていたが、主家の奥向きのこと、詳細まではわからないのである。

「でも、この文には近衛殿由来の書とあるけれど?」

 冬姫は首を傾げる。幼いながらも、事の真相を知っている冬姫には文の内容は腑に落ちないらしい。

「どういうことでしょうか?」

「七月に一条殿がお越しになったので、急に父が思い出したのでしょう、近江の御方に壺を所望しました。それは先の稲葉山城落城時に紛失したとおっしゃったのだけれど、そんなはずはない、あるはずだと父がまた所望したので──」

 ないものはないのにと、義龍の後家の近江の方は、ついには自害すると言い出した。

 それを聞いた義龍の姉妹達やその夫、子などの美濃の国衆達は、信長に献上できなければ、自害しなければならない程の品であるのだから、紛失してしまった罪を詫び、切腹しなければならないだろうと、青ざめた。

 信長の正室の濃姫は、父を殺した敵とはいえ、兄には違いない義龍のその後家とは、信長のもとに嫁ぐ以前から、義理の姉、妹の仲である。信長が悪いとして、昔からよく知る義姉の近江の方の肩を持った。

 濃姫やその兄弟、姉妹とその夫と子達、すなわち美濃の有力者達に自害するなどと言われては、美濃に攻め住んで間もない時分、さすがの信長も和解を望み、壺は存在しないということで決着した。

 すっかり和解し、今はわだかまりもない。信長と濃姫の関係も良好であるし、美濃の国衆に信長への叛心もなさそうだ。近江の方も、日々穏やかな暮らしぶりである。

 近江の方の娘である井口様こと六角家の内室は、後になってその七月の揉め事を噂に聞いて、今、母は信長のもとで無事に暮らしているのだろうかと心配している、ということだろう。

 一見、母を案じる孝行娘の何の問題もない文のように見える。だが、忠三郎はこれを密書だと言い、冬姫も文の内容に疑問を抱いた。

「どうして近衛殿由来の書とあるのでしょう?」

 忠三郎は冬姫の眼を食い入るようにじっと見て、

「さあ、実際、近衛殿から賜ったことがあるのでは?聞くならく、斎藤家と近衛家の縁、浅からぬと。確か、近衛家の御仁が斎藤家に入られたとか。その縁でしょうか、斎藤左京大夫の娘御を近衛殿の御前に参らせるという話があった時、それを聞いた六角の先代・承禎入道が、破談にしてやると息巻いて、横槍を入れて邪魔したとか、祖父から聞いております」

「えっ?」

 初耳と見えて、冬姫は目を点にした。

 忠三郎、いかにも六角承禎らしいと苦笑い。

「そういう人です、六角承禎入道は」

 義治の妻に対しても、斎藤家側の里女中らが一色殿、岐陽殿としても、承禎は井口と呼んだ。

「それは、ご苦労なさったのでは、ご夫君は近江の御方を案じて下さっているとのことですけれど──」

 文の主の身を案じる冬姫を、忠三郎は優しいと思った。

「さような舅殿ではありますが、ご夫君はご自身で望んで進められた縁談でしたので、ご夫婦睦まじいご様子でしたよ」

「よかった」

 冬姫は素直に微笑んだ。

 それを見て、思わず笑顔になる忠三郎だが、でもと、そこで改まる。

「先程姫さまは、近衛殿由来ということにご不審なご様子でしたが、それがしも首を傾げているのでございます。井口様がそれがしに見せた品とのことですが、幼かった故、記憶は曖昧ながら、書ではなく壺だったと思うのです」

「壺?先日、父が近江の御方と揉めたのは、壺ですが──」

「井口様のご記憶違いかな?いやおかしいな、その御屋形様ご所望の壺というのは、どのような壺ですか、差し障りなければお教え下さい。近衛家由来の品ですか?」

「いいえ」

 冬姫は頭を振った。忠三郎も昔の記憶を手繰り寄せ、思い出そうと努める。

「ですから、一条殿が」

 冬姫が改めて七月の客人の話をしようとしたところで、忠三郎の記憶の糸が繋がった。

「そうです、一条殿所縁と、あの時!井口様がそれは取り澄ましておっしゃって。それで、一色氏とか近衛殿だとか一条殿とか、口惜しいことだと、陰で承禎入道が祖父を前に地団駄踏んでいたんです!それがし、よく覚えていなかったので、ご覧になったことがあるという小倉殿に確認しようかと思いましたが、そうですよ、そう、一条殿の」

「それは駄目です!」

 不意に冬姫は声を上げた。

「そのお話、口になさらないで下さい。もう終わったことです、蒸し返したりしないで、父の耳には入れないで下さい」

「いや、この文がそれがしの手に渡されたということは、この御城に六角の間者がいるということですから、御屋形様にお伝えしないわけには参りませぬ」

 姫の言葉は忠三郎には思いもよらないことだったらしい、姫の真意を探ろうとてか、その白い顔を覗き込んだ。

「一条殿所縁の壺は、先の戦で紛失したことになって、それで落着したのですよ。それなのに、それが六角家の手にあるなど、それも、近江の御方がご息女に持たせたなどと、それでは先日の騒動で御方が父に嘘をついたことになるではありませんか」

