最初の騒動
天正二十年(1592)。諸大名は肥前名護屋に集結していた。そして、準備が整うと、次々に渡海して行く。
行き先は朝鮮。秀吉は朝鮮へ臣従するよう言っていた。そして、明侵攻の手助けをせよと。
朝鮮からは使節が来た。そのため、秀吉は朝鮮は日本に臣従したものと考えていた。だが、これは両国の間に入ってやり取りした交渉役の手違いである。実は朝鮮は秀吉の命令を無視し続けていた。
渡海した日本軍は、なお臣従を促し、開戦には及ばなかった。
秀吉にとって朝鮮は大事な拠点。そして、そこから明へ攻め入るのである。朝鮮の協力を得た方が良いに決まっている。兵糧、軍勢等、朝鮮で調達した方が、戦には圧倒的に好条件になる。
だが、朝鮮はついに秀吉に従わなかった。秀吉は怒り、それならば力攻めして、従わせるまでよと、開戦の火蓋を切ってしまったのである。朝鮮は対応が遅れたため、最初は日本側が圧倒的に優位に戦闘を進めて行った。
その頃、後陣を言いつけられた忠三郎は会津にいた。唐入り──明に向けての出陣に、軍勢を整えるため、この晩春に京を出て、いったん帰国していたのである。
老齢の母が病んでいた。
俄かに召し抱えた家臣達の中には、そりの合わない者どうし、喧嘩が絶えない。
「よいから、この母にまかせなさい。如何にも騒動を起こしそうな我が儘左文は身内。しかとこの母が言い聞かせましょう」
病身の母が、家臣達の面倒を見ると、胸を張る。そんな母を残して明へ出陣するのは心配だ。
京から限りなく遠い会津にやられ、東下した伊勢物語の男のような、都落ちの心境に、何度もなった。会津に初めて入封した時、蒲生家の誇りである祖先・藤原秀郷の生きた東国、奥州だと、冬姫に励まされたが、それでも東下都落ちの気分は拭えなかった。
だが、そんな会津を今、忠三郎は初めて去りがたく思った。忠三郎は幾度も母を振り返りながら、会津を発つ。
幼い頃に別れて、ずっと離れて暮らしていた母なのである。やっと一緒にいられるようになったのに。母が病だから、余計なのだろう、道中も、肥前に行っている間に母の身に万が一のことがあったらと、しばしば考えてしまう。
東山道を信濃まで進んで来た時には、以前の鶴千代の物語のこともあって、木曽の寝覚めの床の三帰りの翁を思った。三帰りと書くが、三度若返ったという意味である。翁は若返りの秘薬により、三度も若返って、不死のような身となった。
(その秘薬があったら、母上は若返り、病も癒えて死ぬこともなくなり、それならば、遠い雲居の空の、その遥か先に行ってしまわれた上様も、御還りになることができるのでは)
今も信長がいたら、唐入りはあっただろうか。
忠三郎は、絶対に唐入りはならないと信じている。しかし、秀吉を止めることはできなかった。
もう終わりだ、日本は破滅の道を進んでいるのだと思う。信長なら、どう思うだろう。
かつて信長は、日本は近々ポルトガルと同じ実力を備えられるようになると言っていた。他国を切り取り、ポルトガルのように版図を拡げられるだけの軍事力を持つと。だが、能力があるからといって、実行したところで失敗すると。能力があるのと、やり遂げるのとは天と地ほどの開きがある。
信長はポルトガルに、日本の実力を理解させるだけで十分だと言っていたではないか。
信長ならば、唐入りは実行しなかったのではないか。実行したならば──朝鮮を説き伏せ、朝鮮が絶対に日本を裏切らないと確信できるまで交渉を続け、確固たる同盟を築く道を選んだのではないか。朝鮮がうんと言わないからと、攻めて行くとは思い難い。
(私なれば、そうする。朝鮮が同心しなければ、手をつけない)
明、朝鮮、肥前に行く途中に、京はある。伊勢物語のように、京に思い馳せれば、忠三郎はこれから京に帰れるのだし、冬姫にも会える。そう思うと、沈んだ気持ちもまた楽しくなり。
そうはいっても、目的地は肥前、さらにその先。京はあくまで中継地点である。本当の都落ちの心境は、実は京から先、西国西海下向にこそある。
肥前、さらに朝鮮、さらには明へと渡ったら、そこまで限りなく果てしなく遠い所から、京に帰り着くことなど不可能ではないのか。まして戦、日本国内でない所で、斬り死にするかもしれないのである。伊勢物語の東下、都落ちの平家の心境よりも、唐入りさせられる今の人々の方が希望がないのではないか。
会津移封後、三度目の帰洛。ようやく京に到着して家族と会い、楽しい一時は過ごしても、一時のまどろみの夢、長居はできない。ここから先、肥前へは出陣だ。冬姫との時間に胸弾んでも、気持ちを切り替える。
「ルソンの総督の使者が来るようです」
冬姫はロルテスによってもたらされた情報を伝えた。
「太閤殿下はフェリペ王へ、対等に付き合えと仰有ったとか」
秀吉は関白職を甥の秀次に譲り、今は太閤と呼ばれていた。
秀吉はインド副王へ、明を我が物にすると宣言、挑発し、ルソンのフィリピン総督へは日本に臣従せよと要求していた。
ルソンからは使節を出さぬようにと、ヴァリニャーノが総督に進言したそうだが。
「総督は何故使節を派遣して来たのか」
フィリピン総督の使者の来訪に間に合わせなければと、忠三郎は慌てて肥前へ下向した。もう京の家族を思うこともなく、振り返らない。
ところが、その途中で会津の異変を知った。家臣間に争い生じ、両者挙兵に及んでいるというのだ。
実にくだらない、些細な出来事から出陣したという。上坂左文(蒲生左文郷可)と赤座隼人(蒲生四郎兵衛郷安)との争いである。
両者は以前から険悪であった。
(隼人はあれで本当に信仰があるのだろうか?)
