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馬印

 さて、その日、忠三郎は秀吉に呼び出されていた。用件はよくわからない。

 小田原征伐に先立って、徳川家康は息子の長丸を人質として聚楽第に遣わしていた。敵の北条氏直は家康の娘婿だからである。

 家康は早くから秀吉に従う意思を示し、北条を討伐する際には、先陣を務めたいと自ら申し出ている。それでも、用心深い家康は、秀吉に疑われてはなるまいと、我が子を差し出したのだ。

 秀吉はその意を汲んで、長丸を元服させ、秀忠と名乗らせると、そのまま家康のもとに送って返した。

 家康は三河、駿河の諸城を整え、秀吉を迎える支度をしている。

 秀吉も準備万端整えて、各武将の配置も決めている。

 小田原城の海上封鎖のため、水軍を出す他、東海道、東山道それぞれから軍勢を進ませる。

 忠三郎は東海道の先陣を命じられていた。他には秀吉の甥・秀次、織田信雄、そして家康である。

 軍の配備も決まっているのに、今更何の用があって呼び出されるのだろう。

「おお、忠三郎、呼び出してすまなんだの」

 秀吉はいつも通り機嫌が良かった。

「実はの、家康のことじゃ」

 秀吉はなお家康を疑っているらしい。

(徳川殿は、己の損になるようなことはなさるまい。今更、愚かな真似もしないだろうに)

 秀吉は随分疑り深い。が、忠三郎の考えを見通してか、秀吉はこう言った。

「問題は信雄よ。信雄の動きによっては家康とての。だから、そちには信雄の面倒をよく見てもらいたいんじゃわ」

 信雄は確かに危なっかしい。とはいえ、信雄の義兄弟にこのようなことを命じるとは。秀吉は忠三郎が信雄に同調するとは思わぬのであろうか。

 今の忠三郎には腹に一物ある。忠三郎、鶴千代への期待も手伝って、野心がむくむくと腹の底からわいて、妙に挑戦的になった。

「実は折り入ってお願いがございます。馬印がいまいち目立たぬのです。新しく変えたいのでございますが──」

「ほう、好きに変えたらよいだろう?」

「はっ、つきましては三蓋笠(菅笠三階)を賜りたく存じます」

 秀吉、目を剥いた。

「そら耳か、三蓋笠と聞こえたが?」

「左様にございます」

「そちは……」

 秀吉は眼球に力を込めた。

「切支丹であろう?」

(切支丹はいかなることがあろうと、己の主君に従うのではなかったのか?)

 忠三郎はふっと笑って言い切った。

「臣下たるもの、主君がならぬと仰せのものに、どうして固執できましょうぞ。それがし、先年、かの覚書を預け下されました」

「ほう」

(ではデウスの教えとやらには従わぬということか。主君に逆らうことも背くこともあるということじゃな?)

「で、なんでまた三蓋笠の馬印なのじゃ?まさか、佐々成政という男を忘れたわけではあるまい?」

「勿論でございます」

 忠三郎は眼を光らせ、じっと秀吉を見やった。

 三蓋笠。それはかつて織田家中随一の豪の者、佐々成政の馬印であった。忠三郎が憧れたほどの名将である。

 今、この三蓋笠を使用する者はいなかった。

 本能寺の変の後、佐々成政は秀吉と争ったが、小牧の戦の後、ついに観念して降伏していた。その後は秀吉のお伽衆になっていた。

 秀吉は内心成政を斬りたかったのだろうか、それとも心底かつての友だと思っていたのか。九州征伐の後には、肥後を与えていた。

 だが、案の定、うまくいかなかった。領内に一揆が起こり、俄に政情不安定になったのである。

 九州一帯危機的状況に陥ったことに秀吉は怒り、成政に腹を斬らせていた。

 秀吉には腹立たしい思い出でしかない。皆、それを承知していたから、佐々の名は持ち出さなかった。

 それを、馬印をと言い出すのだから──。だが、この時、秀吉は不意に呵々と笑った。

「己の武勇は佐々に少しも引けをとらぬと、自信があるな?いいだろう、天下を見渡して、佐々の馬印を使えるほどの者は、確かに蒲生飛騨守くらいしかおらぬ」

「おそれいりまする」

「いやはや、そちは豪胆な男じゃわ!」

(一揆に泣いた男の縁起悪い馬印ぞ。あえて、縁起の悪い物を持ちたいと思う奇特な奴。勝手にすりゃいい)

 秀吉は愉快そうに笑う。

 上機嫌な秀吉。忠三郎は挑戦的な気持ちもあって、以前からの気掛かりを口にした。

「いま一つ、お尋ね致したき事がございます」

「何なりと」

「最近、しばしば唐土への野望を周囲に口になさっているとか。それは朝鮮に目的がおありなのでしょうか?」

 瞬間、秀吉の目が光った。冷ややかに告げる。

「朝鮮ならば、何とする?」

「朝鮮に拠点を持つべきではないと存じます」

(こやつ?──切支丹だが、何を考えておる?)

