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ロルテスと外つ国(下)

「私の目標が定まった」

 狼狽から一転、一呼吸後、忠三郎は地球儀を睨んで言った。

「私の目は愚かにも唐土にしか向いていなかった。大海原に船を出し、唐土に向かい、日野椀を売って硝石を買い、日野筒で大いに武装して、富と武力を手に入れ、上様の作られる世をお守りしたいと思っていたが──私が目指すべきは唐土ではなく、もっと先だったのだ」

 信長が冬姫に贈った美しい鞠を思った。

(私は何を見ていたのだろう)

 最初から答えを見ていたのではなかったか。それなのに、何故、国内にしか目を向けていなかったのだろう。

 忠三郎が武力を強化させたいと思っていたのは、信長の天下穫りに邪魔な国内の勢力を排除する目的だった。

(違う!銃口は海に向けなければならないのだ)

 国内が、まして織田家がばらばらになっている場合ではない。一刻も早い天下統一を。

「ポルトガルの考えをしかと知らねばならぬ。また、耶蘇会(イエズス会)の本音もな」

 忠三郎が言うと、六右衛門はごくっと喉を鳴らした。忠三郎は信長と同じ目をしている。

(お話しした途端に、己のことではなく、日本のことをお考えになっている。己の家の繁栄、一門の存続、領地の維持拡張を考える人しか見たことがない。だが、こんな人もいたのだ)

 日本のためにどうすべきか、てきぱきと次から次へと考えを組立てて行く忠三郎に、六右衛門は天啓を思った。

「イエズス会はじめ、全ての修道会はローマのパーパ(法王)に属しております。また、国王といえども、パーパには逆らえませぬ。国王とは、デウスが定め給うものにございますので。ローマの意向に背くは、デウスに背くこと」

 忠三郎は大きく肯いた。

「では、羅馬の意思こそ知らねばならぬ。また、ポルトガルや伴天連の目的が日本にとって最悪のものであるならば、彼等の考えを改めさせるために動かさなければならないのも、羅馬であろう。日本は羅馬と話し合わねばならぬのではないか」

 忠三郎はまた、冬姫の鞠を思う。幼き日の冬姫に、鞠をすっかり両手に覆ってみせた信長。


──この世は鞠のように球形にして、それを掌中にしているのがデウス。日本もデウスの手の内──


「日本もデウスのものなら、デウスに最も近い人に頼むしかあるまい。日本をポルトガル王の手に渡すなと願うのだ」

 忠三郎はローマに船を出すことを俄に思い立った。

「三年か……長すぎるな」

 日本征服がただの思い過ごしであってくれればよいが。それを確かめるために今から船を出しても、三年かかる。

 そして、もう一つ何か重要なことを見落としているような気がする。

(鞠、デウス……何か……野馬台詩、いや……天下布武……)

 地球儀の唐土を睨む。

 唐土。渤海海路。半島。何か。何かが。

 そして、信長はどうするつもりでいたのだろうか。本能寺における変事は、イエズス会の出方を探ろうとした矢先の出来事であったはずである。もしも今でも生きていたら、どうしていただろうか。

「誠に耶蘇会(イエズス会)があらぬことを企んでいるならば、上様が俄に亡くなり、日本統一の日が遠ざかったこと、それに織田家が分裂して、しなくてよい戦をしていることは、彼等にとって好都合だろう」

「はい。ただ彼等は常に切支丹の天下人が出ることを望んでおりました。切支丹が日本統一を成せば、耶蘇宗門を迫害する者を排除でき、切支丹達は安心して暮らすことができます。また、布教も一気に進むことでありましょう」

「では、彼等は日本が統一されることを望んでいるのか?」

 布教のためには統一が望ましく、ポルトガルによる征服のためには分裂が望ましいのか。

「羅馬との交渉には、この矛盾が日本を救うかもしれぬ」

 忠三郎は自分の手で日本を救おうと思った。人任せではなく、己で動かなければ。

「羅馬に行くにはどうすればよい?今日明日にでも準備を始めたい。そなた、手伝ってくれぬか?」

 何と大胆なと、六右衛門は驚いた。だが、彼も忠三郎の熱意につられるように高揚していく。

(このお方に、臆病なこの身が、恐れも感じず協力したくてたまらないとは。これがデウスのお示しになった道なのに違いない)