「御屋形様への嘘はけしからぬこと、改めて処罰となれば、それは自業自得でしょう」

「そう簡単にはいきません、近江の御方に美濃衆皆が従ったのです。近江の御方お一人のことならまだしも、美濃衆も連座したとして、今度こそ皆切腹させられます」

「ううむ」

 忠三郎は考え込む。

「成る程、確かにそれこそが六角義治の狙いか」

「え?」

 冬姫には忠三郎の言葉の意味がわからない。

「六角夫妻は、先日の壺の話を聞いて、これは美濃をかき乱すに格好の材料だと思ったに違いありません。この文を奥方に書かせたのは、義治でしょう」

 義治の妻が、母を案じて自主的に書いたものではないだろう。

 忠三郎は冬姫の眼を見て訴えた。

「井口様は、ご自分の手元にある壺が、騒動のもととなった壺と知っていた。さりとて、母上の身を危険にさらしたくはないと、敢えて近衛殿の書などと、別なことを書いた。この文がそれがしの元に届けば、それがしが未だ六角と繋がっているのではないかと、御屋形様がお疑いになる。さらに、六角と内通している者がこの御城の中にいて、それがしの元に届けたわけですから、内通者は誰だという話になる。また、文面から、井口様ばかりか義治の意志で、この文が書かれたことが想像できますから、この御城に義治と内通している者がいると暗に語っているのです」

 義治の妻が自分の意志で書いたのであれば、彼女が嫁ぐ前から斎藤家に仕えていた者が今でも岐阜に多数いることから、その伝を頼りに文が届いたとて、不思議はない。文を預かった者はけしからぬが、処罰する程のことではないと、信長が見逃し、岐阜の中で騒ぎは起きない可能性もある。

 一見特に問題なさそうな文だが、一つ一つの文言には深い意味が含まれており、行間をよく探る必要がありそうだ。

「この文を渡してきた者は、必ずそれがしの六角との内通をにおわせるために、何らかの工作をしてくると思います。六角はこの御城の中で騒動を起こそうとしているのですから。それがしが姫さまの許嫁となれば、なおのこと。それがしが六角と内通しているなどという噂でも出れば、御屋形様の命によって、それがしが調べられましょう。その後でこの文が出てきたら、六角と内通している証拠とされます。隠していたと見なされる前に、それがしの口から御屋形様に申し上げねばなりませぬ」

「では、どう転んでも、この文は父の目に触れることになるのですね。ということは」

と、冬姫はその後のことに思い巡らせた。

「父は近衛殿の書について、近江の御方に問い糺すのではありませんか?御方が文の内容に巧く合わせて答えても、父はあなたにも近衛殿の書とは何かと訊ねるでしょう。あなたが御方の不利益にならないように答えたとしても──」

 冬姫は再び文に目を落とした。

「あなたの他にもそれを披露された人がいるのでしょう?その人にも確かめるのではないでしょうか。小倉参州の息女とは何方ですか?父に尋ねられて、その人が自分が見たのは一条殿の壺だったと答えるかもしれません」

 忠三郎ははっとした。

「もしや、それがしばかりでなく、小倉殿も内通者とされるのでは!その方がより美濃は混乱する」

「え、その小倉殿ご息女から、真実が露見するということではなく?」

「それもあるのやもしれませぬ。が、文は小倉殿のところにも届いているのかも」

「その小倉殿ご息女というのは、忠三郎様がご存知の方なのですか?岐阜にいる方ですか?」

「あ、ええと」

 忠三郎は信長の娘である冬姫に、少し気まずそうにした。躊躇いつつも、意志の強そうな姫の瞳に、答えないわけにはいかず。

「その、小倉家は近隣で、親族でもございます。小倉三河守殿のご息女は、近頃、御屋形様の御前に参られた御方で……」

 思い得たようで、姫はああと頷いた。最近、信長の側室になったお鍋の方のことか。

「小倉の御方まで巻き込まれてしまうというのですか?」

「はい、おそらく。六角の内通者、いや、六角は甲賀を領して参りましたから、甲賀者を忍び込ませているのやもしれませぬ。その甲賀者かもしれぬ者は、先程それがしにこの文を渡したばかりです。それがしが六角に通じていると噂を流したら、見つからぬうちに退散するでしょう。素早い行動のはず。まだ立ち去ってはいないでしょうが、一両日中には姿を消すに違いありませぬ。姿を消す前に捕えないと。小倉の御方様にも接触するでしょう。御屋形様ご不在時であれば、露見しても、斎藤家の御方である北ノ方様(濃姫)がうまく揉み消して、騒動にならないかもしれない、ですから、敵は御屋形様ご帰還後に動いているはず。ですので、小倉の御方様への接触は今からすぐか、つい先程のことでしょう。このような文も届けられているやもしれませぬ」

「一刻を争うのですね、これから小倉の御方に接触するのですか?」

「先程の女中は奥御殿に向かいました。すでに工作を終えて、もう城の外に出たかもしれませぬ、あるいはつい先程のことですから、まだその辺にいるかもしれませぬが」

「わかりました。私は奥御殿に行って、小倉の御方の周囲を見てみます」

「えっ?」

 冬姫の思いがけない申し出に忠三郎はややたじろいだ。

「一刻を争うのでしょう?すでに城の外かもしれないならば、忠三郎様は外を捜して下さい。私は奥を」

 冬姫はそう言い残して、その場を後にした。疲れを覚えていたが、奥御殿へ向かう。

 忠三郎は吸い寄せられるように冬姫を凝視していて、目を逸らす瞬間がなかった。冬姫が話す時、ずっと。また、彼が話す時も。だから、見られ過ぎて気疲れしたのだろう。しかし、休んではいられない。

 冬姫が部屋を出て行くと、忠三郎の方も館の表へと繰り出した。


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