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貞操(下)

 翌日、東雲の頃から秀吉は起きていた。とら姫と身繕いしていると、忠三郎が現れた。

 忠三郎は薬師堂に冬姫を残し、出てきた孝蔵主に彼女を頼み、大力の藪下に堂の警護を命じて、こちらへ来ていたのだ。

(とら、すまない!)

 目で、忠三郎はとら姫に詫びた。

 忠三郎は京で秀吉から湯山へ誘われた時から、おかしいと思っていた。いや、彼は以前から気づいていた。秀吉の感情に。

 秀吉から、冬姫を人質にと求められた時には、もう確信していた。最初に気付いたのは、本能寺の変の直後、秀吉と安土城で再会した時。いや、もっと前。忠三郎と冬姫の祝言の時から、彼は気づいていたのかもしれない、秀吉本人さえまだ自覚のなかった冬姫への気持ちに。

 知っていて、迷惑に思う反面、どこか誇るような、挑発するような気持ちもあったかもしれない。だが、今回は危機感しかなかった。

 だから、大坂では甲賀者に秀吉を探らせ、万が一に備えて孝蔵主と連絡を取りつつ、こっそり湯山に引き返していたのだ。

 そうしているうちに秀吉は出掛けたという。秀吉を見失ってはならないと、甲賀者に追わせれば、湯山へ行くではないか。

(冬さまが危ない!)

 いよいよ当初の予想通りになると危惧して、忠三郎は冬姫を救い、あとはとら姫に任せたのだ。とら姫には、京を出る時、その乳母や孝蔵主と相談の上、因果を含めておいた。とら姫は、以前、人質に差し出された時から、冬姫の身代わりであることを十分理解していたので、改めて覚悟を定めてくれた。

 忠三郎が冬姫を宿から連れ出した直後、やはり秀吉は冬姫のもとにやって来た。そして、とら姫が役目を果たしてくれた。

「忠三郎、これはまた妙な所で会うたの」

 秀吉は座って忠三郎を迎えた。まだどこかはだけて、だらしなく着崩している。

「はっ。これは──?」

 妹に何をしたのかと、とぼけて問うた。

「何をと?」

 秀吉はくすっと笑った。普段は決して見せない、まるで別人のような顔で、ずっと座っている。

「忠三郎、そなた──」

 しばらくして、ふと立ち上がり、忠三郎の至近距離までどかどか歩いてきた。そして、

「芳い香りがするのう」

 くんくん忠三郎を嗅いだ。

「女の香りだの。ははあ、さては移り香か」

 またどかどか歩き、

「この香りだったな」

と呟いて、とら姫の隣に座った。

「そなたは切支丹ゆえ、それや奥方のであろ」

 とら姫の手を取りつつ、笑った。

「……は……」

 秀吉はとら姫の手をしきりに撫で回している。その仕草は、二人の関係性を物語っていた。

 忠三郎はつい伏し目がちになった。

 秀吉は目だけは忠三郎に向けたまま、やれやれと語った。

「大名で切支丹というのは、誠に生き難かろうな。伴天連どもめ、離縁は許さぬとて、再婚の妻と幸せに暮らしている者を、わざわざ引き離し、憎み合って別れた最初の妻と暮らさせるそうじゃな。民ならまだ、嫌々暮らすだけの話じゃが、大名だとそう簡単な話では済まされぬ。妻の実家と敵対しても離縁ならず、別な家と同盟したくとも、後妻もらえず、どうするんじゃ?子がなくても側室は置けず、家は断絶するしかないのう。主君から妾を下げ与えられても、拒否して謀反を疑われ」

 主君から妻女を夜伽に求められても、拒否して、謀反を疑われる。

(なれば、いっそ呉子(呉起)よろしく妻女を殺すしかないか)

 秀吉がにやり、笑っている。

「左様なこともございませぬ。主君から疑われることはないため、キリシタンには生きやすい世と存じます」

 忠三郎は顔を上げ、きっぱり言い切った。

「む?」

「キリシタンはいかなることがあろうとも、己の主君に逆らってはならないと、パードレから教育されております。キリシタンは裏切らぬこと、周知の事実ゆえ、あえて主君も、その忠義のほどを試す必要もございませねば。キリシタンに、二心疑われる心配はありません」

「ほ、左様か。それはまた主君にとって便利な輩よの」

 臣下の本心は見えないもの。だから、主君も粗略には扱えないのだ。しかし、キリシタンは心を全てさらけ出しているという。

 どんな難題を突きつけようと、どんな死地に追いやろうと、どんなに虐めようと──。主君に従うというのだから。

(愚かなり、忠三郎)

