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貞操(上)

 いよいよ有馬湯山へ向かう日になった。三蔵が案内してくれるという。

「妹を連れて行っても宜しゅうござるか?」

 人質の妹も連れて行きたいと忠三郎は言うのだ。

「妻は足を怪我しておりますゆえ、浴場で支える者が要りまする」

 それなら別に、侍女にも務まる役目だ。わざわざ妹でなくてもよいだろう。

 しかし、怪しいと思っても、三蔵は反対しなかった。

「どうぞ。宜しいのではないでしょうか」

 こうして、忠三郎は妹こととら姫も連れて、冬姫と有馬へ出発した。

 湯山は秀吉夫妻の側近・孝蔵主の領地でもある。

 孝蔵主は川副家の娘だが、川副家は蒲生家の家臣であり、とら姫の乳母も、また小倉家に養子に入った忠三郎の叔父・実隆の周囲にも、川副家の者が仕えていた。その関係で、信長の側室・小倉殿やその所生の子達にも、川副家の人間が奉仕している。

 今、湯山に孝蔵主が滞在しているのかどうかは不明だが、忠三郎はとら姫の乳母を同行させていた。

 けっこうな人数で、粛々と行く。

 途中、西宮まで来た時である。思いもかけず、秀吉に会った。

「大坂に帰るところじゃ。島津が何か言ってきているみたいでの。いつまでも留守にもできん。わしは帰るが、おかかはまだ湯山におる故、そなたは姫さまとゆるりと静養なされよ」

 秀吉が帰るというのは意外だった。

 忠三郎は驚きつつも、供を申し出た。

「いやいや、そなたは湯治してくれ」

 秀吉は断ったが、忠三郎は冬姫をとら姫に頼んで、強いて自分は秀吉に同行して大坂へ向かった。

 秀吉はまるで見張られているようで、蒲生家の護衛に居心地悪そうである。少し離れて後ろをついて来る忠三郎に、息が詰まる。

 大坂城に着いて、秀吉を本丸まで送ると、忠三郎は島津の使者との対面に同席することを望んだ。だが、それが叶わないと、すぐに退出してきて、甲賀者を放った上で、供してきた者たちに命じた。