 六右衛門は神への信仰は決して捨ててはいないのである。

「はい!それがし如きでお役に立てるなら。それがしも、日本を救いとうございまする!それがデウスのご意志でもあると信じます!」

 忠三郎は大きく頷き、

「では、関殿にそなたを私の直臣にすることを頼もうと思うが、よいか?」

と訊いた。六右衛門は二つ返事で承諾した。

「準備を進めると同時に、相手の考えも探らねばならぬ。とりあえず、日本にいる伴天連を探るとしよう。何か妙案はないか?」

 もと教会の同宿の六右衛門。忠三郎はとても貴重な人材を手に入れたことを実感した。

「それがしは宇留岸様にお仕えしておりましたから、宇留岸様になら、今すぐにでも接触可能です」

 それに、オルガンティーノは畿内(都教区)担当の布教の長だから、常に京周辺にいるので、訪ねて行きやすい。

「宇留岸様は日本がお好きな方なので、交渉しやすいでしょう。それと、あのお方はポルトガル人ではありませんから、いくらイエズス会がポルトガルの保護下にあるとはいえ、ポルトガル人の伴天連様ほどにはポルトガルに忠実ではないはず。他の方よりも公平なお立場から、日本を見て下さっているのではないでしょうか」

 やはり探りを入れるなら、オルガンティーノだ。だが、オルガンティーノでは、ポルトガルの本音には触れられないかもしれない。

「ポルトガルの伴天連を探ることも必要だ。上様と接触のあったフロイス様はどうだ?」

「現在のフロイス様は準管区長付きですから、それこそイエズス会の本音をご存知でしょう」

 準管区長とは、日本の布教の総責任者で、コエリョがその座にある。フロイスは今、コエリョのもとにいた。

「かなり遠方になりますが。九州各地を転々としておられるので」

「それでも接触せねば。そなたに任せてもよいか?」

「もちろんです」

「宇留岸様とは私が直接話をしよう。私の友人の高山殿を動かせば容易だ」

 会うといつもデウスの話ばかりする高山右近のことだ。忠三郎がオルガンティーノをしょっちゅう訪ねるようになれば、単純に喜ぶに違いない。

 ただ、忠三郎は純粋にキリスト教に惹かれているのも否めない。もとから納得できるところもあったし、信長が保護してきた教えでもある。それに、宗易の茶室での一件が、忠三郎を好意的にさせていた。

「そなたは伴天連達を疑いながらも、信仰は棄てていないのだな?」

「はい。それがしは、パードレ(伴天連)のなさろうとしていることは、デウスのご意志と違うように感じております。同宿をやめたのはイエズス会がわからなくなったからで、同宿をやめたとて、デウスに祈りを捧げることはできます」

 キリスト教そのものとは別の問題だということだ。

 ローマ法王の思惑。イエズス会の思惑。イエズス会所属のポルトガル人宣教師の思惑と、ポルトガル人以外の思惑。ポルトガル国王の思惑。様々な思惑が交錯して、それが六右衛門の目には胡散臭く映った。

 だから、伴天連への非難と、神への信仰心は矛盾しない。

「それにしても、あのフロイス様にもなあ。わからぬものだなあ」

 忠三郎は少年の頃のことを懐かしく思い出す。

 信長と初めて会った日のフロイス。脱帽して礼を尽くしたのを、陽射しが強いから気にせず被れと言った信長の配慮に驚いていたと、話に聞いた。

 そして、岐阜に初めてやって来た時のフロイスは。食事を出されたことに、礼を尽くそうと漆器の膳を捧げて、汁をこぼすからそんなことはしなくてよいと言った信長の細やかさに驚いていた。

 日本人伊留満のロレンソを従え、熱心にデウスのことを説いたフロイスは。日本人を軽蔑した前日本布教長・カブラルに、はらはらしていたフロイスは。

「純粋にデウスの教えを伝えに来たように見えたのだ」

 準管区長付きとなった今。フロイスもポルトガル国王の思惑に従って動いているのか。






****************************

 その頃、冬姫はおくるみに包まれて幸せそうに眠る鶴千代に、目を細めていた。その傍らに紫草染めの麻布を置く。未だ色褪せないそれは、端が裂けている。冬姫のおくるみであった。

 古い自身のおくるみと、真新しいおくるみに包まれる我が子。二つのおくるみが並んでいるのは不思議な心地だ。

 急に自分のを引っ張り出してきたのは、御台・濃姫からの依頼があったからである。

 濃姫は信長の一周忌法要を執り行う予定で、そこにこの紫草の麻布を供えたいのだという。

 この麻布は、ずっと信長と濃姫が持っていた。冬姫が嫁ぐ時も、二人はこれを離さず、冬姫には渡さなかった。いつかは渡すと言って──。

 それが今は冬姫の手元にある。初めて懐妊した時から、冬姫が持っていた。無事に出産できるようにと、岐阜から安土城に移った濃姫が、手ずから冬姫に授けてくれたのだ。生まれてくる子のための新しいたくさんの産着と共に。

