京のヴァリニャーノ(上)
忠三郎はおよそ一年ぶりに京に帰ってきた。
天正十九年(1591)の閏一月になっていた。
聚楽第郭内の蒲生屋敷に入った忠三郎は、ようやく緊張から解き放たれた思いがした。
まだ昼間だったが、長旅で疲れたし、急に安心して眠気に襲われた。しかし、しばらく居間にごろ寝しようと思った矢先、居間は姫たちに占拠された。
「父上!」
「父上!」
「おおお、何だ何だ」
姫たちにまとわりつかれて、だるかったが嬉しくないわけがない。
「父上、肩凝ってらっしゃる?」
全く効き目のない力加減で肩を揉んだり、忠三郎の膝の上によじ登ってきたり。しまいには、ままごと遊びの相手までさせられた。
「なんだか花園にいるみたいだな」
色鮮やかな着物の袖をひらひら振り、礼儀もなくきゃっきゃと忠三郎を取り囲んで戯れる娘たちに、忠三郎は終始笑顔だった。
娘たちは、ほかほかして、あの伊達領内での厳しい十日間が、まるで幻だったかのように思えてくる。平和を貪るうちに、泣けてきた。
気付けば、間もなく夕刻という頃。随分遊んでいた。
「父上」
呼ばれて振り向くと、籍姫がまだ遊び足りないのか、一人残っていて、紙を数枚持って忠三郎を見上げている。
「父上、お帰りになる途中、遊行柳ってご覧になった?どんなの?殺生石は?」
などと聞いてくるのだ。小首を傾げているのが可愛い。
「遊行柳?──父の悩みも為すべき方法も、良く示してくれそうな姿だったよ。しかし、何故?」
そのようなものが気になるのか。半年前、信雄が放逐された地からも程遠からぬので、悩み云々とつい適当なことを言うと、姫は、
「皆で伊勢物語のお話をしていたの。男は東海道を下って陸奥まで行ったのに、唐突に、──信濃なる浅間の嶽に立つ煙をちこち人の見やはとがめぬ──って、おかしいでしょ?だから、武姫が、これは陸奥からだんだん上方に向かって住まいを移していく途中のものではないかって。そういえば、帰り道のことは物語にないから、じゃあ、皆で分担して東山道を上るのを作ろうって。私は毛の国だけど、どう書いたら良いのか、わかんないの、鉢木でも模して作ったら良いかな?鶴千代はこれ、送ってきて──」
と、手の紙を差し出すようにする。鶴千代が作った物語だそうで。
「鶴千代め、学問もせず、このようなことをして遊んでいるのか」
口では厳格そうにそう言いつつも、ついにんまりしてしまう。その紙の文字を読んでみると、何とも夢幻能のような話で。
昔、男ありけり。で始まっている。
寝覚めの床の三帰りの翁と歌を詠み、楽を奏で、男が袖を三返翻して舞うと、それに感銘を受けた精霊、龍神、唐土の天女などが天降って、皆舞い遊ぶ。しまいには、絲綢之路の西の果てより、守護聖人 ──大天使ミカエルか──までもが現れたが、剣を一払いすると、たちまち仙女たちは消えた。
その時、延喜の帝の勅使が来て、男と御勅使の公達とが、若返りの秘薬を三帰りの翁から授けられる。役目を果たし、雲居へ御帰りになる御使いの公達と共に、男も京の都へと向かう。しかし、垂井まで来た時、男は病んで今にも死にかけて、そこで初めて自分が九十九髪の翁になっていることに気づいた。
いったい何年寝覚めの床にいたのだろうと、故郷を思い出し、何としても死にたくないと、秘薬を飲んで、若返った。
「これはまた、随分と楽しそうな遊びをしているな」
能を真似て、いかにも子供らしい。それでも、子供達の遊びに何故か、幼い頃の自分の姿が重なってきて、忠三郎はうきうきとしてきた。夢中で物語を読んで、和歌を詠み、里村紹巴に披露した、あの日、あの頃を思い出す。
不意に籍姫がはあっと大きなため息をついた。
「陸奥から京に帰ってくるまで、全部鶴千代に書いてもらおうかしら」
「全部?そなたは何も思いつかないの?」
「さっぱり。寝覚めの床って大昔の東山道にあった?木曽路って東山道?もう、私、どこ書いたら良いのかわからないの」
それにしても、子供というのはびっくりするくらい成長する。忠三郎は姫たちを最初に見た時、目が点になった。
(丸々一年会わないと、こんなに大きくなってしまうのか……)
屋敷に鶴千代はいなかった。冬姫に、鶴千代を南禅寺に入れるよう言っておいた。今、鶴千代は厳しい修行生活を送っている。鶴千代は信長が亡くなった時に授かった子だ。いずれ忠三郎が天下人となれば、その座を継ぐことになる。
(あの子も見違える程大きくなったろう)
暫くは京に滞在できる。一度鶴千代を屋敷に呼んでやろうと思った。
その晩、寝所に入って二人きりになると、冬姫は忠三郎の苦労をねぎらった。
