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四面楚歌(中)

 蒲生家が賢秀の娘を離縁させて布施家から連れ戻すというので、さすがに安土の女衆も顔見合わせた。

 冬姫はいたたまれなくなり、賢秀の居間に行こうとしたところ、また城門が騒がしくなり、何やら声高にもめている様子。また降伏を勧告に来た敵かと見れば、加藤次兵衛ではないか。

「加藤じゃ!姫様の家老の次兵衛!」

 門兵がなかなか中に入れようとしないのだ。

「よく見よ、わしじゃ!加藤であろうが!」

 無理に入り込もうとする次兵衛を、門兵はまじまじと見つめた。

「なんと!かような時にどこをほっつき歩いておられたか!」

 しかし、次兵衛は冬姫の姿を認めると、門兵を無視して闊歩してきた。

「次兵衛、よく帰ってくれました!」

 冬姫は声をひそめて次兵衛を迎えた。

「ご母堂様はご無事でございます。ご無事に逃げられました」

「よかった」

 冬姫は忠三郎が安土に女性達を迎えに行っている間に、密かに次兵衛を安土に遣っていた。

 冬姫は以前、安土の後藤家の屋敷前で、イタリア人のロルテスと伴天連の同宿・山鹿六右衛門に目撃されている。その折、六右衛門は彼女が姑を訪ねているのではないかと推測したが、それは正しかった。

 冬姫はひそかに忠三郎の母と会っていたのだ。今も母の身を案じて、次兵衛を遣わしていたのである。

「ですが、後藤殿は光秀に降伏してしまいました」

「近江衆は全て敵に降ったと聞きました。後藤家としても、当然そうするでしょう」

 遠くで忠三郎が相婿の利勝と何事か話し込んでいる。冬姫はそれを苦しげに見つめた。

「それでも、敵方に降ったならばご無事でいらせられましょう。蒲生家こそ今は危機ですから」

「姫さま、お連れすること叶いませんでしたが、これでよかったのでしょうか?母子で敵となるなど。忠三郎様がお気の毒にござる」

「まことに……」

 冬姫は呟くと、次兵衛を見やった。

「次兵衛?」

 次兵衛はずっと冬姫と話していたのに、まるで別な方に視線をやっていた。

「あ、ああ、すみません」

 次兵衛はすぐに首を戻し、冬姫に軽く頭を下げて詫びた。

「何か気になることでもあるのですか?」

 冬姫は次兵衛が見ていた城門付近に眼を移した。

 城門付近を、中間を連れた見回り役の家臣達が歩いていた。

「あの者──」

 次兵衛はその中の一人を顎で指すようにし、さらに小首を傾げる。

「赤座とか名乗っておりましたか。何やら引っかかりまする。六角旧臣とも申しまする故」

 蒲生家に来てまだ何年も経っていない、比較的若い家臣である。

「以前、ご当家が六角に誘われたことがございました。その折、ご当家は六角からの使者をその場で斬り、六角には戻らなかったのですが──あの折の使者に似ているような?」

「え?でも、確かその使者は次兵衛の目の前で斬られたと──」

「はい、確かに死にました」

「ならば何を──このような時に、おかしな次兵衛」

 冬姫は窘めると、賢秀の居間を訪ねて行った。

「これは冬姫君、どうなされました?」

 賢秀は甲冑姿のまま、腕を組んで胡座していた。

「女の身で出過ぎたこととは存じますが……姉上様を布施家から出すとのこと、お気の毒に存じます。織田家のことで、姉上様に不幸が及ぶのは余りに申し訳なく──」

 すると、賢秀はやんわり笑った。

「なんの、離婚再婚は世の習い。武家の女なら、さようなことはいつも心がけております。可哀想なことなどありませぬ」

「されど、織田家のせいで蒲生家を危険に曝して……ここまでして頂けて、もう充分です。誰もお恨みしないと存じます、織田の皆を手土産に、敵に降伏して下さいませ。さすれば、姉上様も離縁されずにすみましょう。離縁ならば……私を」

「何を仰せか、そのようなお気兼ねはご無用にござる。冬姫君がさようなご不幸に遭われることはありませぬ」

「いいえ、私とて不幸ではありませぬ。姉上様が可哀想でないなら、私だって世のならいでございます」

「忠三郎が許しはしませぬ!」

 賢秀は亡き父・快幹軒の言葉を思い出していた。冬姫は忠三郎を骨抜きにする妖花であると。織田家に危機が訪れた時、忠三郎は冬姫への情に縛られ、損得勘定で判断できず、冷静に行動できないのではないか。蒲生家を滅ぼしてしまうのではないか。冬姫はだから傾国であると。それが現実になりつつある。