「私はしばらく臥せっていることにせよ。いかなる人とも対面ならん」

 そして、藪下だけを連れ、すぐにこっそりと出掛けていった。

 冬姫の方は無事湯山に着き、新造の薬師堂に北政所を訪ねていた。三蔵も一緒である。

「ようおいで下さいました」

 北政所は上座にいなかった。

 隣には孝蔵主が座っている。昔、岐阜城で小倉殿の侍女として、六角義治の妻からの密書の対応を冬姫と共にした人である。今は秀吉夫妻の上臈だった。

 冬姫に親しげな笑みを向ける孝蔵主。一方、彼女とは相反して、北政所の表情は明るくない。

「於次殿の病気平癒を願って作ったつもりですが……」

 如来像を横目に、無念そうに言葉を詰まらせる。

 冬姫は鎮座する如来像に両手を合わせた。足はもうほとんど治っている。

「怪我にも病にも効く湯ですので、どうぞごゆっくりなさって下さいね」

「おそれいります」

 心の傷にも効能があればよいのにと、北政所と三蔵を見て思った。

 さっそく宿所に入る。

「大事ございませぬか?」

 先に待っていたとら姫が乳母と案じていた。

「そんなに顔色悪いですか、私?」

 輿に乗っていたとはいえ、確かに遠路の移動で疲れた。

「吐き気は?」

「ありません。少しめまいがしますが……」

「湯中りするといけません、今日はお湯は控えた方が──」

「とら姫さまはお先にお入りください」

 冬姫と並ぶと、大概の女人は気の毒なようだが、この人は珍しく色褪せしない。とらという名に相応しく、美しく怜悧な女人であった。有馬の名湯はきっと彼女の肌をみがく。

「私は義姉君様の看病を言いつけられておりますから──」

 わきまえて、遠慮した。傍らの乳母も頷いている。

「せっかくの出で湯ですのに。とら姫さまも、日々人質としてのお勤め、何かと気詰まりでございましょう。たまにはお骨をお休め下さい」

 そのために忠三郎は彼女を連れ出したのだろうと、冬姫は思った。

「ありがとうございます」

 とら姫は微笑んだ。冬姫には何か引っかかった。

 その日はついに湯は使えず、ぐったり寝入ってしまった。


 翌日の宵、辺りがすっかり暗くなった頃、ようやく入浴できたが、気持ち良かった割には、出てきた後がしんどい。

「少し横になられませ」

 頭痛がして、ふわふわする。

「ええ、そうさせて頂きます」

 素直に寝床に横になった。まだ寝るような時刻ではない。しかし、だるさに包まれ、そのままいつしか眠ってしまった。


 それからどれくらい経ったのか。湯山は俄かに騒がしくなった。

「これは!殿下!」

 三蔵が慌てて出て行くと、秀吉の来訪であった。

 湯山の衆はこのような時間にと、皆驚いている。

「おぬしらに料金を払いに来たわい。明日、米俵がどおんと届くであろう」

 秀吉はそう答えて、三蔵に、北政所はどうしているかと尋ねた。

「はっ、おそらく薬師堂においでかと存じます。お呼びして参りましょう」

「よい。薬師堂か。ふむ、まだ後ろ向きと見ゆるの。明日の朝、会うて慰めてやる。今夜はそっとしておいてやれ」

 秀吉はそう言って、宿所の中に入っていった。


 騒ぎに、冬姫は目を覚ました。

 遠くで人の声がしている。冬姫は暗闇の中に寝ていた。

 ゆっくり起き上がる。

 闇に目を凝らすと、襖の隙間から灯りがもれている。隣室には灯りが点いているようだ。

 すると、突然、反対側の襖が開いて、誰か入ってきた。襖は開け放ったまま。そちらの隣室には灯りはなく、真っ暗で何も見えない。

「誰?」

 冬姫は闇に問い掛けた。

 侍女とは思えない。姿見えぬ相手は物言わず、冬姫の側に寄った。

「しっ!」

 相手はそれだけ言って、冬姫を抱き上げようとする。

「何です!」

 冬姫が言うと、その口を強引に塞いだ。声を殺し、

「よいと言うまで声は出さないで!」

と早口に言う。

 冬姫は何故と思ったが、相手のひどく切迫した目に、黙って頷き、従った。

 まだ冬姫の足は治っていないと思ったのだろう、彼女を軽々肩に担ぎ上げると、さっと出て、きちんと襖を閉じて宿を出て行った。


 秀吉が冬姫の所にやって来た。それを迎えたのはとら姫だった。隣に乳母と腰元が侍いている。

「そなたは確か、とら殿か?」

 秀吉は一度しか会わない人間でも、必ず記憶するよう努めている。それに、とら姫の乳母は孝蔵主の身内、見知っていた。

「義姉について参りました」

 とら姫は真っ直ぐ返事した。

「ほう。義姉君はそちらか?」

 暗い襖の向こうを顎で差す。

「もうお休みか?具合がお悪いようだの?」

「義姉は懐妊しておりますれば」

 秀吉は目を剥いた。

「懐妊じゃと!?忠三郎の子をまたしてもっ!」

 秀吉は足を踏み鳴らした。ぎらぎらした目だった。

(手籠めにしてくれる!)

 残酷な心に支配され、襖に手をかけたのだ。

「お待ち下さい!」

 ぴしゃりととら姫は言った。秀吉の手が止まる。

「関白様らしくないお振る舞いと存じます」

 手籠めは下衆だと言外に言うとら姫に、秀吉は振り返った。

「私では駄目でしょうか……?」

 必死にとら姫は言う。乳母がぐっと堪えるように、両手で自身の膝を握った。

「なに、女から言うのか?」

「……はしたなくも……」

「関白の寵が欲しいという女は多い」

 いろんな女が寄ってくる。貴人の寵愛を得られただけで、出世できる。そういう考えの下賤の女に溢れている。お前もそうなのかと見下す秀吉に、そのようなわけがあるかととら姫は心中強く反抗しながらも、歯を食いしばって堪えた。

「高貴なお方のご寵愛を得ることこそ、女の誉にございますれば……」

「高貴?そうか、わしが高貴か!」

 くっと笑った秀吉。秀吉を足蹴にしてきた様々な人物の顔が浮かぶ。彼等の全てが、今は関白となった秀吉にひれ伏している。

「わしが義姉君を手籠めにするなど、もってのほかぞ。どうしてそんな発想になった?あのお方はな、わしを天下様にして下さった神様じゃわい」

 取り繕うような一瞬の笑い。秀吉はとら姫の前に座った。彼女は美しい。

(この娘を用意しておくとは。忠三郎め、案外下衆だな!)