 秀吉はほくそ笑んだ。

「そなたは努力は惜しまないからの。頼もしいの」

 こき使ってやるぞと言われたわけだが、忠三郎は平伏した。

「ふむ。わしもそこまでしてくれる者の願いは聞き入れたい。いささか強引なやり方だが、そなたは余程わしと縁続きになりたかったと見ゆる。よいだろう、おとらをわしの側室に迎えてやる」

 忠三郎が顔を上げた。その容貌は、どこかとら姫と似ている。

(一石二鳥と思ったか?冬姫を奪われず、妹を側室に上げられる策だと。わしは敢えてその奸策に乗ってやった。されど、そなたは何も得られないであろう。かような愚策、これが上様の婿とはがっかりしたわい)

「おそれいりまする……妹は人質と思って下さって構いませぬ故……」

 忠三郎が再び平伏する。うまくいったか。そう、忠三郎は秀吉の義兄になる。甥ではいけない、兄でなければ。とら姫は妹でなければならなかったのだ。

 秀吉はいつも通りの笑顔になった。

「新しい邸を作って、おとらには、そこに住まいを与える。京の雲居の跡地に、これまで誰も見たことのないような、巨大で豪勢な邸を築くつもりじゃ。その中に、おとらの住まいをやろう。わしの邸の周りには、そなたら諸大名の家を建てさせ、そこに大名の妻子どもを悉く住まわせる。従わぬ奴はわしに逆らう者ゆえ、すぐに討伐に行く。わしへの忠義のほど、しかと判る。どうじゃ、良い考えじゃろう?」

 大名達の妻を、全て秀吉の住まいの周りに人質として置くということである。妻を人質に差し出さない大名は、秀吉に謀反する者と見なされる。また、妻を人質に取ることで、秀吉は大名の裏切りを防ぐこともできるのだ。

 とら姫は、間近で秀吉の顔をまじまじと見つめた。とても柔和な表情で、とんでもないことを言うと思った。

(私が側室として、人質としてお側へ参っても、なお蒲生は人質を出さなければならないの?)

 とら姫に冬姫。人質が二重になる。

(とらは何だったのか……)

 忠三郎も、内心凍り付いていた。

 秀吉が冬姫に夜這いをかけてきたところを、冬姫の身代わりにとら姫を抱かせ、その責任を問い詰め、ちゃっかりとら姫を側室に上げようと思ったのだが。秀吉の義兄になろうとした、欲を出したのがいけなかったか。

(ただ冬さまを救出するだけでよかったのだ。その後、とらをそこに寝かせておく必要など……余計なことをした)

 失策を悔いた。しかし、秀吉は笑顔で言った。

「冬姫さまと於次殿によって、わしと蒲生家は繋がっておった。だが、於次殿が亡くなって、蒲生家との縁も切れてしもうたかと思ったが。おとらによって、また繋がったの、義兄上よ。これからは兄として、わしを助けてくれ」

 秀吉は立ち上がり、部屋を出て行った。そのまま北政所がいる薬師堂へ向かう。

 とら姫と二人きりになった忠三郎は、頭を下げた。

「蒲生家のためです。そのようなことはなさらないで下さい。以前、人質に差し出された時に、こうなる覚悟はしておりました」

 女性として、屈辱的な出来事を、敢えて受け入れた後の顔とは思えないほど、とら姫は凛としていた。

 もともと、とら姫が人質に差し出されたのも、冬姫の身代わり的なところがあり、それが故に、即座に秀吉の手がついてもおかしくなかったのだ。今、ついに身代わりになったわけである。

「これで義兄上は、殿下に最も近しい重臣になれました。ただ、兄上」

 忠三郎が頭を上げた。その目をまじまじと見つめ、とら姫は忠告した。

「キリシタンを理由になさらないで下さい。これから何がありましょうとも。それは殿下の前では言い訳にもなりませぬ」

「……その通りだ」

 秀吉の博学な側室・三条殿とは、とら姫のことである。その怜悧さで秀吉に気に入られ、大事にされることになる。


 朝になると、薬師堂では北政所が孝蔵主を従えて、奥から出てきていた。そして、北政所と冬姫がその堂の中で談笑しているところへ、秀吉はやって来た。冬姫の後ろには、蒲生家の家人が控えている。

