四面楚歌(下)
翌日には、敵がすぐそこに迫り、陣を張ったとの報告が入った。兵数は三千とも四千ともいう。
物見の報告に、忠三郎は笑った。しかし、短絡的な男ではない。いつでも用意周到なのだ。安土周辺の小川や大森山近くの市原、蒲生家の領内の一向宗徒に一揆を起こさせる手筈を整えた。
又、北畠三介の軍勢が鈴鹿越えで進んできているという。
「待っていた!すぐにも援軍として駆け付けて下さるよう、御本所(三介)にお願いしよう。土山にて合流し、共に安土を攻め、敵を追い出すぞ!」
忠三郎は三介への使者として、前田利勝を遣わすことにした。
利勝が外へ出たのを確認した時、冬姫が櫓に立つのが見えた。しばし時間がある。忠三郎はほとんど話す暇もなかった冬姫のもとへ向かった。
櫓からは日野の城下が一望できる。ここに間もなく敵兵が押し寄せてくる。この町は焼かれてしまうかもしれない。
遥か向こうの林の辺りに土煙が立つのが見えた。敵の進軍であろうか。
冬姫は、間もなくこの城が敵に包囲されるであろうその様を想像した。そして、四面楚歌の虞姫の姿が瞼に浮かんだ。
楚の覇王・項羽が、漢の劉邦に取り囲まれて、絶体絶命に陥った時。項羽の耳に届いたのは、自軍を包囲する敵兵達の歌う楚歌だった。自分の楚兵も皆、今では敵軍の中にいる。四方包囲され、敗北を知り、項羽は寵姫・虞姫と酒をくみ交わした。
虞姫は足手まといになることを恐れ、剣舞を舞い、そのままその剣を己に突き付けて自害した。
やがて、この城も敵に包囲される。敵は昨日まで父の味方だった父の兵だ。この城にも楚歌は届くことだろう。
気配に瞼を開けると、忠三郎が立っていた。日に瞳が反射して、異様なまでの輝きを放っている。
「重瞳……」
「重瞳ですと?」
懐かしそうに忠三郎が笑う。
「項羽も重瞳だったそうですわ……」
幼い日、秀吉が冬姫に問いかけた言葉を思い出す。
異形は王者の証であると言ったらしい冬姫に、秀吉は訊いたのだ。婿殿が重瞳だったら嬉しいかと。
秀吉は、信長が忠三郎を婿にと考えていたので、そう訊いた。信長は忠三郎を重瞳だと思ったから。忠三郎に重瞳の帝舜を見たから。
しかし、少女の冬姫は、重瞳と聞いてとっさに項羽を連想した。四面楚歌の虞姫のような運命は嫌だと思った。
「大丈夫。御身が虞姫になることはありません。蒲生が四面楚歌に陥ることはないのです。長年の敵でも、利用できるものはしようと、一向宗徒と手を組みました。敵が一向一揆との小競り合いに気を取られている間に、我等は御本所(三介)様と安土へ攻め上ります」
三介に使者を送ったことを告げた。
「この辺りで最も兵を有するのは御本所様。御台様方を御本所様の御手に委ねるのが、一番安心です。御本所様が土山までお越し下されば、それが叶います。徳川殿もすぐそこを無事に逃げられたと報せを下さいましたし、心配ありませんよ」
だが、冬姫の顔色は冴えない。三介が何の疑いも抱かずに、軍勢を蒲生の領内に進めてくるとは思えなかった。
「証が要ることでしょう。私が陣中へ証として行きます」
「御身は織田家の姫君。御本所様の妹君です。妹君では、証として成り立ちません」
今、蒲生家には多数の織田家の人間がいる。恩賞目当てで、彼女達を敵の手に渡すのではないかと疑われないとも限らない。三介に援軍を求めるからには、三介の疑いを払拭させる必要がある。だから、自ら進んで人質を出すのだ。
人質は蒲生の人間でなければならない。冬姫は確かに蒲生の室だが、三介の妹だ。三介への人質として成立し得ない。
「まさか、姉上様をとは仰有らないでしょうね?私が嫁いできたせいで離縁になるのに、証にまでされては──」
冬姫は眉を寄せて訴える。
「私では務まらぬのならば、籍殿を差し出して下さい」
「籍を!?」
忠三郎は仰天した。
「籍はまだ赤子ではありませんか!」
「でも、あの子ほど血筋の上で適者はいません。それに、兄の三介殿も、幼い姪には優しいかと存じます」
蒲生家は家の存続、繁栄のためなら、時には親族にも厳しい家だ。幼い頃の忠三郎は母と離されたし、彼自身、人質に出されもした。忠三郎の叔母達だって気の毒な思いをした。そうやって家の存続を優先させてきた。
忠三郎だって、酷とも思える仕打ちを姉にしようとしている。その忠三郎が、幼い籍姫を人質に出すことを躊躇うのは、おかしなことと言えた。
姉でないまでも、他にも親族はいるし、亡き叔父の小倉実隆には複数男子もいる。小倉本家は血統的には蒲生の男系だ。蒲生の嫡流が断絶するようなことがあれば、小倉のその子等が継ぐことになる。今、その子を養子にすれば良い。
「……籍は命をかけ、痛み苦しみ抜いて産んだ、御身の御子だが、この賦秀の子でもある。不憫で……」
「私だって。不憫でなりませぬ……」
だからといって、籍姫にだけ肉親の情に縛られるわけにはいかないではないか。
「我が子を人質に出すのに、逡巡する自分が情けない、だが──」