 そして、無事に籍姫が生まれた。その籍姫への思い。冬姫は自分の感情から、信長や濃姫の自分への思い──親の子への思いを実感した。

 今また、鶴千代を見て、信長の自分への思いを改めて知る。信長の宝であったこの紫草の布は、冬姫にとってもかけがえのない、大切な品なのだ。

 鶴千代は起きる気配がない。すやすやとよく眠っている。

 起こさないように、そっと紫草の布を桐箱にしまいかけた時である。忠三郎がやってきた。

 彼も真っ先に鶴千代を見やって微笑んだが、すぐに傍らの布に気づいて、冬姫の隣に座ると首を傾げた。彼はこれを初めて目にする。

「美しいですが、端が裂けていますね。何故破けたものを、大事になさっているんです?」

 やはり鶴千代を気遣い、小さな声である。冬姫も囁いた。

「これは昔、父が初めて上洛した時に手に入れたものだそうです。無くなった端の部分は、怪我をした幼子の止血に使ったのですって」

 紫草で染めた布。紫草には薬効もある。

 怪我をした幼子のため、信長はこの布の端を細く裂いて、包帯代わりに、巻いて止血してやったのだという。

 そのため、布は破けているのだ。

「早咲きの桜が一輪だけ咲いていて。その枝で怪我をしたのだそうです。二月初旬、父がちょうど、京から尾張へと帰る途中のことで──」


 信長が初めて上洛したのは、永禄二年(1559)だった。その帰り道。

 信長が八風越えをするため、東近江まで来た時、大きな桜の木を見つけた。

 その根元には、三歳前後と見える男の子がうずくまっていた。眼は上を向いていて、一本の枝に狙いを定めていた。

 幼子が狙っている枝先にだけ、桜の花がいくつか咲いていた。他の枝には花は見えなかった。

 強い風が枝を揺らし、幼子はその動きに合わせて跳び上がった。小さな子が跳躍しても、到底その枝には届かないだろうと思われたが。確かに掴んだのだ、まだ蕾しかない枝だったが。

 ところが、その枝は激しくしなり、折れた。幼子は枝と共に地面に叩きつけられた。

 花の咲く一枝は無傷のまま、平然と高い場所に鎮座しており。

 幼子の従者が助け起こしたが、幼子はよろけ、その拍子に右手に掴んでいた枝をぽろりと落とした。

 瞬間、ぽとっと地面に雫が落ちた。ぽとっ、ぽとっと次から次へと落ちる赤い雫に、従者がぎょっと、幼子の腕を掴んだ。

 掌を仰向けると、なかなかの出血で。それを見た途端、幼子は泣き出した。

 蒼白になって従者が止血しようと自身の着物を探ったが、適当なものがなく。信長が声をかけたのだった。

 信長は懐から紫の布を取り出し、端を細く裂くと、幼子の掌にぐるぐると巻いていった。

 すると、幼子は泣き止み、巻かれた紫草の包帯を見て、すぐに傷が治るよと喜んだ。

 信長はそこで、ここが蒲生野だったと思い至った。

 蒲生野は奈良時代から紫草を栽培していた所だ。信長はこの布はこの辺で採れた紫草で染め上げた物だったのかもしれないと思った。

「ところで、やや、花見か?随分気が早いんだな。」

 信長はそう話しかけた。


──

「父の問いに、その子は、まだ寿命が尽きていない瑞々しい花が、風に散らされるのを見るのが嫌で、その花を持ち帰ろうとしたのだと答えたのですって」

 冬姫はそう言った。

「蒲生野か。その桜木というのは、おそらく──」

「ええ、あの木ですよね」

 冬姫も忠三郎も容易に特定することができる。

 冬姫が忠三郎に連れられて、初めて日野に来た時、忠三郎が花嫁行列から連れ出して、見せた桜の大木。

 あれ以降、よく二人で花見に出掛けている。今年は戦で行けなかったが、何もなければ毎年行く。

「なかなか面白い話ですね」

「ええ。それで、これは端が無くなっているのです。その後、私が生まれると、父はこれで私を包んで育てたそうです。私が成長しても、父が大事に持っていてくれたそうで」

 今度の一周忌に供えるのだと伝えると、忠三郎も幸せそうな笑顔を向けた。そして、再び我が子の鶴千代の寝顔を見つめたのであった。

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