「朝鮮に拠点を持つは危険と存じまする。日本は四海に囲まれ、外敵に襲われる心配はまずありませぬ。されど、朝鮮だけは例外です」

 秀吉はすっかり不機嫌になった。それを顔に出さずにいるのは、よほど警戒しているのであろう。

「恐れながら、最初に唐(明)入りを口にしたは、イエズス会と伺っております。今、それを日本から追い出さんとしておられるのに、何故、イエズス会の提案に従われますのか?」

「……興味深い、続けよ」

「唐入りするには、まず肥前に集結し、そこから渡海して、朝鮮に拠点を持たねばなりませぬ。また、それは東国の諸将には多大な負担となります。必然的に、西国の諸将が中心となって渡海することとなりましょう。されど、イエズス会は東国には到らぬうちに、御意により、国外に去ることになりました。つまり、朝鮮に渡ることになる西国の諸将の中に、キリシタンが数多含まれるのでございます。そのキリシタンの諸将が朝鮮に拠点を持つことになるのです」

「おかしなことを言う。そちも切支丹ではないか」

(こやつ、いったい何を企んでいる?)

 秀吉はキリシタンの忠三郎が唐入りに反対することから、一つの解答を導き出す。

(伴天連どもは、かつてわしが唐入りすることを望んでいた。だが、切支丹のこやつがそれはならぬと言う。つまり、わしが伴天連に掌を返した現状では、わしに明を取られるのは困るわけよな。だったら、明に攻めて行くまでよ)

 忠三郎がまだ何かぐだぐだと言っていたが、それはほとんど耳に入ってこない。

 キリシタンの世迷い言には、聞く耳を持たぬことにしている。

「朝鮮に拠点を持たれませぬよう。キリシタンの諸将どもがフィリピン総督府の兵を手引きし、朝鮮を手渡してしまえば、朝鮮はイスパニアの拠点となり、そこから日本が攻撃される可能性が出て参ります。現状ならば、どこからも攻められる心配はなく、イスパニアには左様な力もないので──」

 うんうんと適当に相槌を打ちつつ、秀吉は考える。

(こやつ、伴天連どもからいったい何を吹き込まれた?まあ、いずれにせよ、こやつは渡海させないに限る。怪しいからの。日本で留守番だわえ。わしも日本でこやつを見張っておかねばのう)

「そもそも、数十万の兵が要り、軍船の確保だけでも容易ではなく、まして長期に渡って数十万分の兵糧を確保、補給するのは現実的に不可能でしょう。兵糧の大部分は現地で確保することになりましょうが、朝鮮の民が売ってくれるとは思えませぬ。朝鮮が我等に同心しなかった場合、民は朝鮮王の命で、我等に兵糧を渡さぬはず。冬の寒さは日本と比較にならぬ程と聞きまする故、疫病も蔓延するでしょう。短期に制圧できず、結局撤兵となるは必定。日本が撤兵した後、弱りきった朝鮮にルソン兵が攻め寄せれば、キリシタン武将どもが手引きするまでもなく、容易にイスパニアは朝鮮を落とせてしまい──。ですから、是が非でも、唐入りはなりませぬ!朝鮮は手に入らず仕舞いで、得することは万に一つもなく、逆に日本が危険にさらされ──」

 忠三郎は更になおくどくど力説しているが、秀吉は全く話を聞いてはいず、これまでに持つことのなかった忠三郎への警戒を、俄かに抱いていたのであった。


 馬印や朝鮮のことを口にし、忠三郎は随分すっきりした。

 すっきりしたどころか高揚感がある。顔をやや紅潮させ、屋敷に闊歩して帰ってきた。

 忠三郎の覇気溢れる眼が冬姫を見つけると、周囲に侍女たちがいるのに、彼はいきなりその白い手を掴んだ。

 侍女達が慌てて部屋を出、障子を閉めて行った。日はまだ沈みきっていない。

 人の目のある所で、憚りもなく冬姫に触るなど、忠三郎らしくないし、冬姫は羞恥で赤面した。

「……何か、よいことでもございましたか?」

「あった!ありました。臆病に勝った。私は冬さまの婿!そうですとも!」

 この信長の娘の体を好きにしてよい権利を持つ、唯一の人間だ。

(秀吉め、いくらもがいたってそなたは上様の後継者ではないわ!簒奪者め、必ず私が!)

