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四面楚歌(上)

 すでに日は高くなっている。思いのほか多人数になった。女全員が輿や駕籠に乗れるわけではない。多くの者が徒歩であり、恐ろしく歩みが遅い。

 忠三郎は父を先頭に立たせ、自分は日野から連れてきた兵三百余と最後尾を行くが、先程から立ち止まっているのではないかと思えるほど、行列は動いていなかった。先の道が細くなっているからなのかもしれないが、焦りが出てくる。

 それに、篭城後のことも心配になった。城兵千五百に女ども。そこにこれら安土からの人々が加われば、二千人以上で、さらには城下の民も加わる。

 地方に広がった軍勢に、早く畿内へ戻ってきてもらわなければならない。

「若殿!一大事ですぞ!敵の姿が見えまする!」

 考えている暇もなかった。明智秀満(光秀の婿養子)の軍勢が早くも現れた。敵は蒲生軍に気づいたようで、安土へ向かわず、こちらにやってきたのだ。

 忠三郎は藪に隠れて迎え撃つ準備をする。その間、女房衆を先に進ませた。

 忠三郎は間合いを計って敵に鉄砲を放つ。敵が崩れたら槍を突き、刃を振るい、蹴散らしたら、その隙に逃げる。敵が追いかけてくる。振り返り、鉄砲を放つ。敵が崩れる間にまた逃げる。

 何度繰り返したか。

「若殿!敵が諦めて引き返しました!」

 その報告に、身が崩れるほどほっとしたのは、どれくらい戦った後のことだったか。前を見れば、女衆の姿は見えなくなっており、随分先に進んだことがわかる。

 ほおうっと長く息を吐き出すと、忠三郎はなお警戒を促しながら、先へ急いだ。幸い、敵はもう来なかった。


 日野に着くと、たすき掛けの冬姫が駆け回っていた。女房衆を迎え入れ、血と泥で足を汚した者を介抱し、それも途中にして厨へ走って食事を作る。厨だけでは二千人分は間に合わない。冬姫自ら、庭に薪や藁をばらまき、火をくべて鍋をのせていく。その間にも、遠目に忠三郎の無事を確認し、負傷した兵の手当てを言いつけていた。

 冬姫は安土から来た人々のために、あらかじめ部屋を整えておいた。彼女達は一つ所に集まっていたが、一息ついて落ち着くと、誰ともなくしゅくしゅく泣き出した。

 忠三郎と挨拶を交わす暇さえない冬姫が、いそいそと御台と大方殿の前に来た時、安土から来た人々が一斉に、冬姫を慕ってしがみついてきた。普段、こんなに頼られることはない。彼女たちの不安の表れだろう。途中、明智勢に襲われて、恐ろしかったこともあるに違いない。

「大丈夫。お任せ下さい」

 冬姫は自然にそう口にして、力づけていた。

「冬、そなたも不安であろう。皆で押しかけて、父上のことを悲しむ暇さえ与えぬ我等を許しておくれ」

 御台が詫びた。冬姫は首を横に振る。

「しかし、そなた顔色がよくない。無理してはならぬ。よいか、皆、冬にばかり寄りかかってはならぬぞ」

 御台はおびえたり悲しんだりしている人々に、やや厳しく言った。

「わらわ達も共に戦う。食事などは我等が作ろう。冬が一人で駆け回らなくてすむように──蒲生に厄介になるのじゃ、それくらい当然、のう、皆?」

 もてなされるだけでも気兼ねだろう、冬姫は御台の気持ちを思い、遠慮しなかった。

「では、お願いします。でも、今日は敵に襲われ、恐ろしい思いをなさったのです。暑い中、遠路はるばる歩いてきて、疲れてもいるでしょう。今日のところはお休みになり、心身の傷を癒やして下さい。働くのは明日からお願い致します」

 冬姫はもう次の仕事に向かおうとする。すると、大方殿が呼び止めた。

「冬、ここで一度思いきり泣いてからお行き。全てため込んでいるから、そんな顔色なのじゃ。悲しみを忙殺するのは体に障る」

 孫娘の身を案じるわりには、息子の死を孫娘同様に淡々と受け入れている。冬姫は大方殿の方こそ案じられた。

「私は平気です」

「何が平気なものか。ここにいるのは皆織田の者。身内ぞ。気兼ねなく泣くがよい」

 冬姫は親の前でも泣きはしなかったので、ややためらった。泣けと言われて泣けるものでもない。しかし、人生で初めて素直になってみようか、気持ちを否定せずに、我慢せずに、感情に従ってみようかという気持ちになった。

 ところが、その時、

「冬姫様冬姫様!」

 蒲生家の侍女が冬姫を探して呼び回っているのが聞こえてきた。

「まあ、何事でしょう。行かないと」

「気の毒な孫じゃ」

 大方殿の半分呆れたような声に見送られ、冬姫は走って行った。

 冬姫が表に行くと、来客だという。前田利家の嫡男・利勝(利長)だった。利勝は信長の婿である。冬姫の妹・永姫を妻に迎えていたのだ。

 利勝は永姫と上洛するところだったが、途中で本能寺の変事を知り、永姫を尾張に逃れさせ、自身は日野へやって来たのだという。

「それがしも、共に戦わせて下さい!」

 忠三郎は喜んで迎え入れた。冬姫は勿論、安土の女衆もまた頼もしく思い、元気づけられた。


 翌日、安土城に入った明智光秀からの使者が来た。

「降伏すれば、近江半国を与えると、主は申しております」

という。

 賢秀はきっぱり断った。しかし、使者も粘る。

「信長公のお身内を多数抱えておられる。これを差し出すだけで、恩賞は他の者の数倍になりましょう」

 賢秀は使者の顔を汚いものでも見るように睨んで、追い返した。

 その後も使者が来たり、光秀からの書状が届いたりしたが、賢秀は頑なだった。安土から来た女性達は、そのような蒲生家の態度に安堵し、感謝した。小者や中間達と鏃や鉄砲玉を整え、戦の準備を進めていく。

 そのうちに、またしても明智の使者が来た。今度はさすがに賢秀も、また忠三郎も驚いた。

 使者は布施忠兵衛だったのだ。安土と日野の中間地点、大森城主である。その父・淡路守は立派な才人で、近年、信長の直臣となって織田家で重きを置かれていた。そして、子息の忠兵衛は忠三郎の姉を娶っていた。

 賢秀はその娘婿の姿に、目を剥いたのだ。まさかと我が目を疑った。

「舅殿、近江の領主はことごとく明智殿に降っています。近江の地でかの人に背いているは、ご当家だけです。このままでは蒲生家は滅んでしまいます。上様からのご恩を忘れは致しませぬが、我が布施家は安土に近く、明智殿の猛攻に晒されるは明らか故、断腸の思いで明智殿に降りました。ご当家は我が家を盾にとお考えでしたろうが、今や盾となる家は近江に全く無く……」

「けっこう!我等は城を枕に死にましょうぞ!あのような者に従うくらいなら、死ぬ方がましよ!」

 忠三郎が忠兵衛に皆まで言わせず、賢秀の脇で吠えた。

「賢弟、どうかご理解下され!織田家へ、己が滅んでまで忠義を尽くす必要がござろうか?六角家にも最後まで義理立てなされたが、結局は神戸殿の説得に従い、織田家に降られたご当家ではござらぬか。だのに、今はどうしてそこまでなさる?」

「ええい、もうお帰りあれ!あの淡路守殿のお子とは思えぬ。そこもととは絶縁だっ!姉は返して頂こう!」

 忠三郎は無理に追い返してしまった。

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