 こんな綺麗な娘に、このようなことを言わせる忠三郎を、ひどい奴だと思った。

「神様を冒涜することはできんじゃろ?」

 秀吉は六指を差し出した。

(冬姫は男女を超えた存在か?いいや、女だ)

 秀吉は心と相反することを言って、蒲生家を試みた。

 とら姫は差し出された手の上に、そっと己の手を置いた。乳母がかすかに頷いた気がする。

「む。よい覚悟じゃ」

 秀吉は彼女の手を握り、徐に立ち上がる。とら姫もそれに従って、立ち上がった。

 隣室への襖が開いて、誰もいない寝床が姿を現した。秀吉はとら姫を誘い、襖の中へ入る。

 とら姫の背後で襖が閉じて、寝床は暗闇に沈んだ。

 この夜、とら姫は関白の寵愛を得た。

 寝床には、とら姫の香とは別の移り香があった。秀吉はその香りの中で、終始異常な興奮を覚えていた。


 闇の夜道で、腹を気にしたわけでもないが、冬姫は声を出していた。

「もう下ろして、自分で歩けます」

「しかし、足が──」

「治りました」

「──あ、もしや苦しかったですか?」

 慌てて抱え直して、今度は横抱きにした。仰向けになって、確かに腹部は楽にはなったが。

「いったい、この盗賊の真似ごとは何なのですか。忠三郎さま!」

 冬姫はいきなり自分を攫ってきた夫に理由を問い糺す。しかし、忠三郎は答えず、不意に、「あっ!」とあらぬ方角を向き、声を上げた。

「あれが薬師堂ですね!あそこに参りましょう!」

 忠三郎は冬姫を横抱きにしたまま、薬師堂に入った。堂の入り口で、ようやく冬姫は下ろしてもらえた。

 堂の中には灯りが幾つか点いていて、けっこう明るい。それで、はじめて忠三郎は冬姫が小袖を着ていることに気づいた。

「や?何故その格好のまま寝ていたのです?もしや、具合が?」

「盗賊に驚いて、すっかり吹き飛びました」

 忠三郎は冬姫のお腹に手を当てて案じる。

「本当に今は大事ないですか?」

「はい」

 冬姫は堂内を見回した。

「私はいつも、どうして近しい人が亡くなった時に懐妊するのでしょう……」

 忠三郎の祖父が亡くなってしばらくして籍姫を、信長が亡くなった時に鶴千代を。そして──。

 忠三郎はそっと冬姫を両手に包み、堂内に目をやった。

「於次さま……」

 於次のために建てたという薬師堂。切なくなる。

「今夜は一緒に、ここで過ごしましょう」

 忠三郎は大坂から急に来た理由は言わずに、ただ一緒に於次を偲びたいと言った。

(何やら在五の芥川の心地だな。だが、戸口の外とはもってのほか、私は決して片時もこの人から離れない)

 実はこの時、ここの奥には、北政所が孝蔵主と共にいた。人の気配に、孝蔵主がそっと様子を見に出て行くと、ちゃんと忠三郎がいて、冬姫に寄り添っている。

 孝蔵主はかすかに頷いて、忠三郎が目配せすると、北政所のもとにそのまま戻った。そして、明け方になるまでその傍らにいて、奥から北政所を出さなかった。

 忠三郎は奥の北政所を思う。

(いったい、秀吉はどうして奥方以外の人間に、それも数えきれない程の数多の人々に、閨房の己を見せたがるのか。浅ましい己を知られて平気なのか、唯一無二の奥方以外に──)

 北政所ほどの人を妻にしていながら──。忠三郎は、両袖の中に包んでいる冬姫を見下ろして、首を振る。彼には全く理解できない。

 閨での忠三郎はいつでも冬姫への恋しい感情、思いの丈をその身にぶつけるだけだが、それでも時折、法悦が勝り、浅ましく野性に還って我を忘れている時がある。快楽を求めて、息づきさえ常とは違って乱れる様など、冬姫以外の人間には決して知られたくない。一個の男になってしまった彼の秘密は、冬姫だけが知っている。だからこそ、冬姫にだけは全てさらけ出すことができる。

(だから、妻は唯一無二の存在なのだ)

 ただ一人の自分の片身の冬姫。

(どうして秀吉はそれを求めてくるのか。比翼の鳥の、その片身は私だ)


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