他人を許すことを知らない隼人だが、忠三郎に賛同して、真っ先にキリシタンになった。
左文は左文で恐ろしく我が儘。正直、忠三郎でも持て余すこともある。
家臣間で合戦などしては、家の統率の悪さを理由に、忠三郎は改易されよう。青ざめたが、蒲生家など、日本の国難と比べたら小事。
(源次郎、頼むぞ!)
坂源次郎(蒲生源左衛門郷成)など、家臣達の良心に委ね、時には、心の中で神に祈りながら、肥前を目指した。
秀吉がルソンの守備の甘さを知り、総督へ臣従を要求した時、ヴァリニャーノはスペイン本国への影響を考え、ルソンから日本へ使節を派遣する羽目に陥らぬようにと、総督へ助言していた。しかし、総督は何故か使節を送ってきている。
忠三郎が肥前名護屋に着いた頃、秀吉はそのルソンの使者と対面しようとしていた。
フィリピン総督の使者はフライ・ファン・コーボと、ファン・デ・ソリスというスペイン人。コーボはドミニコ会士である。
忠三郎はその会見の場に呼ばれ、他の大名らと共に列席した。
このコーボとソリス。ポルトガル人が他国の船の渡日を妨害し、イエズス会が他の修道会の邪魔をすると発言した。
「で、ルソンは日本に臣従するのだな?」
秀吉のその問いには曖昧に答え。
「イエズス会の軍事介入のせいで、総督も迷惑を被っています」
先年のイエズス会からの軍事協力要請を、ルソンは突き返している。
イエズス会がバテレン追放令によって、日本から追われることを、他の修道会は日本参入の機会が訪れたと喜んだ。イエズス会が秀吉に備えるための軍を、スペインが用意してしまったら、せっかくの機会を逃す。
ルソンやスペインがイエズス会への軍事援助を拒否したのは、スペイン方修道会がイエズス会を総督に讒言したためだと、イエズス会は考えていた。
ただ、スペイン、ルソンがイエズス会に軍事援助しなかった理由が、他の修道会の望みに従った故のことかどうかは、コーボにも不明だ。
「総督は日本と誼を通じたいのです。イエズス会のせいで誤解されたでしょうが、総督はイエズス会を信用せず、我々をお遣わしになりました。殿下はイエズス会を日本から追放なさったとか。総督も我々も殿下と同じで、イエズス会を危険だと思っているのです」
秀吉との会見の場には、忠三郎以外の大名も列席している。伴天連を迫害してきたキリスト教嫌いも多くいた。コーボは彼らにイエズス会を悪く言うことで、信用を得ようとした。
また、ルソンでもイエズス会を悪く思っているので、秀吉とは同志だと訴え、秀吉が要求するルソンから日本への朝貢を回避しようとしたのだ。
コーボ達が下がった後、忠三郎は秀吉に訴えた。
「ルソンはフェリペ王の物。そのルソンへ朝貢を要求するは、イスパニアに宣戦布告したも同じ。危険です。幸い総督は友好を求めてきております。イスパニアは日本を侵攻するのではないかと言われてきましたが、総督の態度から、その意思なきことわかり……」
「彼奴らの言うに従い、誼を通じろと言うのであろ?」
「左様です。イスパニアに日本侵攻の予定がないのに、ルソンを刺激したら……」
「イスパニアに日本侵攻の意思がない!?そう言い切れるか?これまでのこと、イエズス会単独の悪事と思うてか!?」
(イスパニアと戦っても勝算はあるわ。ルソンは間違いなく討てる。イスパニアはかつての蒙古のように、手広くやり過ぎた。イスパニアの周囲は敵意に満ちている。それに、どこぞに大敗して軍船を失ったとか?なれば、天竺、明からの陸路に気を配らねば。やはり、朝鮮に前線基地が要るのう)
インドから陸路を辿って朝鮮にまでスペインがやって来たら、次は日本に渡られてしまう。
「ルソンから来た新しい宗門が日本で布教することに期待してはならぬぞ。あれは、日本人の魂を奪う魂胆だからな」
秀吉は忠三郎の頬の辺りに視線を投げ、嘲笑った。
(フェリペ王をデウスを戴く耶蘇諸国の宗主と見做すよう、布教と称して日本人を操作し、そちのような人間を作り上げるのが目的だろうからな)