「あら、殿下!」

 北政所も冬姫も、秀吉がいることに驚いた。だが、北政所の傍らの孝蔵主だけは顔色一つ変えない。

「おう、おかか、ちとすまぬことなのだがよ」

 北政所の脇に座ると、秀吉は悪びれもせず言った。

「時間があったで、湯山の衆に支払いついでに迎えに来てやったのだがよ。それがのう、新しく側室を置くことになってしもうてなあ」

 北政所も冬姫も一瞬きょとんとした。だが、すぐに北政所は声を立てて笑い出した。

「あれまあ、今度はどこのだれ?ほんにお前様というお人は」

 全く動じない彼女の姿。照れたように頭を掻き掻き、詫びる秀吉。冬姫はこの夫婦の間に流れる空気に圧倒された。

「於次殿がいなくなって寂しくなっていましたから、これでまた賑やかになりましょう」

 仕様のないと笑う北政所の余裕と大きさに、冬姫は自分だったらこうしていられるだろうかと思っていると、秀吉が、

「冬姫さま、まことに申し訳ありませぬ。姫さまを姉上とお呼びする次第になりました。その、とら殿をですな──」

「ええっ?」

 冬姫は思わず頓狂な声を出した。

「お前様!蒲生家の姫に?」

「いやあ、あんまり可愛いいんで……」

 冬姫の様子から、彼女は忠三郎の姦計を知らされていないのだと知り、秀吉はわざと事実とは別のことを言った。

(おかか、すまんな……忠三郎め、自分が切支丹だから妻を差し出せぬとふざけおって。妹に姦淫させておると、気づかぬのか?)

「すまん!」

 秀吉は北政所の前で合掌して頭を下げた。が、当の北政所はそれを無視して冬姫に頭を下げている。

「姫さま、申し訳ございませぬ!」

「いいえ!こちらこそ申し訳ございません……」

 冬姫は昨夜、忠三郎が寝床に押し入ってきたことを思い出していた。

 堂の内には香が焚かれ、噎せ返んばかりに充満している。秀吉は昨夜の褥の香りをと、やや身を乗り出したが、冬姫の香りは届かなかった。

 懐妊しているという冬姫だが、この堂内に溢れる香りにも、気分を悪くすることもないのか、今朝はやつれも見えず、艶やかである。

(忠三郎め、この先どういじめてくれよう?あいつは才気溢れておるし、命を削ってでもやり遂げるから、ちょっとやそっとのことでは、めげるまい。そうだ、忠三郎よ!おぬしは能力がある、志も高い。だから、いかなる努力も惜しまない。努力して、必ずやりきってしまう。だがよ、そんなおぬしは秀次以下だと気付いておるか?秀次は精一杯努力しても、結果に表れず、いつもわしに叱られる。忠三郎はやり遂げるために、それや難儀な思いをしておるだろう、だがよ、それは苦労とは言わんのよ)

 秀吉は己のこれまでの屈辱的な生き方を、一瞬振り返った。

(──忠三郎、おぬしは上様に選ばれたのだろう?帝舜なのだろう?それならば、苦労しろ。帝舜のように。でなければ、帝舜の座には、上様のおられた場所には座れぬぞ。異形と見られし才子よ。このままでは、冬姫は虞姫になってしまうぞ)

 異形の王者として、その座は譲れないと思った。

(苦労知らずのおぬしに、天下は譲れぬ)

 努力しても、いつも実を結ばず、絶えず悩み、落ち込む甥の秀次に譲る方が良い。絶望を何度も味わっている秀次の方が、まだ安心だ。

「冬姫さま、このまま大坂におられませ。壊れた松ヶ島なんぞでは、いるところもありますまい。大坂でゆるりとされ、新しき京の邸で出産されよ」

 秀吉は冬姫に優しく笑いかけた。昔、婿殿が重瞳だったら女王様になれるかもしれないと言った時のような顔で。


 直後。

 天正十四年(1586)一月。

 秀吉は京に聚楽第を築くことを、天下に宣言する。

 関白に、天下人に相応しい、その権力と富の象徴である。そこはかつての宮中大内裏の跡地であった。

 蒲生家はその聚楽第の本丸から最も近い郭内に邸を与えられ、隣に築かれた前田邸とは、裏庭で繋がっている造り。

 聚楽第のその区域に邸を与えられた大名は、秀次など、秀吉の身内くらいなものである。

 かつての雲居(宮中)の跡地とはと、冬姫は亡き父ならばどう思うだろうかと思った。そこに自分が住むことなど想像もつかなかった。

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