表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
75/119

狂い始まる(上)

 二月七日。松坂を出たこの日が全ての始まりと言ってよい。忠三郎の運命の歯車が、違う動きを始めたのはこの日だ。彼にとって二月七日は特別な日である。

 忠三郎の軍勢は東海道を進み、駿府で信雄と会った。

 忠三郎は秀吉の言葉そのままに、信雄の面倒を見るつもりでいた。信雄には今、おかしな行動をとらせたくない。秀吉は彼を追いやりたいに違いないのだから。

 小牧の戦では、成り行きで彼と敵味方に分かれて戦うことになってしまったが、忠三郎だってそれは本意ではなかった。

 しかし、そのことを、信雄は少なからず根に持っているようであった。それが態度にも顕れている。思えば、信雄が居城として自分で普請した松ヶ島城を、忠三郎が奪って居城にしたようなものなのだから、恨まれても当然かもしれない。

 それでも忠三郎はさり気なく振る舞い、共に先に進んで、家康と駿河沼津の三枚橋城で合流した。

 秀吉の三枚橋到着は遅く、三月二十七日になっていた。

 実は秀吉の軍勢には、進軍中に、家康と信雄に謀反の計画があるとの噂が流れていたのだ。家康はそれもうまくかわしてしまったが、信雄の方はかなり我慢ならない様子である。

「秀吉が私を討つ口実を作ったのだ。そのための流言だ!」

 忠三郎は信雄に心中では同意した。

(ありもしない謀反の噂……いや、謀反か!小田原と手を組んだら、可能だろうか……いや、天下統一が先だ。秀吉に天下を統一させて、他国に隙を見せぬ盤石の構えができぬうちは──)

 忠三郎は信雄を宥めにかかった。


 北条方の防衛の第一線は、箱根の山中城と伊豆の韮山城である。ここが最重要の拠点である。

 秀吉はまずこれを攻めると決めた。

 韮山城攻めの大将は信雄、四万四千。忠三郎はここに配属された。

 ここはなかなかてこずった。どうあっても攻められない。城は急峻の地にあり、真上から信雄軍を狙い、必ず仕留めてくる。その上、こちらは兵糧を現地で調達できずにいる。

 一方の秀吉率いる本隊は、山中城を一日で落とし、一気に箱根を越え、北条の本拠・小田原城を包囲した。

 山中城とて堅固。それを秀吉は一日で落としてしまったというので、忠三郎は焦った。

 韮山城は攻めれば攻める程、犠牲者が出る。猛将・福島正則でも七百人近い死者を出して退却。

 蒲生軍四千も矢玉の餌食となり、一日で四百三十人も死んでいる。忠三郎は矢玉飛び交う中を、構わず前線で奮戦した。彼の天性の動体視力は、鉄砲玉も避けられる。しかし、無理なものは無理で。

 韮山城の背後には険しい天狗峰があり、その上に天狗岳砦、幾つもの尾根にそれぞれ砦が築かれ、城を囲んでいる。

 退却してきた忠三郎は、城を見上げて、信雄へ提案した。

「城は天狗岳の下。さすれば、天狗岳の砦に寄り、尾根伝いに進んで、城を上から撃っては如何でしょうか?かなり険しい山ですが、それがしが……」

「やめぬか!」

 信雄が不機嫌そうな声を出した。

 忠三郎が伴っている上坂左文(蒲生郷可)を見やって、眉を顰める。左文は左目に銃弾が入ったのを、自ら素手でえぐり出していた。夥しい出血で、手拭いでぐるぐる巻いたが、手拭いはたちまち血に染まって、さらに血が滴っていた。

「そなた、何をそんなに焦っておる?そなたは案外せっかちよの」

 何故そう生き急ぐのかと信雄は言った。

「無謀なことはするな。我等は敵の十倍。無理はせず、持久戦に持ち込めばすむことであろう。何故わざわざ死のうとする。そなた、父上から叱られたこと、忘れたか?」

 忠三郎ははっと信雄を見つめた。

 忠三郎が前線で戦うのは今日だけのことではない。彼はいつも、どの戦でも先陣きって、真っ先に駆け出していた。ただし、総大将の時は後ろで指揮している。彼がこれまで出陣した戦のほとんどで、総大将は信長か秀吉だった。