「忠三郎さま?」

 狂気じみた眼は重瞳のようにも見える。

「冬さま、私はお父上の後継者ですな?」

 冬姫は頷いた。

「やりますよ、絶対。だから、鶴千代は人の上に立つ男に育てなくてはならないのです」

 伴天連への仕打ちにより、イエズス会ばかりか、ローマ法王やスペインをも怒らせたかもしれない、日本を危険に晒した秀吉。それに代わり、忠三郎が天下を治めなければならない。そして、日本じゅうにキリスト教を広め、許し合い、愛し合う世を、そして、決して殺し合うことのない世を作るのだ。勿論、朝鮮に拠点を持ったり、明に攻めて行って、日本を危険にさらすようなこともしない。スペイン、ローマとうまく渡り合えるのは忠三郎だけだ。


 その夜更け、冬姫が寝所に入ろうとすると、先に中にいた忠三郎が、神に祈りを捧げているところだった。何事をそんなに熱心に祈っているのか。

 冬姫は終わるまで入らず、外で様子を窺っていた。

 冬姫はなお信仰を持つことはできなかった。この時勢だけが原因ではない。

 信じたいと思うのに、どうしても駄目なのだ。人知れぬ力の妨げを感じる。サタンかデウスか。冬姫は信仰に入れないように定められているようだ。

 全能なるデウスは、何故サタンに落ちた罪人の心を動かしてはくれないのか。何故、全ての人間の心を信仰に向かわせてくれないのか。

 冬姫は、彼女の心を信仰へと変えてくれない神へ、そっと祈った。あなたを信じたいのだ、拒絶し給うなと。

 忠三郎の祈りも終わったようだった。冬姫は静かに中へ入った。

 いつも一人でひっそりと祈っている彼だが、今日はいつもよりも随分と長いこと祈っていたようである。

「ああ、おいででしたか」

 衣擦れの音に、振り返った忠三郎の目は、普段通りの慈愛に満ちたものだった。夕方の彼とは違う。

 祈りには、沈静の作用もあるようだ。神に語りかけるうちに、心穏やかになるのだろう。

「昼間の罪の許しを請うていました」

 忠三郎はかすかに自嘲を頬に浮かべた。秀吉の面前で、イエズス会はともかく、覚書云々と、心ならずも神を否定するようなことを口にしてしまった。

「私は毎日罪を犯してしまう」

 冬姫は首を横に振った。

 閨の中でも、忠三郎はいつもと変わらなかった。

 胸は熱く、四肢は力強く、息吹きは情熱的で、声は甘い。

 情欲のままに快楽を得ようとしたことはない。快楽は別にいい。冬姫への慕情だけ。

 冬姫の吐息と、忠三郎の情熱と。やがて昇華して、知らず法悦を得る。その極みに我を忘れて、気の利いた和歌ではなく、飾りのない想いをそのまま口にし──心鎮まるまで身はほどけない。

 いつもと同じ。


 数日後、松坂に向かった忠三郎は覚悟を決めた。

 唐入りを否定したり、三蓋笠の馬印を乞うた以上、疑われて死地に追いやられるかもしれない。だが、秀吉への挑戦は新たな人生への第一歩。

 忠三郎の覇道は始まったばかり。

 いつの日か、天下を手にするため──その第一歩を踏み出したところなのだ。

(もし死ねば、鶴千代に委ねなくてはならない)

 今の決意の姿を永遠に留め、鶴千代に遺さんと、絵師を呼んだ。

 忠三郎は絵師に己の姿を描かせると、それを日野の信楽院へ納めるよう、乳母に命じた。

 そして、新たに生まれ変わった気持ちで、四千の兵を率いて関東へ出陣して行った。

 二月七日。

 数えで三十五の歳のことである。

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