復活の信長
冬姫が言うように、信長が忠三郎を己の大志を継ぐ者と見ていたならば、彼の中にそれを思わせる何かがあったはずである。忠三郎は天下など夢にも思っていなかったが、信長には見えていたのだ。忠三郎が持つ何かを。
何をやっても器用なことや戦上手なこと、何事にも全力を尽くすこと、九割五分誠実で五分計算できるところ──そのようなことではないはずだ。そういう能力を持っている人は、他にもいる。
とすれば、思いつくのは宝誌の詩くらいしかない。
懐妊したことが判明してから、忠三郎はより一層冬姫を愛しんでいる。悪夢は受胎を報せるものだったのだ。
一度目の悪夢は信長の死んだ夜に見た。受胎はその夜だ。
(上様だ!上さまの生まれ変わりなのだ)
信長の命が消えた時に芽生えた命。信長の復活を忠三郎は信じる。
(ならば、その子に天下の座を与えねばならない。私が天下を目指し、生まれる子を必ず天下人にしなければならないのだ!)
まずは信長が描いていた日本の未来像を見つけなければならない。
不思議なことに、生まれる子が女子である可能性は、微塵も思わなかった。
最近の忠三郎は、暇ができると必ず冬姫の所にやって来る。
彼女が無事で居るというだけで安心する。忠三郎はそこで地球儀を睨んでいた。
信長の形見分けとして、好きなものを一つ持って行って良いと、御台の濃姫に言われた時、冬姫は何故か地球儀をもらってきた。忠三郎は冬姫の側へ来ては、最近そればかり見ている。
まだインドやポルトガルには目が向かない。専ら見ているのは明──唐土である。
昔、遣唐使船が唐土に行くのは至難の業だった。逆に、唐土から日本に来ることもなかなかできなかった。
時代は移り、大陸の西の端から南蛮人さえ来る時代になったが、彼等でさえ、マカオ(明)から日本に渡ることには難儀していた。先頃、少年使節団を連れて船出したヴァリニャーノも、日本からマカオに渡るのに、大変苦労させられたものだった。
唐土・日本間の航海は、今なお危険が大きい。
(すると、やはり朝鮮か)
半島は近く、船の行き来も楽だ。遠く神功皇后の三韓征伐から、百済復興に協力した白村江の戦いに至るまで、日本から半島へは易々と行けたものだ。蒙古が攻めてきた時も、半島から、高麗から出てきたのである。
(渤海は、あれはどのようにして来たのだろう?)
日本はかつて、唐よりも渤海と深く関わっていた。渤海人はしょっちゅう日本へ来ていたし、日本からも頻繁に渤海へ渡ったものだった。唐へ行くのに、渤海を経由することもあった。
(渤海へ渡った航路はどこだ?)
日本海のどこかに、安全な航路があるはずだった。
「どうして唐土ばかりご覧になっているのですか?」
冬姫が横から覗き込んでいた。せっかくの地球儀なのに、もっと遠く、モザンビークやら喜望峰やら、見るべきものはあるだろうにと、その瞳が言っている。
「上様の見ておられたもの、答えが見つかるように思えて──」
「唐土に?」
「そうです」
忠三郎は再び地球儀に目を落とす。
「唐土はとても遠い……」
ポルトガルとは比べようもなく、一跨ぎできそうだと地球儀は語っている。なのに、とても遠い。
「もろこしも夢に見しかば近かりき思はぬなかぞはるけかりける……」
「えっ?」
忠三郎が目を向けると、笑いを含んだままで、冬姫が睨んでいた。目が合うと、おかしそうにくすくす笑う。
「頻繁にいらっしゃると思ったら、お心は唐土にばかり」
「これは、失礼」
「よいのです」
ふざけてふてくされる冬姫は可愛かった。
「忠三郎様のお心が南蛮の彼方でも、私は寂しく堪えていきます」
「阿弥陀を下された頃の姫さまからは、想像だにできないお言葉。いいでしょう、あの時つれなくされたので、仕返しです」
忠三郎は戯れてそう言いながら、そっと胸に掻き抱く。
「殿方の考えることにはついて行けません。この胸の中に、どのように果てしない世界が広がっているのか」
胸の中で冬姫が呟く。華奢な手でそこに触れると、堅い物に当たった。彼が秘めている、件の阿弥陀像を納めた厨子だ。
冬姫の体調は落ち着いているようだと、忠三郎は顔を覗き込んで安心し、そのまま地球儀に視線を戻す。
(答えはきっとここにある。確認したい。日本の外海に船を出してみたい)
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安土城には織田家の要人がいる。当主となった三法師が入城する予定になっており、信長の御台・濃姫、三法師の生母や乳母らがいた。