 一軍の大将だったから、戦の陣頭指揮に立ってきたのだが、そのことを、信長から叱られたことがある。


──そのようなことは雑兵のすること、大将のすることではない。大将が討たれた時点で、その戦は負けだ。大将は最後まで討たれてはならないのだ──


 信長は忠三郎を、いずれ総大将になる者として、その心得を伝えたのだろう。

 信雄が指摘した。

「そなたは命知らずなどではない、ただの向こう見ずよ。己は死なぬとでも思っているのか?見よ、そなたの隣の男を。そなたとて、いつそうなってもおかしくない。たまたま運が良いだけだ」

 決死の覚悟で出てきた。だから、自分の肖像を描かせた。

 だが──。

(今死んでどうなる?)

 死んでしまったら、野望は達成できない。

(死など恐れたことは一度もなかったのに)

 野望を持って、初めて、まだ死ぬわけにはいかないと思った。

(野望のある人間は、死を恐れるのか!)

──天下が欲しい!

「家臣を信用しておらぬのか?他人に任せられぬ性分なのか?何でも自分でやらねば気がすまぬのか。……こまねずみよ」

 溜め息混じりに信雄は声を微かに歪めさせた。下賤の性分だと、その溜め息が言っている。

「……は、それがしが浅はかでございました」

 忠三郎は頭を下げ、素直に退出してきた。傍らで左文は、このような主を珍しいことだと感じていた。

(私も死にますまい……ああ、野望ある者は、その野望のために、無茶も厭わず、突き進むものだと思っていたが。あべこべだ……)


 それからわずか数日後の四月五日。秀吉から、小田原城包囲に加わるよう呼び出しがあった。

 信雄、忠三郎、それに織田信包と細川忠興は小田原へ転進し、残りの武将が韮山城包囲を続けることになった。以後、韮山城攻めは持久戦となり、三ヶ月近く包囲し続けることになる。

 一方、小田原城に籠もる北条勢は、五万七千人近くにもなるという。そのため、これを包囲するには相当大掛かりになった。

 城の東は徳川家康。

 北は信雄、忠三郎。そして、秀吉の甥・秀次、秀勝(小吉)。

 西は信包、忠興に、宇喜多秀家。

 西南は堀秀政、池田輝政、丹羽長重、長谷川秀一。

 南の海上には毛利水軍、九鬼嘉隆や加藤嘉明、長宗我部元親らが軍船を並べていた。

 合わせて十四万八千人の大軍勢。

 そして、秀吉は小田原城を眼下に見下ろせる石垣山に城を築いた。林の中で突貫工事で築かれ、ある夜明けに林を伐採し、北条方にその姿を見せつけた。ある日、突如現れた城は、北条方を仰天させた。


 長期間、戦局は動かなかった。互いにじっと睨み合っているだけだった。

 ただ一度だけ、城側から奇襲が仕掛けられたことがあったが、これは小競り合いで、しかも城側の失敗に終わっている。

 ただ、仕掛けられたのが、たまたま忠三郎の陣だったというのが不思議な偶然だった。

 夜襲だった。五月三日、広沢重信は寝静まった蒲生陣中に乱入した。

 見張りの兵が防戦している間に、飛び起きた忠三郎が家臣の兜をつけて敵の中へ突入して行った。自分の兜はその場になく、兜持が駆けつけるのを待っていられなかったのだ。

 忠三郎の動きはとにかく素早く、いつの間にか敵の背後に回り込んでいて、蒲生の陣中に目の向いている敵の、背中を次々と斬り捨て突き刺していった。

 すぐに家臣団も乱戦に及び、忠三郎の機敏さと機転で、すぐにも敵を蹴散らしてしまった。敵はすぐに退却。忠三郎は、城の方まで追いかけて行って、蒲生軍は三十人程を討ち取った。

 他に戦闘はなかったため、蒲生軍の武勇のみが持て囃されることになった。忠三郎は戦上手の家臣団を、己の手足のように、自由自在に動かしている。それを秀吉にも褒められた。

