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海の路

 秀吉は二百万石を越える直轄地を領していた。そして、大坂の石山本願寺のあった場所に、巨大で豪勢な城を築き始めている。これは信長の安土城より豪華な造りだ。

 間違いない。秀吉は自らが天下人とならんとしているのだ。三法師は踏み潰されるだろう。秀吉が天下取りにむけて着々と準備を進めている。誰の目にもそう見えた。

 これを専横なる振る舞いと見る者もいた。

 秀吉は一応織田家臣という立場をとり、三法師に仕えている。そのため、織田家の人間は、あくまで自分は秀吉の主筋だと思っているわけである。だから、織田家の人間から見れば、今秀吉のしていることは専横であった。

 殊に、三法師の後見である信雄はおもしろくない。

 一方、賢秀と忠三郎は、賢秀の末妹とされているとら姫(忠三郎より年少)を、秀吉に人質として差し出した。人質を求めたのは秀吉で、わざわざ日野にやって来たのである。

「先の三七殿、柴田のような叛意は二度とあってはならんので、三法師君への二心無き証を頂戴したいんですわい。勿論、蒲生家を疑うつもりはありませんがの。どこの家にもお願いしていることなので──」

「いや、それは当然のこと」

 蒲生家は今度こそは、以前信雄のもとへ出した籍姫ではなく、忠三郎の養子か養弟をと考えた。

 だが、

「三法師君の代わりに、わしがお預かり致す」

と秀吉は言うのである。

 三法師というのは建前だ。それはわかった上で、秀吉のもとに差し出さなければならないならばと、男子ではない、とら姫を選んだのだ。

 何故なら、

「新しい大坂の城には、煌びやかな御殿を築いており、そこには亡き信長公の御身内の方々にお住まい頂くことになっておりましてのう。冬姫さまにあらせられましては、安土の御城の中に、姫さまの御部屋がござったと聞き及んでおりましたによって、大坂の城の御殿にもご用意しておりますので」

と、秀吉が言ったからである。

 秀吉は冬姫を求めている。仄かにではあるが、口にしたのだ。しかし、それでは絶対にただの人質では済まされなくなる。忠三郎はその秀吉のちらほらを気づかぬふりをして、

「ほほう、では、お言葉に甘えて、そのうち冬姫様を織田家の皆さまの御もとに、遊びに行かせましょう」

と、とぼけて、今日は産後疲れで寝込んでいる等と言った。

 秀吉が冬姫を望んでいるならば、才色兼備の若い女人でなければ、誤魔化しきれないだろう。親族の中から、身代わりになり得そうなとら姫を人質に選んだのであった。

 忠三郎はとら姫を自分の妹とした。秀吉は蒲生家の家族構成などは知らない。

 蒲生家が三法師でもなく信雄でもなく、秀吉のもとにきっちり人質を出してきたからには、秀吉としても好遇するのが当然で、他の態度はとりようがないであろう。内心ではどう思ったか知れないが。

 それで、忠三郎は秀吉の推挙により叙爵、飛騨守に任じられる。

 飛騨守は、南北朝時代の頃から飛騨に土着した姉小路家が、代々国司家として任官してきた。

 姉小路頼綱は斎藤道三の娘婿、すなわち織田信長とは相婿であった。織田家や信忠を支えた斎藤利堯(道三の子、濃姫の異母兄弟)と親しかった。本能寺の変後は、信孝、柴田勝家、佐々成政らの陣営である。信孝、勝家亡き今、秀吉は頼綱を、佐々成政同様、敵と見なしている。

 こうして長年姉小路氏によって世襲されてきた飛騨守に、信長の娘婿である忠三郎が任じられることになったのだ。秀吉の意思によるものである。姉小路の飛騨守を自分の陣営が奪うわけである。

 とはいえ、その飛騨守は頼綱の義甥に継がせるべきという秀吉は、なお織田家の家臣という思い、立場なのではあろう。

 秀吉が今でも織田家の、三法師の家臣であるのは、忠三郎にとって幸いであった。

 とら姫には乳母がついて行ったが、これは川副家の女。同じく川副家の娘が秀吉夫妻の側近となっており、また、最近、秀吉夫妻と接近著しい信長の側室・小倉殿の周辺にも川副家の人間がいて、このことは蒲生家にとって、都合が良さそうである。

