秀勝死す
冬姫の弟で秀吉の養子の於次秀勝は、わずか十八歳でこの世を去った。
ここ数ヶ月、体調が悪く、生母や養母を心配させたが、神仏への祈祷の甲斐なく、ついに亡くなった。
地震はまだ活発な時。大坂の秀吉はようやく屋内で暮らせるようになったばかりで、余震続く中を、於次のいる丹波亀山城へ向かった。
秀吉の子とはいえ、本当の親は信長なのである。
「亡き上様のお側で眠らせてあげたい……」
秀吉は於次を大徳寺総見院に埋葬することにした。ここは秀吉が信長のために建てたものだ。壮大な信長の葬儀もここで行ったのだ。その時の喪主は於次だった。
亀山城から於次を連れて、京へ。京も地震の被害を受けたが、多地域ほどではない。
総見院に運ばれた於次に秀吉は泣いてすがった。養母である北政所は、生母の養観院と抱き合い、息子の早すぎる死を嘆く。
藤掛三蔵永勝の落胆は大きく、うなだれたまま、一度も顔を上げなかった。
於次の死は、織田家の天下の可能性が潰えたことを意味していた。
信雄がもっと強ければ、秀吉から天下を取り返すこともできよう。しかし、最近、降伏したに等しい形で秀吉と和睦した彼に、そんな力はない。
あとは、三法師が成長した後に、秀吉が天下を譲ってくれること──秀吉の良心に頼るしかないのだ。
秀吉の親族や子飼いの武将の中には、内心於次の死を喜んだ者もいるだろう。しかし、秀吉の養子のことゆえ、表面上は悲痛な様を装った。
於次は毛利家の姫と婚約しており、そちらからは心からのお悔やみが伝えられた。姫本人が上洛したいというほどだ。
忠三郎も領国が大変な時ではあったが、一段落ついたところでもあったので、あとのことは家臣達に任せて、冬姫と共に上洛した。
冬姫は足を負傷していたが、輿での移動だったから、特に問題はなかった。ただ、足を負傷すると気落ちして、腹の調子まで思うようにならなくなるのか、冬姫は負傷後、食欲がなく、輿には酔って、京に着いた時にはげっそり痩せていた。
「ご気分は?無理しないで下さい」
忠三郎はひたすら案じているが、冬姫は平気だと答える。おそらくそういう答えが返ってくるとわかっていたのか、忠三郎も休養を強制はしない。
吐き気がないなら構うまいと、忠三郎は冬姫を抱えて控えの間に入った。冬姫は痛む足をきちんと折って座る。そうしていると、何ら変わったところはなく見える。
外は雪景色だった。いつ降ったものだろう。昨夜だろうか。北に面した庭なので、一日中日は当たらず、一面、真っ白だった。
──無──
ふと、そんな言葉が脳裏をよぎった。
──死んだらその先はない。無よ。神の国も仏の国もありはしない。地獄も極楽も、しょせん閻浮の人間が作り出した想像の世界に過ぎぬ──
冬姫はふと信長の言葉を思い出した。
キリシタンの忠三郎は魂の不滅を信じている。父の言葉を間違っていると言うだろう。けれど、冬姫は違う。
雪景色は死後を見るようだった。
あの白き無の中に、於次は消えてしまったのだと。
外は無。
廊の障子はこの世とあの世の境界線であるように思えた。雪が魔物に思えた。
何やら向こうで物音が聞こえた。雪はその音を消さずにここまで運んできたらしい。
冬姫と忠三郎は廊の方を見やる。ややあって、三人の人間が現れた。関白・秀吉。北政所。それに藤掛三蔵。
無からやってきた。冬姫はそう思った。
三人はあの世とこの世の境界線──障子の敷居を跨いで来る。
忠三郎と冬姫は恭しく両手をつかえ、平伏して三人を迎える。
秀吉は真向かいの上座に座るなり、泣き崩れた。その姿に、三蔵までもがもらい泣きのように泣き出す。北政所は神妙な面持ちで、秀吉の傍らに座った。目尻には乾いた涙の跡があった。
「なんと、姫さま、忠殿も。よう来て下さいましたのう……ううう……」
忠三郎が挨拶を述べる前に、秀吉は泣きながら声をかけてきた。今日は忠三郎を以前のように呼ぶ。
「はっ、この度はまことに、御愁傷様にございます……」
忠三郎もつい湿っぽい声になって述べ、そっと面を上げた。冬姫もならう。
「なんと!」
ばっと足を踏み出し、秀吉がいきなり冬姫の手を握った。まばたきもせず、その顔を見つめて──。
「痛々しや、何とお窶れに!姫さま、さぞお辛……」
ぎゅうと手を握りしめてくる。
六指は思いの外力強い。わさっと必ず仕留めることができるようで、冬姫は手を引っ込めることもできなかった。
忠三郎もついその手元を凝視してしまう。
秀吉は彼女のその滑らかな手の甲を一撫でして、涙ながらに言った。
「姫さまのお気持ちは、この秀吉が一番よくわかっておるのです。こんなに、こんなに悲しい!姫さまはわしの気持ちと一緒でしょう」
自分の悲しい気持ちから冬姫の心を推し量って、どんなに姫は悲しいだろうと秀吉は思うのだ。
さらに涙をこぼす。秀吉、北政所の視線にでも気付いたのか、あるいは忠三郎の心中を見抜いたか、そこで冬姫から手を離すと、懐紙を取り出し、涙を拭った。
(この涙は偽りでないようだ)
忠三郎はついそんなふうに分析していた。そういえば、秀吉は急に老けた。
「お疲れのご様子で」
「そう見えるか、忠殿?」
秀吉は、佐々討伐のために越中へと進軍していた時は、ぎらぎらしていた。今は老人にさえ見える。
「少しお休みになった方が宜しいでしょう」
「そう言う忠殿もな。領内大変な時に、まことにすまぬ。連日外に出て良う働いていると聞く。忠殿も休養されよ」
そこで思い出したように、秀吉は北政所を振り返った。
「そうじゃ、おかか。湯山へ忠殿や姫さまもお連れしてはどうかの?」
北政所はようやく微笑んで頷いた。
「それはよいですね。於次殿の代わりに、実の姉上様にお使い頂きましょう」
その言葉を聞くと、秀吉は向き直り、忠三郎と冬姫を等分に眺めながら言った。
「忠殿は鯰の所業に疲れ、姫さまはご心痛。わしらと湯山へご同道下さいませぬか?実は有馬湯山の薬師堂をおかかが新しく建てたのだが、ようやく完成しましての。於次殿の病が治るようにと願掛けしていたのじゃが、於次殿は亡くなってしもうた……新築の薬師堂を見せに連れて行こうと、おかかと計画していたところだったのに。地震が落ち着いたら、湯治させようと二人で言っておった矢先に……」
於次を大切に思う者同士、一緒に行って、ともに於次を偲ぼうというのだ。
「それに、姫さまはおみ足を怪我しておいででしょう?怪我を治し、心の傷を癒やし、お体をゆっくり休めて下され」
何故足のことを知っているのか、忠三郎は秀吉の情報力に肝を冷やした。冬姫も驚愕している。
関白から誘われて、断れるわけがない。とはいえ、京では雑用もある。すぐに行くことはできない。
忠三郎と冬姫は於次の霊前に合掌すると、一度下がったが、秀吉と北政所はすぐに有馬へ向かった。
冬姫はやはり、於次の前でも涙一つこぼさなかった。しかし、生前の可愛らしい顔が胸に去来して、何度も喉がきゅっとなった。




