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藤袴の縁(下)

 京で異変が起きた。信長に蹴散らされた三好党が、信長が京にいないことをいいことに、将軍を襲撃してきたのである。

 年明けて永禄十二年(1569)、早々に信長は軍を率いて上洛。信長はこの上洛に鶴千代を伴った。

 非常に長く在京することになった。三好を追い出した後、信長は将軍のために御所を新造したからである。また、朝廷も手厚く保護した。

 当初は三好討伐のため、男ばかりを引き連れていたが、京での暮らしが長くなると、信長は家族の一部を呼んだらしい。信長の側に仕える鶴千代は、何度かそれらの女性とすれ違った。一族の女性なのか養女なのか。鶴千代には知る由もない。


 在京中、信長は初めてルイス・フロイスに会った。フロイスの方から謁見を望んできたのだ。

 南蛮人・フロイスは、イエズス会というカトリックの修道会に属する伴天連(パードレ・司祭)である。イエズス会はポルトガル国王の保護下にある。

 はるばる日本にまで布教に訪れた彼だったが、迫害を受け、思うように活動できていなかった。そこで、将軍と等しい実力者・信長から御墨付きを得ようとしたのである。

 信長はキリスト教のこと、その宣教師達のことは、情報として既に知っていたが、対面してみると新たにわかることも多い。信長は初対面でこの南蛮人を気に入った。また思うところあって、布教を許すという朱印状を発行するばかりでなく、何度も対面を乞うた。

 信長は感嘆した。デウス(神)の教えを伝えるため、遥か彼方の異国から何年もかけ、命がけの船旅をしてきたフロイスのその一途な情熱に。敵意むき出しな仏僧にも慈愛を持って接し、戦乱で傷ついた民に優しく愛を説いて救い、自分が無一文となっても厭わず、貧しい者に寄り添う、そんな姿勢に。

 それに、年端も行かない稚児への洗脳、支配による衆道を美化するばかりか、女色は罪と言いつつ女犯に耽る仏僧とは違って、宣教師は清潔だ。そこも信長には肯ける点であった。


 夏に入り、信長は帰国したが、フロイスもその後を追うように、すぐに岐阜にやって来た。

 信長が京を離れた途端に、仏僧の妨げで布教できなくなったのだという。朝廷も布教には反対である。

 伴天連の説くキリスト教は、唯一絶対なる(デウス)以外は、神も仏も全て人間が作り出した偽物だと言っている。つまりは、天照大神も本当に存在する神なのではなく、その神話も含めて、人間の思考が作り出した偽物だというのである。

 朝廷がそのような宗教を認めるはずがない。また、噂もあった。彼等伴天連は恐ろしい使命を帯びて、その下準備のために日本に来ているのだと。

 そのような理由もあって布教を妨げられたフロイスは、信長に助けを求めてきたのだ。

 信長も噂は知っていた。だから、その真相を確かめるために、伴天連を歓待して、その故郷の様子や方針を聞き出しているのでもある。

 しかし、ポルトガルに如何なる野望があろうとも、唐土にさえ前線基地を持たない彼等に、その恐ろしい噂の実行は不可能と思われた。日本は四方を大海に囲まれており、他国からの侵略は蒙古からしか受けたことがない。

 その蒙古も高麗(半島)を前線基地として、そこから攻めてきたが、結局失敗している。日本が唐・新羅と戦って敗れた時でさえ、唐は日本には攻めてこなかったのだ。

 高い波濤に囲まれた日本を攻めるには、多大な犠牲がつきもの。唐土からでも難しいし、朝鮮半島にでも前線基地を持たぬ限り、また、高波に堪えうる強力な水軍を持たぬ限り、日本攻撃は不可能である。

 信長は噂を一笑し、フロイスを迎えて、最大限にもてなした。麓の館に招き、重臣達でも立ち入れない奥邸にまで案内した。別の日には、山上の城に招いている。

 この時、信長はフロイスをもてなすのに、息子の奇妙丸と茶筅丸を接待役にした。

 小姓である鶴千代は、

「伴天連に食事を出す。器を持ってこい」

と、信長から予め食器を用意するよう命じられていた。これぞという漆器を厳選すると、信長はそれに満足した。

 その漆器で、料理が出された。

 つやつやで光沢があり、手触りもなめらかなその漆器は、鏡のように使い手の顔を映す。フロイスの瞳はそれに吸い込まれるようだった。

「汁物をこぼさないようにな。捧げ持たんでもよい」

 感謝の意を表すため、膳を恭しく捧げ持ったフロイスに、信長は穏やかに告げた。奇妙丸と茶筅丸は、目を白黒させていた。信長のフロイスへの愛情は、信長史上最大のものだったからである。

 信長は二人に言う。

「坊主どもは貧民にも病人にも寄り添わない。だが、この者は南蛮人でありながら、縁もゆかりもない日本人に、奉仕してくれる。耶蘇(キリスト教)とはそういう宗門だ」






******************************

 鶴千代が信長の命で突然元服することになったのは、フロイスが岐阜を発ってからすぐのことだった。信長の話はいつも突飛で唐突だ。

 鶴千代は戸惑いつつも、元服できることは嬉しかった。しかも、烏帽子親は信長なのだ。

 忠三郎賦秀──それが新しい名だった。

 祝いの席には織田家の女性の姿もちらほらあった。若い娘もいた。

 元服が済むと、すぐに初陣である。

 北伊勢を手中にしていた信長だったが、まだ伊勢全土を手にしていない。伊勢南部を領する北畠氏との戦。これが、鶴千代の初陣となった。

 いざ初陣となると、嬉しい反面、恐ろしくもなる。だが、この戦で鶴千代改め忠三郎は、初陣とは思えないほどの手柄を立てた。介添えの武将らを置き去りにし、敵中に単身突撃して、敵の兜首を幾つも穫ったのである。

 絶対にできると信じることの強さ。そして、やりきってしまうのは、やはり才能でもある。

(こやつは間違いない、息子にせねば!)

