織田の終焉
この頃、その嫁の兄・信孝はまさに唯一人で織田家を死守する思いで、奮戦していた。一度は信雄・秀吉方と和睦した信孝であったが、再び挙兵したのである。
信孝が岐阜城下に進出すると、すぐにも秀吉が北近江からやって来た。だが、川が増水しているとて、大垣城に入った。
秀吉が大垣に来た直後、戦局が動いた。
近江の賤ヶ岳周辺には両軍の砦が幾つも築かれていたが、秀吉の軍勢が離れたのを好機ととらえた柴田軍の佐久間盛政が、奇襲を行ったのだ。これにより、大岩山砦は大敗して中川清秀は討ち死にし、岩崎砦の高山右近は逃亡した。
その報告を受けた大垣の秀吉は、まるでそうなることをはじめから見越していたように、突如として近江へ引き返す。十三里もの道のりを、わずか二刻半で駆け抜けた。
この機動力。まるで昔、敵に四方包囲されて反転した時の信長のようだ。疾風のような神懸かった秀吉に、味方は信長を思い出し、敵は仰天した。
秀吉が引き返してきたとしても、翌日の昼過ぎだと思っていた佐久間軍は奇襲で疲れて寝入っていた。仰天した佐久間軍は勢い盛んな秀吉にはかなわず、味方の前田利家が何故か戦わずに退却したため、惨敗。
柴田勝家はやむを得ず越前へ落ちて行った。しかし、秀吉は追撃の手を緩めず、そのまま全軍で越前へ進撃する。
勝家は北ノ庄城に立てこもったが、これも三日ともたない。勝家は死を決意した。
ここには信長の妹・お市御寮人がいた。
「もはやこれまで。儂は自害致す所存。おもとは娘御らと落ちられよ」
勝家は妻となったお市御寮人へ、その連れ子の娘らと共に城を出るよう言った。しかし、御寮人は首を横に振った。
「いいえ、それでは反対、あべこべ。落ち延びるなら、あなたの方。どこぞへ逃げて、再起遊ばせ。私こそは織田の人間、自害ならば私が致しましょう」
勝家は目を剥いた。どうして逃げ出して、生き恥を晒せようか。
「私も同じです」
御寮人はきっぱり言った。
「これは織田の滅亡なのです。私と共に織田は滅びる。どうして生き延びられましょう。血筋だけは残っているなどという、みっともない家にするわけには参らぬのです」
御寮人には甥の信雄も秀勝(於次)も眼中にない。彼等は秀吉に靡かなければ、日々の糧も得られない輩だ。
信孝は間違いなく潔く散るだろうが、三法師は秀吉に平伏し、信雄は庶民になってへらへら生きて、秀勝は秀吉に蹴飛ばされ、酌以下は誰も育たないだろう。
(間違いない。織田家はどこにもない。民に混じって血筋だけは残るかもしれないが、それさえないかもしれぬ。ならば、潔く──)
恥さらしな滅亡は避けねばならぬ。
「わかり申した」
勝家は織田家の宿老として、死出の供が叶うことを喜び、御寮人の自害を許可した。
御寮人は前夫・浅井長政との間に儲けた三人の娘達を呼んだ。
「もはや落城は避けられぬ。そなたらを道連れにするわけにはいかぬ故、城を出よ。そなたらは浅井再興を夢に生きて行けばよい。母は織田の女故、生きれば悲惨な末路しかない」
信孝の母や娘は無惨に殺された。己は自ら散ろう。そんな母の言葉に娘達は悲鳴を上げた。
「そんなはずは!信雄や秀勝など、織田の人間は数多生きています……」
「あれらの名を口にすな!あれは織田にあらず!」
母のいない世を、人生を、想像しただけで涙が溢れる末娘を御寮人は睨みつけ、早くも席を立った。天守に炎が上がったのは、侍女らに羽交い締めにされ引きずられた三人の娘が、城門を潜らされた時である。
柴田勢の敗北は敵味方何れにも伝わった。
岐阜城の信孝のもとには、城兵ばかりか武将達まで逃亡したので、驚いたことに、たったの二十七人しかいなかった。
そこへ、信雄が尾張で蟄居するよう言ってきた。この状況では従うしかなく、信孝は尾張野間の内海にある大御堂寺に入った。
すると、信雄が再び言ってきた。潔く腹を切れと。