 秀吉に人質を差し出したことで、仮に信雄や三法師と秀吉が対立するようなことがあったとしても、蒲生家は秀吉を裏切れない。秀吉への臣従を形にした蒲生家。

 他の織田家臣達もまるで秀吉の家臣のように召し使われている。

 信雄はそれが不満だ。つい先日までは秀吉とは、共に信孝を攻めた仲。しかし、信雄は信孝の危惧を今にして理解し、秀吉と手を組んだことを悔いていた。

 そのような信雄を、秀吉はついに鬱陶しく思ったか。不穏な空気が流れ始めた。


 天正十二年(1184)。

 秀吉は信雄の家老四人と密談し、無理無理秀吉へ臣従することを誓わせた。

 滝川雄利もその内の一人。彼は逃れられないと観念し、起請文を出してその場はどうにか取り繕ったが、その後、ことの次第を信雄に伝えた。

 信雄は怒って徳川家康と手を組んだ。家康にも野心があった。秀吉如きに天下を奪われてなるものかという思いがある。そこに、信長の遺児たる信雄が助けを求めてきたのだ。家康は大義名分を手に入れたのである。

 ついに家康は立ち上がった。

 三月三日。信雄は件の家老四人のうち、滝川雄利以外の三人を城に招いて殺害し、さらに三人の居城を奪い取った。

 開戦である。家康は七日に出陣、浜松を出た。

 家康は加賀や越前の秀吉方の背後を狙い、越中の佐々成政と手を組んだ。また、秀吉の本拠・大坂を側面から討とうと、四国の長宗我部元親、また紀伊の雑賀衆・根来衆などを動かした。

 それに対して、秀吉も各個に対応している。佐々には背後を越後の上杉景勝に、正面から前田利家・丹羽長秀に当たらせ、紀伊には中村一氏、蜂須賀家政、黒田官兵衛らを、四国には仙石久秀を当たらせた。

 全国で秀吉か家康かに分かれて、決戦に及ぼうとしていた。しかし、信長に恩義ある武将達は、秀吉か家康かと決めることはできかねる。先の柴田か秀吉かと迫られた時のように、ただ家の生き残りのみを見越しての判断であった。

 美濃の池田勝入や森長可など、信長と最も近しい関係にあった者は、一応秀吉に従うと決めたが、本気にはなれなかったろう。


 伊勢は早くから信雄、信孝が治めていた場所である。そのため、今回はほとんどが信雄方であった。秀吉方だったのは、蒲生寄騎の関一政に志摩の九鬼嘉隆、それに、安濃津の織田(長野)信包(信長弟)くらいで、信孝の養父であった神戸具盛は信雄方であった。

 秀吉方の忠三郎は伊勢攻撃の大将を命じられていた。他に、信長の小姓時代の先輩・堀秀政、長谷川秀一、一柳直末らがいる。

 まず北伊勢の要害・峯城を攻撃した。昨年も忠三郎はここを攻めている。そのため、随分破壊されていた。つい昨年のことなので、ろくに修復もなされていない。

 忠三郎の戦の集中力は並外れたものである。また、自身、雑兵のように先陣を駆け抜ける。それはまるで兜としている鯰の尾の溌剌と暴れるが如く、凄まじい勇猛ぶり。

 ただし、猪武者ではない。頭は極めて冷静。勇猛に戦えば戦うほど冴えてくる。平生では使うことのない脳細胞が活発に動き出すのが、忠三郎自身にもわかる。平生ではいくら動かそうと努めても、絶対できないので、戦で実感するこの感覚が、実はたまらなかったりする。

 彼はこれまでに戦で一度も怪我をしたことがなく、また、一度も負けたことがない。味方が負けた戦でも、忠三郎の率いる隊だけは常に勝っている。

 忠三郎が常に先頭を走るのは、実は緻密な計算の上でのことで、討ち死にはおろか、怪我することさえないと冬姫は思っている。常に脅え、どこかで覚悟しながら、夫の無事の帰還を祈る世の妻達とは、彼女の心理は違う。

