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恋せずは人は心もなからまし

 その夜、忠三郎は先輩の小姓に、

「そなた、熱でもあるのか?顔火照ってるけど」

と指摘された。

 昼間の、信長の姫であるらしいあの少女の肌が脳裏から離れなかった。

「珍しくぼんやりしているしな。風邪でもひいたか?もういいから、下がって寝ろよ」

「いいえ、平気です」

 彼女の面影を飛ばすように、ぶんぶん頭を振る。

「いいから、寝ろ。お屋形様におうつししたらどうする。こういう時は、下がらせて頂くのも礼儀だ」

 風邪。熱。そんなはずはないだろうと、変な確信があった。とはいえ、あまり逆らうべきではないし、集中できないのも事実。粗相をして、他の小姓に迷惑をかけても、申し訳ない。

 それに、信長の前に身を置いているのが恐ろしくもあった。自分の心の奥底までも見抜かれそうな気がして。

 忠三郎はすぐに下がって、部屋で寝床に入った。さぼっているみたいで、ひどく罪悪感がある。

(小心者だよな、私は。少しでも悪いことをしただけで、こんなに心が乱れる。こんなんじゃ武将になんてなれないよ)

 はじめは罪悪感に胸をどきどきさせていた。だが、被った衾に体の熱が籠もり始まると、そのどぎまぎと火照りとが、少女へのときめきに変わる。

(何で……やっぱり、これは、恋……)

 幼い頃から、和歌の勉強をするのが好きだった。沢山の歌を見た。物語も読んだ。様々な歌人たちの、そして、物語の主人公たちの恋歌。それらに詠まれた想いと、まるでそっくりではないか。

──彼女に触れたい──

 きっとそれが本心なのだ。その心は、おそらく恋というやつなのに違いない。

(でも、あの娘は姫さまなのに……)

 しかし、頭ではどうすることもできない。それが感情というもの。恋に理由はない。勝手に好きになっている。

(姫さまなのに。無礼だ、許されない)

 まして、人質の彼なのに。

 忠三郎は一晩中、悶絶した。

 そうしているうちにも、いつしか浅い眠りには落ちて──しかし、その中にも彼女を見た。

(おかしくなっちゃいそうだ!)

 すぐに朝になったが、だるかった。火照っているし、恋という言葉に行き当たってから、姫への想いが募り、堪え難いものになっている。

 だが、小姓仕えはある。支度をして出仕すると、信長が顔を歪めていた。

「お前、まだ具合悪そうだな。寝ていろ。それに、小姓仕えはもういいぞ。年内に日野へ帰らせる。具合がよくなったら、帰る支度をしておけ。お前の父に迎えに来るよう言っておいた。一緒に帰れ。治ったら、和尚たちに挨拶してこいよ」

 呆けていると、信長がそう言った。

「……では、早速にも」

 忠三郎は今はまだよいという信長の言葉も上の空に、その前を辞して、そのまま南化和尚のもとへ向かおうとする。

 館の敷地内を歩いていると、天は悪戯が過ぎる、何故か彼女にばったり会った。

 姫がこちらを見た。ぴたと目が合う。忠三郎は狼狽した。

 虎口付近であるが、人気がない。姫も一人で、誰も伴っていなかった。

 姫を見るのはこれが最後かもしれない。

 忠三郎、よほどどうかしていたらしい。心は狼狽えるのに、足が勝手に動いていた。

 姫は自分に突進してくる少年に、ぎょっとして立ち竦む。

「姫様っ!」

 飛びかからんばかりの勢いで、彼は彼女を呼んでいた。頭は真っ白。

「それがし、姫様に心奪われましたっ!」

 叫んでいた。

 姫は目をむいて竦みあがる。だが、流石あの藤袴の少女なのである。ややあってから、

「……それで、あなたは私にどうせよと言うのですか?」

と訊いてきた。声はかすかに震えていたが、静かな口調だ。

 上擦った声なのは忠三郎の方で、

「どうとは……ただ、この抑えきれぬ想いを……抑えきれずにお伝えしてしまったのです。口にせねば、どうにかなって……いや……」

と、必死に言った。

「……口にしても……どうにかなってる……」

と、これは独り言のような、消え入りそうな呟き。

「それだけ?」

 姫は幾分落ち着いたようだ。

「……は、それだけ、です。それ以上のことは、望むべくもありません。お屋形様の姫様ですのに。叶わぬ想いと存じております」

「私をどうこうしたいというわけではないのですね」

 しかし、姫はほっとしたというよりは、むしろ少し怒ったような表情になった。

「あなたはそれですっきりしました?でも、私は困ってしまいます」

「お困りになることはありませぬ。ただの下賤の片恋です。お捨ておき下さい」

「そうはいきません。人から思いを寄せられた、人から思いを告げられた、その事実は永久に記憶として残るのですから。あなたは気持ちを口にして、すっきりしたかもしれないけれど、私はそうではありません。以後、あなたという存在を心に留めて、生きていくことになります」

 姫はまっすぐ忠三郎の瞳を見ている。彼が藤袴の野辺で見つけた時のように、意志の強さをたたえた眼だ。

「私達大名の娘は、父の命に従って生きなければなりません。父が私をどこの誰に嫁がせるかわかりませんが、私は父の決めた人のもとに必ず嫁ぎます。私はあなたのことを心のどこかに思いながら、父の決めた人の妻として生きるのです。あなたも、親の決めた人を妻に迎えなければならないでしょう?私のことをすっかり忘れて、別な人と暮らせます?」

「いえ、忘れられません」

 そこはきっぱり答える忠三郎だった。

「私だって、私を好きだと言った人のことは忘れられません。私の心を乱して、あなた、どう責任とって下さるの?」

 毅然とした姫の声が、心なしか澱んだように感じる。その眼にも、涙が浮かんでいるような?

「申し訳ありません!」

 姫は顔を背けた。怒ったからではあるまい。きっと涙をこぼさぬためだ。

 後悔した。忠三郎が決して口走ってはならないことだったのだ。

──恋せずは人は心もなからまし

もののあはれもこれよりぞ知る──

 という。しかし、恋をしては、知ってはならない身分や立場の人間もいるのだ。

「一緒になれない相手とわかっていながら、どうして?……私、父の決めた夫に、心から仕えることができるかしら……」

 そっぽを向いたままの姫だったが、そこで何か思いついたらしい。不意に顔を上げるや、懐から小さな錦の布を取り出した。そして、その包みを解く。中から小さな厨子が姿を現した。

 姫はくるりと振り返り、忠三郎を睨むように見て、その厨子を差し出した。

「あげます」

 忠三郎は面食らった。何故、姫がこんな大事そうなものをくれるのか。

「あなたが誰を妻としようと、これを持っていれば、嫌でも私を思い出すでしょう?私を忘れることはないでしょう?私はきっとあなたを忘れられないから、あなたも私を忘れないように──」

 つまり、これは告白された仕返しらしい。

「畏れ入ります……」

 どうしたらよいかわからず、忠三郎は手を出した。その上に姫が厨子を置く。

 珍品のようだ。彫漆のようである。

「父がくれたものです。中に銀の阿弥陀様がおわします。一番大事なものです。それを手放す苦悩がおわかりになりますか?でも、大切なものだから、あなたにあげるのです」

 そう言うと、踵を返して去りかけた。だが、振り返り、

「いいえ、駄目。私のことを忘れずに、他の人を妻とするなんて、その方に失礼だもの。あなたはあなたの妻だけを愛しみ、私のことは忘れて下さい!」

 そして、姫は今度こそ走り去っていった。

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