 そう思った信長は、

「ようした。褒美にお前を人質から解放してやる。戦が終わり、岐阜に帰ってしばし落ち着いたなら、家に帰るがよい」

と約束し、手ずから熨斗鮑を与えた。

 この戦で、信長は名門・北畠家の養嗣子に、次男の茶筅丸を入れることになった。先には北伊勢の神戸家に三男の三七丸、長野家に弟の信包を養子に入れている。それまで神戸、長野は北畠家から養子を入れて、血統は北畠になっていた。その血統がそっくり北畠から織田に塗り替えられた上、北畠そのものまで織田になるわけである。

 北畠は吉野朝(南朝)の公家の家であり、世に溢れる他の武家とはまるで血筋が違う。後醍醐天皇の忠臣で准三后となった北畠親房の子孫だ。


 戦の後、岐阜に戻っても、しばらくは忠三郎の小姓仕えは続いた。

 冬のある日、忠三郎は信長の命で山上の城に雑用に行っていた。終わって麓の館へ戻る途中のこと。

 山道を下りきった時、向こうの石垣の側に、人影が三つ見えた。一人は大人、二人は子供か、その影は小さい。

 大人の方は、確か木下藤吉郎秀吉。猿のような顔の小男だ。

「お屋形様にご用が。お城と伺いましたので、こちらでお待ち致そうかと。下りていらっしゃるでしょうか?」

 相変わらず人なつこい笑顔である。

「父上は茶室だ」

 藤吉郎にそう答えたのは、小さな人影のうちの一人、少年だ。その傍らの少女の容貌を見定めた途端、忠三郎の胸は跳ね上がった。

(あの娘!)

 藤袴の、あの娘だと思った。

 忠三郎は昨年秋、岐阜に来て間もない頃、藤袴の野辺で、とても芯の強そうな少女を見かけたことがある。

 今そこにいる少女は、間違いなく藤袴の中にいた娘だ。見間違えるはずがない。

 高鳴る鼓動。彼女をまじまじと見る。が、そこではたと気付いた。

 傍らの少年も知っている。あの時、彼女を藤袴の野辺に迎えに来た少年である。

 藤吉郎がやたらと恭しくしている。織田家の人だろう。

(お屋形様に似ている!)

 だとすれば、信長の子息か。年格好から見て、奇妙丸ではなかろうか。奇妙丸ならば、フロイスを接待した時にすれ違ったはずだが、あの時は恭しく面を伏せていて、顔は見なかった。

(あの娘、まさかお屋形様の姫様?)

 忠三郎はどぎまぎと歩を進める。すると、近づいてくる忠三郎に、少年も気付いたようだ。忠三郎は慌てて頭を下げた。奇妙様と藤吉郎が呼んでいる。やはり信長の嫡男だったのだ。

 奇妙丸の視線に気付いた藤吉郎が振り返った。忠三郎と目が合う。

「おや、才気煥発な重瞳子」

 藤吉郎は忠三郎を見て呟いた。

「重瞳子?」

 奇妙丸が問うと、

「はい。姫様はどう思われますか?」

と、藤吉郎は何故か姫を顧みて言った。彼女は答えに窮している様子だ。

 忠三郎が三人の目前に至る。そこで歩を止め、深々と頭を下げた。姫の足元が目に入った。珠のようなとても白い、しっとり透きとおる、きめ細かい肌である。

 忠三郎は動転した。こんな肌をした少女を、これまでに見たことがなかった。

 彼は自分の掌の皺にこの肌を染み込ませた感触を想像して、そんな自分に驚愕した。しっとりとしたその感触は、手を離しても指にまとわりついて残る──実際には触れたわけではないのに、彼の指が勝手にその感覚を味わっていた。

 忠三郎は焦って彼女の足から目を背けるように、頭を上げた。そこにはまだ幼い、忠三郎よりも年下の少女の顔がある。

(こんな小さな子に。とんでもないことだ)

 自分はどこか変なのではないかと己を恐れたが、考えてみれば、数え十四歳。そういう年頃なのだ。戦を経験し、生と死のはざまに立って、何かに目覚めたのかもしれない。

 一方、幼い姫の方は、男にそんな目で見られているとは夢にも思うまい。忠三郎など視界に入っていないようで、

「もしも姫様の婿殿が重瞳だったら、嬉しいですかな?姫様は女王さまになれるやもしれませぬ」

という、藤吉郎にばかり注目している。

「女王?四面楚歌の虞姫は、どうしてあんなことになってしまったのですか?」

 彼女は小首を傾げている。藤吉郎は目をぱちくりとさせたが、しばらくして、

「ああ、項羽ですか」

と、けたけた笑った。

「なるほど、項羽も重瞳でございましたな。されど、ご案じ召されますな。虞は虞でも、虞舜(帝舜)の方にございますれば」

「項羽?帝舜?」

 奇妙丸が顔じゅうを疑問いっぱいにしていた。突然どうして、藤吉郎はこんなことを言ったのか。三人の子供にはわからない。

「さすがは姫様、重瞳と聞いて、聖人の方ではなく、覇王をすぐに連想されるとは。武門の姫君らしいことです。おっといけない!」

 藤吉郎は急に思い出したように、

「お屋形様にお目通りをお願いしなければ」

と言うので、忠三郎は、

「それならば、それがしが取り次いで参りましょう。ちょうど参るところでした」

と、そそくさとその場を立ち去った。忠三郎は自分の姿を彼女の前にさらけ出しているのが辛かったのだ。

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