山鹿の帰還
松坂は歓喜の声に包まれていた。山鹿六右衛門らが、無事にローマから帰ってきたのである。
それでも、途中嵐に遭い、航海予定は狂ったという。忠三郎とその母・桐の御方に迎えられた六右衛門は、
「岩上殿は再び渡海するとて、平戸におります」
バテレン追放令が出たので、ローマからの日本批判を回避するため、忠三郎はローマに使節を送って弁明を試みようと、使節団を平戸にやっていた。六右衛門と共にローマへ行った岩上は、その新たな使節と合流しているという。
「そうか。マカオで竹村とは会えたか?」
「それが、行き違いになったようで……」
最初の使節は六右衛門ら十二人。二番目のは、ローマで聖像を手に入れるために遣わした竹村団。岩上が合流した平戸にいるのが、三番目の使節団である。
忠三郎は、ローマから戻ってきた六右衛門とマカオで落ち合って相談しろと、第二団の竹村に命じておいたのだが。
「それは困った……」
忠三郎、歓喜も束の間、急に顔を曇らせてしまった。
「忠三郎殿、お話が済んだら、六右衛門を貸して下さいね」
大事な話をするのだろうと、桐の御方はその言葉を残して奥へ下がった。忠三郎は母の後ろ姿を見送ってから言った。
「行き違いになったなら、竹村はローマの状況を知らぬまま、かの地へ向かったのであろうな。逆に、日本にもおらなんだ故、パードレが追放になったことも知らぬのであろうか」
遭難している可能性もある。
第三団の派遣を急がなければなるまい。いつまでも平戸に留めておけない。
「ところで、パパ聖下にお会いすること、叶ったのか?」
「はい。長いこと交渉しなければなりませんでしたが、ロルテス様の紹介状と、日本が大流行していたおかげで」
九州の三領主が遣わした少年使節団は、各地でもてはやされ、日本は欧州で随分注目されている。けっこう好意的に見られていた。
そのおかげで、六右衛門らも歓迎された。シクストゥス5世に謁見することも叶った。
「新しい聖下はどのような方だった?イエズス会には冷たいと聞いたが」
「はい。フランシスコ会の日本上陸を斡旋して欲しいとのことでしたが」
先代のグレゴリウス13世は、日本に携わるのはイエズス会のみにせよと命じていた。一方、次代のシクストゥス5世はフランシスコ会出身なため、それを覆してしまった。
「しかし、フェリペ王のことがお気に召さないようでございます」
六右衛門は一つ木箱を抱えていた。大事に、誰にも渡さず。
「実は日本はかの大友さま達の使節団のおかげで、あちらで人気になってはいたのですが……パパの周辺では、ヴァリニャーノ師父をご不快に思われていまして。それもイエズス会の印象を悪くしたのですが」
フェリペ2世から歓待された少年達は、先代の法王・グレゴリウス13世から、カトリック国の王の代理という扱いで対面を許された。
ところが、その後、少年達が王族などではないことが判明し、ヴァリニャーノが少年達の身分を偽ったとして、問題になったのである。こともあろうに、ローマ法王が一国の国王に対するような態度で接してしまい、日本の内情を知らないという、法王庁の無知をさらけ出す形になってしまっていた。
「パパが恥をかかされたというわけなのです。それがしが参りました時には、ちょうどそれが問題になっていましたので、今度はいかなる者が来たのかと、法王庁でもかなり慎重でございました」
シクストゥス5世に対面するのは、実は容易なことではなかった。
「それでも、織田信長公の御名はローマでも、全日本の君主として知られていたのです。その婿の君侯からの使節であることが判明し、また、ロルテス様の紹介状があったおかげで、枢機卿の幾人かが動いて下さいまして。それで、パパに謁見が叶いました」
「そなた、まさか私を信長公の跡継ぎとは言わなかったであろうな?」
「本当はそう申したかったところですが、ヴァリニャーノ師父のことが問題になっていた時ですし、婿としか申し上げられませんでした」
「それでいい」
忠三郎は苦笑した。