 蒲生家は織田家と共倒れする運命だ。いや、やがては神戸の三七郎、北畠の三介、また滝川一益や柴田勝家、羽柴秀吉ら、地方の軍勢が引き返してくるだろう。徳川家康とて──。そして、敵を討ってくれるに違いない。だが、それまでの間に、この城は敵の猛攻に堪えられず、蒲生は滅んでいるに違いない。

 それでも賢秀は自嘲せずにはいられない。

(わしは明智に従いたくない。とても汚いことに思えて、どうしてもできない。蒲生が滅んでも、わしは明智には同心できぬ。つまり、結局、人の行動を決定付けるのは感情なのだ。冬姫への情から、織田を切り捨てられない忠三郎と何が違うだろう。忠三郎のは女への情愛に過ぎず、わしのは潔癖に過ぎぬ)

 それに。信長の面影が浮かぶ。何より、信長への忠義を尽くしたいのだ。

 賢秀はうなだれている冬姫に笑いかけた。

「上様は幾度か危機に瀕してこられました。将軍に本願寺、武田に毛利、かと思えば突然、お味方に裏切られ──。さような時に、この近江では六角の輩が一揆を起こして、この蒲生も危ういかと、浮き足立ったこともござった」

 突然の昔語りに、冬姫は顔を上げて、舅の瞳孔を見つめる。賢秀は自嘲して、亡き父の快幹軒のことを口にした。

「当家の先代はあのような人とて、実はあらぬ考えが首をもたげかけたこともあったのでござるよ。我が父ながら、忠三郎の祖父ながら情けないが。まあ、それは冬姫君もお察しでござったろう」

 今更ながらと、以前は冬姫に対しておくびにも出さなかったことを、白状する。尤も、それは次兵衛も常に警戒し、冬姫に注意を促してきたことではあったが。それでも、やはり快幹軒にそのような考えが実際にあったのだと知ると、冬姫も驚きを禁じ得ない。

「しかしながら、忠三郎が思い留まらせた。上様が近江に冬姫君を入れられたは、人質に出すに等しいお気持ちであっただろうと。我が子は親にとってこの世で最も大切なもの、子のためなら、いかなる地位も名誉も捨て、その子の命を守るもの。何人子があろうと、それは変わらない。上様はその愛し子をどのような思いで近江に入れられたのか。つまり、上様の方から蒲生家に手を出すことは決してないという証なのだと、忠三郎はそう己の祖父に噛みつきましてなあ」

 織田家の方からは決して蒲生家を攻撃することはない、その証、その思いが冬姫なのだと。万が一、織田家が蒲生を敵視すれば、冬姫の命はないかもしれないからだ。

「上様にとって冬姫君は何より大事なのに違いない。だから、その思いに応えるのが武士であると、それに、自分が人質の身から解放された代わりに、冬姫君が蒲生家への上様の証として遣わされた、だから、自分は何があろうと、絶対に自分を自由の身にしてくれた冬姫君を危うくしないと、忠三郎はそう言いましてな。まあ、武士の心というものがわからぬ先代でもござらぬ、それで、先代も何も致しませなんだ。先代の返り忠の心が動いたのも、実は損得云々だけではなくて、六角承禎の父・江雲寺殿(六角定頼)への忠義心もあってのこと、孫めの情け、宜べなるかなとての」

 賢秀は薄ら笑いをおさめて、初めて聞く忠三郎の思いに輝く冬姫の明眸へ、さらに言った。

「忠三郎は己が人質に出されたことがあった故、信じたいのでござろう、それがしの親心を」

 無論、賢秀は忠三郎が人質となっていた時は、絶対に信長には逆らえなかった。だから賢秀は、自分の感情から判断して、信長の親心も自分と同じだろうと信じた。果たして、そうだったのか、それは信長本人にしかわからぬことだが。

「父は神戸殿に……」

 ふと、冬姫が賢秀から目を逸らすと、賢秀は再び笑みを浮かべ、語気を改めた。

「いや、いらぬことを随分と喋り過ぎました……蒲生に高潔な最期をお許し下され」


 一方、勝つと信じて疑わない忠三郎は兵卒達の中で拳を突き上げていた。

「勝算はある。いや、絶対持ちこたえねばならぬのだ。私がたとえ討ち死にしても、御台様にかすり傷一つ負わせることはできぬ。籠城していれば、そう落ちることはあるまい。昔、ご先祖がこの城で半年以上も籠城し、なお勝利疑いなかったことがある。疫病が蔓延したので、やむなく開城したが、此度も流行り病にさえ気をつけ、必ず半年、いや、一年でも守り抜いてみせる!」

 彼の闘志は、立てこもる兵二千にも伝わる。悲観的に考える者はいない。士気は高かった。

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