そこへ柴田勝家に嫁ぐお市御寮人がやって来た。御台に挨拶を済ませたら、その足で勝家のもとへ行くという。
冬姫は一目叔母に会いたいと思った。彼女は普段あまり我が儘は言わないが、体を案じる忠三郎に、珍しく強く願い、粘ってついに承諾を得ていた。
悪阻は落ち着いてきているとはいえ、日野から安土までの道のりを思うと、決して安心できない。だが、忠三郎は決めてしまったのだ、秀吉に従うと。だから、冬姫は、お市御寮人には二度と会えなくなるかもしれないのである。
「そなたは相変わらず困った娘じゃ」
冬姫が中間藪下を従えて安土に現れたのを見て、御台は呆れた。だが、お市御寮人は喜色満面であった。
「久しぶりね。大きくなって。綺麗になった」
お市と会うのは七、八年振りだろうか。お市は相変わらず美しかったし、若かった。三十路には見えない。
「そなたが会いにきた理由はわかっています」
お市は意外に落ち着いた物言いだった。
御台や侍女達からは離れて、庭を前に、二人きりでしばし話をする。昔もよく城の廊下に座って、二人で庭を見たものだ。
「変な感じね。私の隣で飯事遊びに興じていたそなたのお腹に、ややがいるなんて」
冬姫自身も変なものだと思っていた。あの頃、自分が身ごもることなんて、想像もつかなかった。
「その子の行く末にも関わること。私に会いに来た理由、それを覆してはくれぬか?」
「私に口出しできることではございません」
「私はこれでも、自分の意志で柴田殿に嫁ぐのよ。女とはいえ、自分の意思、意見は持っていなくては駄目。そなたは織田の女として、夫を動かさなくてはならぬ。女はただ素直に夫に仕え、子さえ産んでいればよいというわけではない」
冬姫は素直に頷いた。
「では、蒲生殿に、三七殿に従うよう言ってくれるわね?三七殿でなければ、織田は滅んでしまう。わかっているでしょう?猿め(秀吉)の野心を阻止しなければ」
「夫は熟慮の上、決めたのです。今更何と言おうと、覆せないと思います」
「それを覆すのが冬姫の役目ではないの!」
お市には冬姫がひどくのんびりしているように見えた。武家の女が、このようにふわふわしていては困る。
「夫の意思に従うことが、父のためになると存じます」
信長のために、夫に意見はしないのだと言う冬姫の理屈は、お市にはよくわからない。
「夫は父に選ばれた人なのです。夫は父の意志を受け継いでいるのだと思います。夫が決めたことには、間違いはないのだということを、私は知っています。夫が右と決めたら右、左と言ったら必ず左になります。私如きが余計な口出しをして、迷わせることはできません」
冬姫の言いようは、まるで信孝や勝家が間違いだと言っているようであった。しかし、何故かお市は怒らなかった。ただ、はっとしたように冬姫を見ただけである。
「お父上様の御意にも叶うことだと信じているの?」
お市はやがて微笑んだ。
(夫を信じきっては駄目なのよ。そなたは織田の娘。蒲生の人間ではない)
お市の前夫は、織田家のためには生きてくれなかった。織田を裏切り、彼女と信長を苦しめた。
お市は微笑んだまま、そっと冬姫を抱きしめる。
「そなたは可愛い人ね」
そこまで夫を信じきっている冬姫が愛おしかった。
「そんなに蒲生殿に夢中なの?困った人。武門の娘は恋をしてはいけません」
ゆっくりお市は体を離すと、そのまま御台達のいる方へ歩いて行った。冬姫に、もう勝家に味方しろとは言わなかった。
そうして、蒲生家を味方に引き入れることを放棄したまま、勝家のもとに嫁いで行った。
恋と言われたその言葉が、冬姫の胸にひどく強く刻まれていた。
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かなり秀吉が有利になってきている。勝家方の武将を次々に調略して味方に引き入れたり、信長の葬儀を盛大に行って、権勢を見せつけたり。
京の大徳寺での信長の葬儀は、秀吉の力を天下に披露するものだったが、喪主は於次秀勝だった。こうすることにより、秀吉は諸将の反感を和らげている。
どっちつかずの武将にとっては、於次を前面に押し出されることにより、秀吉に仮に野心があったとしても、養子が信長の実子の於次である以上は、別に構わないかという気持ちになってくる。
織田家の当主が、三法師から於次に代わるだけだからだ。
織田家の分断は避けられそうにない。その不穏のせいか。冬に入ると、冬姫は寝込むことが多くなっていった。