「で、肝心のお話はできたのか?」
「はい、先程申し上げましたように、パパはそもそもフェリペ王がお気に召さないご様子で。もしも王が日本征服を企んでいるならば、やめるよう強く言うであろうと。ただ……」
そこで六右衛門は声を落とし、抱えている木箱を忠三郎の前に押しやった。
「いかに全日本の君主の婿とはいえ、たとえ嗣子であったとしても、カトリックの者でない異教徒に、味方はできかねると。まずはカトリックの教理を学び、信仰を持ちなさいと、これをご下賜になりました」
六右衛門をローマに派遣した時、忠三郎はまだキリシタンになっていなかった。六右衛門は異教徒の使者として、ローマ法王に会ったのである。
「そうか、私がもう少し早くキリシタンになっていたなら、交渉はうまく行ったのかもしれぬな」
やや落胆気味の忠三郎。だが、シクストゥス5世は話せばわかってくれる人のようだ。それに、今は忠三郎もキリシタン。次の使節がその旨伝えてくれるはず。
「ヴァリニャーノ師父が、大友様達の使節を派遣して下さったおかげで、あちらでの日本の印象はとてもよく、日本を征服しようとか、属国にしようとか、そういう風潮は見られません。明をこそとか、日本を味方にして云々との話はパパ周辺からもちらほらとはあるような、ないような……?」
六右衛門は言いながらも手を動かしている。木箱の封を解いているのである。
「ヴァリニャーノ様はご自身の評判を落としながらも、日本のために尽くして下さったということか?」
ヴァリニャーノが派遣を計画した少年使節団が、ヨーロッパで人気となり、日本を攻めるべきでないという雰囲気になったということか。少年達の身分を偽ったとして、ヴァリニャーノ自身は非難されたが。
「なれば、次の竹村らは聖下とうまく交渉できるかもしれぬ。だが……」
ヴァリニャーノもオルガンティーノも、日本を攻めるべきでないと、以前からイエズス会本部に訴えていたと聞いてはいたが。改めてヴァリニャーノに感謝しなければならないが。
バテレン追放令は必ずイエズス会本部に伝わる。本部からまた、ローマじゅうに伝わるだろう。当然、シクストゥス5世の耳にも達する。
「日本の印象は最悪になる」
それこそ、日本征服論が巻き起こるのではないか。
「交渉はこれからが正念場だ。何としても、聖下にフェリペ王を説得して頂かねばならぬ。聖下を味方につけねば。そのためには、イエズス会を裏切ることになろうとも、フランシスコ会のこと、聖下の要求を受け入れよう」
忠三郎が溜め息をついている間に、六右衛門が木箱を開けた。中はさらに厳重になっている。袋が入っていた。
その袋の中からは、また箱が出てきた。その箱を開けると、絹の美しい布に包まれた聖書が姿を現した。
「これがパパから殿へ下し賜ったものでございます」
六右衛門は絹の布ごと両手に捧げ持って、忠三郎に手渡さんとした。
「これが……聖下が、直々にか?私へ、私へ下されたのか?」
「左様です」
忠三郎は唾を飲み下した。戦場でもこんなに緊張したことはない。
天国の鍵を持つローマ法王。地上の最高位にある人が、自分に贈り物を賜ったという事実。思えば、目の前にいる男などは、法王に直々に会っているのである。
まるで神から、イエスから賜った物のように感じ、触れたら、その瞬間に死んでしまいそうな気さえした。
「どうぞ、お受け取りを」
「い、いや、待て!」
忠三郎は小姓を呼ぶと、俄かに沐浴して、正装した。そして、賓客を迎えるために設えた部屋を清掃させ、上座に六右衛門を据え、自らは下座に平伏した。そうした上で、ようやく法王からの聖書を拝領したのである。
信長の婿となった時以来、いや、それ以上の光栄であろうか。忠三郎は息も忘れ、法王からの賜物に胸を高鳴らせた。
聖書はもとはヘブライ語で書かれたものだ。法王より下賜されたものはラテン語で、忠三郎には読めない。
だが、そんなことは関係なかった。法王よりの賜物というだけで、聖書の中には天国が詰まっている。