忠三郎は陶然とその姿に見とれる。一年も逢わなかった。焦がれて焦げて、時々抑えきれず、困った。一瞬でも目を逸らすのがもったいないというように、まばたきの間さえ惜しんで、彼は冬姫を夢中で見つめ続けている。
「とても大変で。よく無事で家族のもとに帰ってこられたと思います」
「今夜はどうぞごゆっくりなさって。明日以降、お話し下されば嬉しいです」
冬姫は忠三郎の苦労を分かち合いたい。せめて話だけでも聞きたかった。彼が愚痴してすっきりしてくれれば嬉しい。
「有難う。では明日お聞き頂きます」
「はい。あ、そうでした。今、この京にヴァリニャーノ猊下がいらしていることはご存知ですか?つい数日前、殿下とお会いになったのです。亡き大友様達お三方が、ローマに遣わされた若君達もご一緒に」
イエズス会のインド管区長・ヴァリニャーノは、再び日本巡察師に任命され、来日していた。ただ、彼はインド副王の使者も兼ねていた。
秀吉は、なおも国外に出て行かない伴天連達に腹を立てていた。そこへ新たにヴァリニャーノが来たのだ。
ヴァリニャーノはただひたすら、自分はインド副王の使者だと言い続け、巡察師のことは隠していたが、さすが秀吉は容易には信用せず、いつまでも対面を許さなかった。
それでも、ようやく気が変わり、インド副王の使者という話を信じてか、ヴァリニャーノに上洛の許可を出したのは昨年中のこと。ヴァリニャーノと秀吉との対面における一切全てを取り仕切る役目は、奥州仕置奉行の浅野長政(長吉)に命じられていた。
ところが、九州を出発したヴァリニャーノが播磨の室津に着いた時、奥州ではただならぬ一揆が勃発し、長政は帰京できなくなってしまったのである。インド副王の使節と関白の対面の儀の総責任者が不在では、儀式は挙行できない。ヴァリニャーノはそのため、上洛の許可が下りずに足止めされ、室津での滞在を余儀なくされた。
いくら待てども長政が帰ってくる気配はない。ヴァリニャーノはついに室津で年を越すことになった。
長政が帰れなかった。それもそのはず、忠三郎がいつまでも名生城に居座っていたからだ。長政はその間、ずっと二本松に留まらざるを得なかったのである。
忠三郎は政宗を信用できないと言い続けた。長政は、それならば政宗から人質をとればよいと、忠三郎をなだめた。
すったもんだの末、忠三郎はようやく名生城から出てきたが、この時点ですでに年明け。忠三郎が二本松で長政と合流したのは、一月十一日だった。
一方、室津に止め置かれたヴァリニャーノのもとには、もう長政は帰って来ないだろうという報告がもたらされていた。
秀吉は、長政の帰京を待たずにヴァリニャーノを引見しようと考え、年明け早々に上洛を許した。ヴァリニャーノはこうしてようやく上洛でき、閏一月八日、インド副王の使者として、秀吉と聚楽第で対面した。
聚楽第では盛大な儀式でもって、ヴァリニャーノらを迎えた。また、ヴァリニャーノは有馬、大友、大村がローマに派遣した四人の少年使節を伴っていた。すでに出発から九年経ち、彼等もすっかり青年となっていたが、秀吉は彼等の奏でる洋楽を大いに気に入ったのだという。
秀吉はその後、尾張へ鷹狩に出掛けて、今は留守。
ヴァリニャーノは、秀吉がインド副王に宛てた返書をしたためるまで、在京するという。
「それは。私のせいでヴァリニャーノ様にご迷惑をおかけしてしまった。お詫びしたい」
(秀吉は留守だというし。この機会を逃したら、ヴァリニャーノ様にお会いできない)
「すでに室津にいらっしゃった頃から、沢山の人々が会いに参られたそうです。来客が絶えないとか」
冬姫も対面しても危険はなさそうだと言った。
(明日お訪ねしよう!)
この夜の忠三郎はいささか欲望が先行していた。しかし、冬姫も忠三郎が欲しくて欲しくてたまらなかったらしく──。
一年ぶりの冬姫は、少しも変わっていなかった。忠三郎の手の霜焼けの痕を、痛々しげにずっと優しく撫でていた。
忠三郎は眠らなかった。疲れていたはずだが、積もる話に眠気も忘れ、飽くこともなく冬姫を見つめ続けた。
これからしばらくは冬姫と過ごせるだろう。話などいくらでもする時間はある。なのに一年ぶりの今夜は、どうしても止まらなかった。
話と言っても、他愛ないことばかり。この一年、身が焦げて自分を持て余したほど想い欲した相手を、漸く手の内にしたのだ。
「全くお変わりない。何て綺麗なんだ……」
熱い息とともに囁いて、幾度となく抱きしめる。冬姫も彼の身を抱きしめ、指に力をきゅっと込め──その手で彼への恋情を伝える。忘我、陶酔、うっとり忠三郎は愛に浸った。