 信長は忠三郎のその果敢さを危ぶみ、少し他人に任せることも覚えさせようとしたが、冬姫は彼を信じていた。

 不敗の忠三郎、今回も自ら先陣きって猛攻すると、冬姫の信じる通り、城は一夜で落ちた。敵は夜中に尾張へ逃亡。それを知った周辺の城でも、皆尾張へ逃げて行ってしまい、神戸具盛は姉婿の織田信包のもとに出向いて降伏、以降その世話になる。

 忠三郎はあっという間に北伊勢を手にしてしまった。


 南伊勢は秀吉の弟・秀長(長秀)、明智光秀と親戚だった筒井順慶が攻撃することになっており、忠三郎らは彼等と合流して、松ヶ島城へ向かった。

 松ヶ島城には滝川雄利が入っていた。さらに、信雄、家康から服部半蔵等が援軍として派遣され、防備を固めている。松ヶ島城の他にも木造城、船江城などがあったが、忠三郎らは松ヶ島城から攻めることにした。

 この松ヶ島城は海のすぐ側という、要害の地にあり、周囲に水路を巡らせ、城から直接船も出せるようになっていた。さらに、造りも堅固で一筋縄ではいかない構造になっている。忠三郎が思わず見とれたほどだった。

 三月十六日、筒井順慶が城下に侵攻して開戦となった。だが、城がなかなかの構造な上に、滝川雄利は優秀な武将なので、そう簡単には行かない。

 忠三郎は城を包囲しながら、持久戦を思った。

 攻めあぐねて包囲していると、所在ない時ができる。そんな時、忠三郎は城と海とを眺めて、おかしな高揚感に襲われた。

 城から直接船を出し、大海原に漕ぎ出して、ローマまで行く。何故かそんな幻想に浸ってしまったのだ。

 以前、九鬼嘉隆が、いかなる鉄砲玉も弾き返す鉄甲船を作ったことがある。大型の船を鉄板で覆ったもので、鉄砲にも火矢にもびくともしない。さらに、大筒を搭載して、ポルトガルやスペインの艦隊にも劣らぬ構造であった。

 嘉隆はこの船によって、毛利の水軍に勝利し、信長に大いに貢献した。その嘉隆の水軍の本拠地はここからさほど遠くない、志摩の鳥羽。

 忠三郎はローマへ赴くべく、六右衛門に準備させているが、彼が今、頭に思い浮かべたローマへ向けて走らせる船の姿は、その嘉隆の船だった。

 海のない国に育ったからか、余計に海への憧れが募る。近江には比類なく巨大な、それこそ海のような琵琶湖があり、近江人の誇りである。しかし、湖は世界には繋がっていない。この海こそは、唐土にも天竺にも、さらにはポルトガルにもローマにも繋がっている。海からならば、ローマへも行けるのだ。

(琵琶湖しか知らぬ私は、まさに大海を知らぬ井の中の蛙だ!)

 忠三郎は無性に世界を見たくなった。すぐにもローマへ行きたい。

 日野の山中では、いくら準備を進めると言っても、肝心の船がない。ローマへ派遣する者は、九州の南蛮との取引がさかんな大名に頼んで、南蛮船と交渉してもらい、ポルトガル定航船に乗せてもらうしかないだろう。

(自分の城から、船を出せたなら──)

 忠三郎が松ヶ島城に羨望の眼差しを向けた時、嘉隆の九鬼水軍がやって来た。

 九鬼水軍が海上を封鎖し、松ヶ島城の補給路を断つのである。陸と海から松ヶ島城を包囲し、これで完全な持久戦の構えができる。松ヶ島城の海への路が閉ざされたところで、忠三郎も夢から醒め、再び戦に集中した。

 忠三郎が兜の緒を締め直していたこの頃、六右衛門は豊後にいて、他の勘定方の家臣達と共に、着々と準備を進めていた。

 ローマ法王への献上品は大方揃っている。また、法王へ宛てた書簡をラテン語訳する作業も進んでいた。これは、六右衛門がラテン語に通じる日本人の知人に頼んで、行っていることである。


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