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移封(下)

 その頃、冬姫は移封の支度をてきぱきとこなしていた。賢秀も亡く、忠三郎は不在。留守居役の一門衆や譜代らと相談し、彼女の裁量でやらなければならない。

 ただ、初めて移封を知らされた時は、困惑していた。

「殿は日野には戻られぬのか?家中の皆も?」

 絶句していた冬姫に代わり、傍らで、使者として来た種村に問うたのは次兵衛であった。

 種村家は近隣の有力者であったが、昔、蒲生家に攻められて降伏した。信長の近衆であったこともあり、忠三郎の初陣の折の介添え役も務めたことがある。

 今は蒲生家の家臣として、しっかり忠三郎を支えていた。

「十二万石とはいえ、何人もの寄騎が付けられ、寄騎の分も含めて十二万石なのじゃな?では、蒲生家そのものの領地はいかほどか?」

 次兵衛が問うた。種村は。

「八万石ほど」

「は!それで、日野は取り上げられると!?殿には何か、戦で失態でも遊ばしたのか?そうでなくて、かような理不尽なことはなかろうぞ!」

 それに、松ヶ島城は空でも、その周囲は敵地。忠三郎が自力で奪わない限り、手に入らない。他の武将が褒美として与えられた空白地とは違うのである。日野が召し上げられて秀吉のものとなる以上、奪えなければ、無一文で流浪することになる。

 戦の前に敵地を与えられることはある。勝てばそこが手に入ると、約束された武将が奮戦するからで、それ自体はおかしなことではない。しかし、実際の移封は、確かにその敵地を新たに得た後。旧領召し上げ、移封は戦勝後に行われるものだ。

 忠三郎の移封は異例と言えた。だが、前例がないわけではない。以前、信長が明智光秀に同じことを命じたことがある。信長はまだ手に入っていない出雲と石見を与える代わりに、近江と丹波は召し上げると言った。

 その直後、本能寺の変が起こった。光秀の謀反の原因はこれかと噂されている。今回の忠三郎も、この光秀の場合とほとんど変わらない。

 次兵衛は近頃の秀吉の専横に腹を立てていたので、秀吉を罵った。

「うまいこと考えたもの!光秀めがそれで謀反したなら、上様の婿が同じことをするはずがない」

 忠三郎が拒絶すれば、それは信長を討った光秀と同じということになってしまう。誰よりも光秀を憎む忠三郎、信長の婿として、決して光秀と同じにはならないであろうことを、秀吉は見越していたのだ。

 忠三郎は文句も言わず、松ヶ島に入り、己が領地となった敵地を平定していくであろう。切り取らねば、共に生きてきた家臣達を食べさせられない。

 冬姫が悲しく思うのは、忠三郎がもう日野には戻れないということである。日野は彼の生まれ故郷であるばかりか、先祖伝来の地である。先祖は平安時代からここに住んでいたともいう。そこを捨て、新しい地へ赴くのはどのような気持ちだろう。峠道を越えれば、さしたる距離ではないとはいえ、切なかった。

 どうして秀吉は、急に忠三郎への態度を変えたのであろうか。少し前までは立ててくれていたし、遠慮さえ見えたのに。

 だが、

「松ヶ島を賜ったことは、殿もかなりお嬉しかったようでございます」

と種村は言うのだ。

 そうだろうよと次兵衛は頷いた。

「喜んで見せるのが、殿の意地でござろう」

 次兵衛はもうかつてのような心を蒲生家に対して抱いていない。

「それが意外に本気らしく。昔から蒲生家は伊勢に野望を持っていたようですし」

 快幹軒の野望を種村は言った。だが、忠三郎の喜びは、種村の言うそれとは少々違う。彼は松ヶ島に夢を見ている。海を得たことは、素直に嬉しかったのだ。

「そういうものですか?女は生まれた家を出て嫁ぐものですが、男は重代の地を守るため、戦に明け暮れるもの。故郷への固執は並々ならぬものかと思っていましたが──」

 冬姫は首を傾げた。

 信長のように、本拠地を次々に移して行く者は異例だ。その信長の傍らにいたから、忠三郎には抵抗ないのか。だが、信長は徐々に中央に近付いていったが、忠三郎の場合は中央から逆方向だ。

 それとも、彼の目は京には向いていないのか。船を出し、海外に漕ぎ出したいという夢を持っているらしいが、彼の目は日本の外にばかり向いているのか。

 或いは、最近仕官してくる者が増えたので、単純に加増が有り難いだけなのか。

 それでも、日野は鉄砲の産地。信長も欲したそれを手放すのは余りに惜し過ぎないか。

 日野を手にするのは秀吉なので、奪われた恨みの感情はおくびにも出せないのだろうが。

 いずれにせよ、出陣したまま故郷に戻れず、新天地に赴いた忠三郎が、冬姫には可哀想でならない。松ヶ島に移ることが嬉しくとも、一度故郷に帰って、父の墓所に参り、故郷の山並みに別れを告げたいのではないか。


 移封が伝えられて以降、種村などの他、一門衆の儀俄や寺倉、林、横山など日野生まれの数名の家臣がしばしば日野に遣わされてくるが、忠三郎本人が現れたことはなかった。

「移封の支度という名目で、実は、家臣達に日野との別れの機会を与えておられるのでしょうね」

 冬姫は忠三郎の家臣達への気遣いを思った。

 支度はできた。

 忠三郎の母の桐の御方を、ようやく引き取ることが叶ったが、今の伊勢へ連れて行くことは憚られたので、信長の側室で京の妙心寺にいる慈雲院に、しばらく預けることにした。慈雲院は滝川氏で、以前、忠三郎が勝ち戦の時、連れ帰ってきた人である。その後、妙心寺の兄・九天宗瑞のもとに身を寄せていた。