 小田原城の包囲は他に何事もないまま七月六日まで続いた。

 関東の各城は前田利家など、担当の武将が悉く下し、開城していないのは成田氏長の忍城だけであった。

 秀吉は長期の籠城戦に厭いて、側室、女房衆を呼び寄せて遊び。諸大名にも妻らを陣中に呼ぶ許可を出す。宴、茶会、温泉と賑やかだ。

 冬姫は松坂にいる桐の御方に、上坂左文の妻を小田原に遣りたい旨、願い出た。左文の妻は桐の御方の親族であるから、桐の御方に仕えていたのだ。冬姫は大怪我を負った左文のために、その妻に薬等を沢山持たせ、忠三郎には京屋敷にある茶道具を送った。

 左文は、実は秀吉に仕えてみたいという夢があったらしいが、今は蒲生家で良かったと思っている。


 七月六日、ようやく北条氏は降伏してきて、北条氏政、氏照は切腹。家康の娘婿・氏直は命だけは助けられ、妻と離縁になった上、高野山に追放となった。

 十三日、論功行賞が行われたが、それに先立ち、秀吉と家康は何事か話し合っていたらしい。

 論功行賞の席上、秀吉は家康に対し、

「北条旧領の伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野を徳川殿に与えよう。その代わり、旧領は返上されよ」

と言ったが、家康は平然とそれを受けた。

 家康は先祖伝来の地を手放すことを、何とも思っていないらしい。

 秀吉はさらに言った。

「徳川殿の旧領である駿河、遠江、三河、甲斐、信濃は内大臣殿(信雄)にお願い致したい」

 すると、信雄はむっとした。

 隣で忠三郎、思わず、

「なりませぬ!」

と小声でたしなめてしまった。

 秀吉に見つかってしまったが、秀吉は素知らぬ顔を決め込んでいる。信雄は忠三郎など無視して言った。

「国替えは容赦願いたい。織田家重代の尾張と、北伊勢に置いておいて頂きたい」

 すると、忽ち秀吉は烈火の如く怒った。

「そなたは何らの働きもないが、亡き信長公のお子故、ただ血筋だけの理由で五ヶ国もくれてやると言うに!そうか、いらぬか。なれば尾張も北伊勢も取り上げる。そなたは国を治める器ではないからな。とっぷり田舎で己を思い知るがよい!」