信孝は見苦しく死ぬことを恥じた。叔母のお市御寮人でさえ自害したのだ。彼は腹を切った。
信雄と信孝。同年齢の腹違いの兄弟。どちらが上でどちらが下か。まるで双子のようにその差がつきにくく、二人は常に争い、仲が悪かった。
柴田勝家が滅び、織田信孝が自害し、残るは滝川一益のみになった。羽柴勢でまだ戦っているのは、一益に当たっている忠三郎だけである。
一益はしぶとかった。とはいえ、味方が誰もいなくなってしまったのだ。いくら戦上手でも、負けは決まっている。一益もついに秀吉に降伏を申し入れた。秀吉は一益の命だけは許した。
これでようやく終戦となった。忠三郎の戦も終わった。やっと日野へ帰れるのである。
だが、この時、彼はある人物の身柄を預かっていた。信長の側室の一人である。
彼女は滝川一益の親族で、信長の嫡男・信忠に乳母として仕えていた。ところが、いつしか信長の手がついて、姫を産んでいた。忠三郎はその側室と、所生の姫を預かったのだ。
姫はまだあどけなさがあるものの、端正な顔立ちで愛らしく、将来が楽しみな娘である。
忠三郎は出会った頃の冬姫を思い出し、懐かしい気持ちになった。そっくりというわけではない。しかし、姉妹ならではの、他人の間にはない独特の雰囲気があるのだ。
(いや、籍が大きくなったら、こんな感じか?)
娘の成長した姿を思い描き、それと重ね合わせたりもしていた。不意に無性に娘に会いたくなった。が、恐怖に似た不安も覚える。
(こんなに長く留守にしていたら──私を忘れてしまっているんじゃないか?)
どこの男だと怪しまれやしないかと、籍姫の眼差しを想像して、悲しくなった。
日野に着くと、中野城の城門に、冬姫と賢秀が並んで出迎える姿が遠くからでも確認できた。
しばらく見ない間に、賢秀は随分老けたように見える。忠三郎を万感の思いで見つめていた。
「よく無事で戻ったなあ」
やがて城門に至り、進み出た忠三郎に、そう声をかけた。腕に赤子を抱いている。
隣の冬姫は白く透けてしまっている。明らかに身二つになった後の体型。笑顔で忠三郎や皆をねぎらった。
賢秀が忠三郎を呼んだ。
「おい、鶴千代」
そして腕の赤子を顎で指し、
「鶴千代だ」
どよめく。忠三郎の背後に群れていた家臣達が、一気に歓喜に沸いた。忠三郎も体いっぱい喜ぶ。
「鶴千代か!この子が我が嫡子か!」
「鶴千代」と自分と同じ名を呼ぶのは、照れくさい。自分を呼ぶみたいで。
賢秀の太い腕に安心したように眠る赤子に、感無量だった。初めて対面した我が子。その母たる冬姫を見た。
「寝ていないと駄目でしょう!そんな顔で、起きてきて──」
つい人目も憚らず抱き上げそうになったが、堪えて、その後ろで乳母に抱かれている籍姫に目を向ける。
「もう大事ございませぬ」
冬姫がそう答えた時、籍姫は怪訝そうな目で忠三郎を見た。
やはり──忠三郎はがっくり肩を落とした。しかし、二つ三つまばたきをした籍姫は、その顔のままだが、忠三郎に右手を伸ばしてきた。
「お父上様のお帰りでございますよ」
乳母があやしながら言う。籍姫は忠三郎の兜の魚尾を掴もうとしていた。
冬姫が笑顔を向けると、忠三郎は呟いた。
「忘れちゃったかと……」
「まあ。毎日、父上はどこって訊いてきましたのに」
くすくす笑っている。和やかな家族の風景。家臣達は一様に幸せな気持ちになった。
その晩は前もって冬姫が準備させておいた豪華な膳で祝宴となり、家臣全て招かれたので、城は久々に賑わった。ただ、二の丸をしつらえて迎え入れた信長の側室とその娘を思うと、なかなか複雑だ。冬姫とて、手放しで祝宴の気分ではないだろう。それでも当主の室として、立派に宴の支度をし、家臣達を労わなければならないのだ。
その後、しばらくして、信長の側室は京に移り住み、信長と信忠の菩提を弔うことになる。