 桐の御方は妙心寺に帰依している。上坂左文は最近仕官してきた者で、今は忠三郎と出陣中だが、その義父・上坂兵庫助に桐の御方の身を委ねて、すでに京へ向かわせている。

 あとは蒲生家の男女が家財道具と共に、伊勢へ赴くだけである。とはいえ、留守居、女中や老人、さらに家臣達の家族などが移動するので、かなりの人数になる。

 とりあえずは関一政の手を借りて行き、途中には叔父の信包もいることだから、どうにかなるだろう。問題なのは、その叔父の安濃津から先、松ヶ島までの道中である。

 木造具政や小倭方の突発的な攻撃があるかもしれない。安濃津から船で松ヶ島城に入るというのも手かもしれないが、海上にも、尾張との間を行き来する敵が溢れているだろう。忠三郎らに追われて、尾張に逃れて行った敵は、だいたい海路を使ったのだから。

「敵、敵、敵……皆兄・信雄の手の者なのに……」

 信雄に忠義を貫く者達に、妹である自分が襲われるのかもしれないと思うと、改めて辛い気持ちになる。いったい織田家の行き着く先は、どうなっているのか。

 それでも冬姫は、輿なぞ使わず、袴履きで馬に跨り、一戦交える覚悟で、伊勢路を行こうと決意した。

 そんな冬姫に、大坂にしばらく滞在してはどうかと秀吉が言って寄越したが、

「ご好意は有難いですが、大事ありませんので」

と、冬姫は断った。武家の娘は、やわではない。秀吉も納得したようだが、はてと次兵衛は思ったのではある。


 冬姫が松ヶ島へ旅立つ前日のことだった。城に珍しい来客があった。最近、冬姫に別れの挨拶に訪れる者も少なくなかったが、さすがにこの人物の登場は予期していなかったので、驚きと喜びと共に不思議な感覚に襲われた。

「生きていたのですね、よく無事で──!」

 阿ろくであった。少年を一人連れていた。

 かつて、浄宗を名乗る恋人に連れ去られ、行方不明になっていた。すでに死んだものと思っていた。それが生きていて、こうして冬姫を訪ねてきたのである。

 しかし、彼女を拐った恋人の姿はなかった。

「夫は──」

と、阿ろくは偽浄宗を呼んだ。その後、二人は夫婦になったのだろう。

「先日、亡くなったのです。故郷の土に還してやりたいと、まことに身勝手ながら、そう存じまして。殿様は移封なさると伺いましたので、その後の日野であるならば、お目障りにもならぬかと」

「そうだったのですか、亡くなったのですか」

「はい。ですが、殿様が移られた後、こそこそと舞い戻ってくるのも良心が疼きまして。冬姫さまにだけでも御挨拶をと、まことに申し訳ございませぬ」

 阿ろくが両手をつくと、背後の少年もそれに倣う。すでに法体であった。阿ろくは俗人のままである。

「突然、行方がわからなくなって、そのままいつまで経っても消息がつかめなかったゆえ、とても案じていたのです。よくぞ会いに来てくれました。ありがとう」

 冬姫は阿ろくの背後の少年僧は、阿ろくの子なのだろうと思った。あの死にかけた子が立派に成長した。良かったと思う。

「あの頃、日野では少々騒動があったのです。その最中に、阿ろく達はいなくなってしまって。今までどこにいたのです?どうしてその子はもう僧侶なのですか?」

 まだ稚児という年頃で。

「はい……実は一向衆でございましたから、夫は……」

「日野にいては一揆に加われないと、この地の門徒の中には本願寺に行った人もいましたね」

 冬姫は、もしや阿ろく達も本願寺に行っていたのではないかと思った。

 その本願寺はもうない。大坂のその地を接収した秀吉が、豪勢極まりない城を築いた。今の秀吉の大坂城こそ、もとの本願寺である。

 そして、その本願寺とはすでに和睦済みである。阿ろくが以前、本願寺で暮らしていたとしても、今となっては何ら問題はない。

 また、本能寺の変の時、近江全土が明智方になってしまったために、忠三郎は一向衆と和睦をしている。一揆を起こして、加勢して欲しいと依頼し、今後は一向衆を保護すると約束した。

 だから、蒲生家は一向宗の寺院が新たに創建されることも、廃寺が再興されることも認めている。

「姫さま、今こそ嘘偽りなく申し上げます。この方は我が子ではございませぬ」

 阿ろくは後ろを振り返って、少年僧を冬姫に紹介した。

「え?」

「私の子はあの時、あのまま死んでしまいました。この方は本願寺の御門跡様から願証寺の正統と認められた御方です」

「それはどういうことです?」

 少年僧は冬姫に会釈して挨拶した。

「右大臣家の姫君さま、どうぞお見知りおき下さい」

 少年は伊勢長島の願証寺の正統。顕忍佐堯の弟・顕恵であるという。

「夫は長島に行っていたのです。そして、この御方を日野に匿いました。私は姫さまにお仕えする身でありながら、願証寺にかつての主の斎藤龍興がいたことから、心が揺れてしまったのです。姫さまにお仕えするに相応しくない者、姫さまの御前を去るべき者だったのです。だから、夫について行った……」

 阿ろくは懺悔し、事実を告白したのであった。

 冬姫は翌日には日野を発ったが、恩人を故郷に埋めるべくこの地に来た顕恵は、そのまま居着いてしまった。かつて、長島から逃れて来た時に匿われて、しばし過ごした地でもあるから、懐かしいのだろう。

 しばらくして、信雄の許可を得て、清州に願証寺を再興させることになるが、それは日野にも建てられた。


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