 信雄、はっとしたが遅い。

「はじめからそのつもりだったな!」

「がたがたうるさいわ!つまみ出せ!」

 信雄は突き飛ばされた。忠三郎が唾を飲み込んでいると、ぱっと秀吉が忠三郎を振り返り、信雄を睨みつけた目のまま吼えた。

「蒲生飛騨守!……そちの夜討ちへの対応は見事であった故、奥州十二郡を与える」

「は……」

「会津の地じゃ。四十万石以上あるであろう。よって伊勢松坂は返上せよ。よいな?」

「……身に余る光栄に存じ奉りまする……」

 がばと平伏した。

 頭を殴られたような衝撃。だが、断ることは許されない。辞退すれば信雄と同じことになるだろう。

 奥州、会津と言われても、ぴんとこない。フィリピンやインドネシアのように。畿内出身の彼にとって、それと似たような感覚だ。

 四十万石とはいえ、未開の田舎なら、商業の地・松坂の十二万石より貧しくなる。

 石高が増えれば、兵や家臣を大幅に増やさなければならない。それで軍は強固になるが、米など大した収入にならない。

 信雄の気持ちが痛いほど分かる。だが、断ったら破滅なのだ。忠三郎は屈辱さえ感じつつも承諾した。

 秀吉の目は鋭かった。


 信雄は那須へ追放だという。忠三郎は自然に信雄の陣へと足が向いていた。

 天下が一気に見えない所まで遠ざかった。奈落から、どうやって望めよう。

「私を笑いに来たか?」

 信雄は忠三郎を一瞥して、面倒そうに言い捨てた。

「滅相もない!お力になれなかったことを……」

「はっ!そなた如きの力なぞ借りぬ!」

 信雄は忠三郎の思いを傲慢と見下した。

 忠三郎は何も言えなかった。あの時、秀吉の前で信雄を取りなすこともしなかった。

「疾く帰れ──それとも何か?私に尾張を取り返してくれるとでも言うのか?」

 そこで初めて信雄はにやと笑った。

「だったら、妹を織田家に返してもらおう。猿に忠節を示せば、尾張くらい返してくれるだろうからな。冬姫を猿めにくれてやればすむことよ」

 絶句した。

「できぬか?冬はそなたを滅ぼす女だ」

 信雄は秀吉を猿と呼んで憚らない。

「次はそなたの番だ。さっそく僻地に左遷されたようだな。那須より奥地だそうではないか。が、すぐにそこも召し上げになるだろう」

「何故、左様なこと……」

「わからぬか?兄上(信忠)と信房(勝長)が死んで、信孝は猿に殺された。秀勝も死に、唯一生き残った私は追放。あとはわけのわからぬ幼い童ばかり。だから、次は婿の番だ。猿は織田を踏み潰したいのだ、そなたが次の獲物よ」

 随分荒んだ考えだ。信雄、またくっと喉を鳴らした。

「左様なことは嫌か?だったら織田の婿はやめることだ。冬姫を返して自由になれ」

「それは──」

「できぬのか?妻一人くらい何だ。妻が織田の娘ゆえに、己が猿めに憎まれるならば、いっそその妻を殺すくらいの気概もないのか?だから、冬はそなたを滅ぼす女だと言うのだ。父上はそなたが欲しがったから与えたという。父上はそなたが可愛かったなら、何故左様な毒婦を与えたのだろうか。そなたが溺れずにすむ娘を与えればよかったのに。まあ、いい。猿は織田の娘を組み敷き支配したいのだ、冬でなくとも、妹のうちの誰かですむだろう」

 信雄はそこでやや口元をひきつらせた。

「私は追放の身となった故、もはや織田の管理もできぬ。今後そなたにその辺りのこと、猿が委ねることがあろうな」

 妹達を忠三郎に委ねなければならないのが、信雄には屈辱なようだ。

「会津だったな?そなたは間もなく死ぬ」

「えっ?」

「奥州の連中は、猿の出陣要請を無視して、小田原に来なかった。遅れて来た伊達やらいう小僧は猿も許したが、他の者どもは許さぬだろう。それに伊達も、自力で奪った会津を猿に取り上げられた。伊達とて面白くないはず。会津周辺には不穏なものしかない。何事も起こらぬわけがないわ。そなたは必ず死ぬ!」

 まるで、秀吉が忠三郎を殺すために会津にやるとでも言いたげだ。

「猿は天下人の気分だからな。主家の織田家が視界に入るのが、どうにも堪えられぬのよ。猿は主家・織田を臣下としたいが、それだけでは満足できぬらしい。婿のそなたも殺さねば、安心できぬのだ」

 そこまで言われて、忠三郎もやや声を荒げずにはいられなかった。

「死ぬ死ぬと、どうしてそう言いきれます!それがしは死にませぬ!それがしの命、あなた様に占って頂きたくございませぬ!それに、関白殿下に真に左様な邪な考えがあるなら、死ねばそれこそ殿下の思う壺ではありませんか。確かに織田家にはもうそれがししかおりませぬ。それがしが死んでは、いよいよ織田家を守れなくなります。それを!あなた様はそれがしが死ねばよいと思っておられるのですか?」

「そうだ!我等兄弟皆死んで、私は全て失って身一つで追放となった。これでそなたはついに織田家を手に入れた。猿と謀ったか?」

(何という!)

 胸が煮えたぎり、眦に涙が滲んでくる。

「そなたは死ぬ!」

 だが、信雄の目は、呪わしい言葉を吐く口とは裏腹な、真摯なものだった。

「死にませぬ!」

「いや死ぬ。わからぬか?織田の婿なら婿らしく、織田の者らしくしろ!」

 はっとした。

 信雄は忠三郎の戦をたしなめているのかと閃いた。不穏な奥州で戦になったら、忠三郎でも死ぬかもしれない。彼の戦ぶりでは死ぬ。若武者の時分には信長がいた。守られていた。だが、もう織田家はない。

「悔しいだろう?」

 悔しかったら生きてみろと、信雄の目が言っている気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