こんなにも決断できない情けない思いに縛られて、人質にしないで済む手はないかと、代替案を捻り出そうとぐるぐる模索するものなのか。いったい父の賢秀は、元服前の忠三郎を人質に出す決断を、どうやって下せたのだろう。
だが、忠三郎もしばらくして決意したようで、
「いや、何より大事な子だからこそ、我が蒲生の覚悟をお示しできるのだ。御身の言うが正しい、籍でなければ」
と、櫓の下に控える者に籍姫を連れてくるよう命じた。
籍姫は昨年、二人の間に生まれた娘である。
冬姫が忠三郎の母を密かに訪ねようと決意したのも、懐妊したためなのである。冬姫は忠三郎をこの世に生み出してくれた人に、一度も会えず挨拶できずにいたことが申し訳なかった。懐妊した時、どうしても会って、そのことを伝えたかったのである。
やがて、乳母に抱かれた籍姫がやってきた。赤子は腕の中で眠っている。忠三郎にどこか似た面差しだ。
乳母の手から籍姫を受け取った忠三郎は、そっと頬ずりした。自分のすぐ先の未来を知らぬ籍姫は、すやすやと眠り続けている。
人質は、養子などより実子の方がこちらの真剣度が伝わる。逆に養子や親戚では、三介から最上級の信頼を得られないかもしれない。
(このまま、眠っているうちに、人質にやってしまう方がよいのだろうか。だが、目覚めた時、父も母もいなかったら、どんなに驚き、恐れるだろう……)
言い聞かせたって何もわからないであろう籍姫に、それでもきちんと役目を言いつけてから手放すべきなのか。わけもわからぬまま、父母と引き離され、見知らぬ強らしい武者どもの中に投げ込まれたら、どんなに脅え、むずかることか。
「どうしたら──」
父親らしい戸惑いを見せる忠三郎。冬姫の脳裏には、先日以来、常に賢秀から聞かされた話がある。今の忠三郎のこの様子に、彼がより慕わしくてならなかった。
だが、一つわからないのは、忠三郎が愛娘に籍と名付けたことである。おそらく、信長が改元した天正の由来となった、類い希なる美男・潘岳の籍田賦に因むのだろうとは冬姫も思うが──
籍といえば、竹林の七賢・阮籍、そして、項羽の諱でもある。
項羽で親しまれているが、羽は字であり、本当の名は籍なのだ。
重瞳かと思われた忠三郎だったが、信長は彼に帝舜を見て、婿にとを決めたのである。舜や英と名付けるなら分かる。だが、同じ重瞳でも、忠三郎は聖人ではなく覇王の方を選んだ。
この覇王・項羽の名を戴いた籍姫が、蒲生家が四面楚歌に陥る危機を救ってくれる。
「籍……」
冬姫は手を伸ばし、忠三郎の腕の中で眠る娘の頬に軽く触れた。夢の中の赤子は、けたけたと笑った。
忠三郎の眼が鋭く光る。
「このまま連れて行く!次兵衛と種村を付けて──」
父としての情を振り切るように、そのまま櫓の階段を降りていく。冬姫もその後ろについて行った。
籍姫に従うのは乳母達や次兵衛。同じく織田家から来たが、近江衆の種村。
籍姫はまだ眠り続けている。多少揺り動かしたり、抓ったくらいでは起きそうにない。
やがて賢秀もやって来て、幼い孫の寝顔を覗き込んだ。
「このまま行かせる気か?己の役目も知らぬままに、不憫な子よの」
「兄に委ねるのです。ご心配なく」
強がる冬姫に、賢秀ははっとした。彼女は少しも泣いていない。
(あの女を思い出すとは……いや、冬姫があの女と同じだから──)
女とは、母とは、普通こういう時は泣いて崩れ落ちるものだと思っていた。
(あの女も幼い子らを置いて、この家を追い出された時、父親に委ねるのだから大丈夫だと、涙一つ見せなかった)
忠三郎はあの時の母との別れを覚えているだろうかと、賢秀は息子の横顔を盗み見る。忠三郎は何を考えているのか、口を真一文字に引き結び、見つめるでもなく一点に視線をやっていた。
やがて、出発となる。御台・濃姫もかけつけてきて、籍姫を抱いた乳母が輿に乗るのを見て、涙をこぼした。輿の脇にしっかり種村、次兵衛の両名が張りついて行く。
見送る忠三郎の目にも冬姫の目にも、涙はなかった。御台はいっそう涙が溢れた。
(我等が厄介になっているために人質を出すことになって……だから、泣いたら我等が気兼ねすると思って、我慢しているのね……)
御台の涙に気付いた賢秀が、珍しく緊張を伴わずに笑いかけた。
「籍はそれがしの孫にございます。紛れもなく、この蒲生の娘。しかし、思えば、あの上様の孫でもあるのですな。それがしには、かの安土の天主の、それよりも遙か高い所におわすお方に思えて、果てしなく遠い存在だったのに。その上様と同じ孫を共有しているというのが、なんとも不思議にございます」
「そこまで果てしない方でもなかったが」
御台は涙を拭ってくすっと笑った。
「籍という存在が教えてくれまする。織田家とこの蒲生は一心同体だと。どうか、この蒲生に全てお委ね下さい」
賢秀は爽快な顔で頷いてみせた。御台は微笑み、籍姫を乗せた輿が鈴鹿越えの玄関口・土山のある鎌掛方面へと行くのを見送った。
「ほんの一日か二日よ、籍。三介が土山に着いたら、わらわ達も合流する」




