夢の都
閑散という言葉がぴったりであろう。安土城内に人は少ない。
信長が本能寺で自刃したのは六月二日未明。その午前中には、悲報は安土城に届いていた。
本丸、二の丸ともに留守居が置かれており、蒲生賢秀は二の丸担当だった。
この安土城に篭城するには、万の兵が要る。敵の数は一万を超えるはずだが、都を制圧し、朝廷を手にしたなら、明智に従う者はもっと増えているに違いない。二万近くで攻めてこられたなら、安土城では防ぎきれまい。
ならば、各城に散らばり、地方に出兵中の味方の軍勢が引き返してくるのを待って、これと呼応し、都の明智軍を包囲する方がよい。
とにかく、まずは敵の安土乱入を防がなければならないと、同じく二の丸留守居であった山岡景佐が、真っ先に安土を出て、兄の居城・勢多へ向かった。
景佐は兄・景隆と謀って、城の側の瀬田橋を焼き落とした。京から安土へ行くにはこの瀬田橋を渡らなければならない。
京を制圧した明智軍は安土へ向かおうとしたが、瀬田橋が炎上していたために果たせず、足止めを食らっている。
第一の時間稼ぎに成功した安土城は、この間にも着々と退去を進めていた。
安土城には信長の家族が多数いる。敵の標的であり、何としても逃れなければならない。
身内のある人はそれを頼り、また、尾張、岐阜、行ける所へ行く。それぞれが別行動をとれば、途中で敵に襲われても、他の人は助かるだろう。
織田家に恨みを持っている地域は、明智に呼応する可能性がある。あまり遠くへ行くのも、道中危険である。そのため、安土城には何人もの女性達が残っていた。高齢の大方殿、御台の濃姫、於次丸の生母や数名の側室は、留まっている。また、信長の幼い子供達もいた。
忠三郎が到着した時、これらの女性たちに賢秀は取り囲まれていた。何やら甲高い声で責め立てられているのである。
「何故火をかけぬ!」
きんきんと喚かれるのに対し、賢秀は冷や汗まみれの顔を向けて答えた。
「このような名城は、天下に二つとありませぬ。南蛮にもない見事なものと聞きまする。上様のお城に火をかけるなど、滅相もなきこと。一旦敵の手に渡りましょうが、日野にて三介様をお待ちし、土山で合流して一気に安土に攻め寄せ、すぐに取り戻すのですから、残しておくべきでございましょう」
「なんと悔しい!一時でも敵の手に渡るくらいなら、我等、上様のこのお城に立てこもり、お城諸共自害して果てる!そなたの世話になぞならぬ!」
「やめなされ」
突然、大方殿が割って入った。
「この城がきれいに残っておれば、敵は必ずこの城に入る。さすれば、日野へ来るのも遅くなろう。日野でも準備があるのじゃ、いきなり敵が日野へ来たら、蒲生殿も困るではないか。我等は蒲生殿にご厄介になるのじゃ。なるべくご迷惑にならぬよう。この城を残しておくことが蒲生殿の得になるなら、そうしようではないか。それに、一先ず蒲生殿の厄介になるとしても、土山より鈴鹿越えで三介と合流、甲津畑より千草越えで信包と合流、小倉殿と相谷より八風越えすることになるかもしれぬ。土山、甲津畑、相谷何れも蒲生殿の領内とはいえ、中野城からは距離がある。敵の日野への到着が遅くなった方が、我々も峠越えし易くなるのじゃぞ。どうにも危険になって、切羽詰まったら、中野城の裏から真っ直ぐ大河原越えすればよいが、間に合うかどうかわからぬではないか」
信長の母に言われては、側室達も黙るしかない。大方殿はそこで忠三郎に気づいて、
「おや、よく来てくれたの」
と微笑んだ。
「冬の婿とはいえ、譜代でもない蒲生家に、かような厄介事を背負わせる。申し訳ないのう」
大方殿の言い方には棘があるように思えて、賢秀はますます汗まみれになったが、忠三郎は神妙に頭を下げていた。
女性の支度は時間がかかる。極力最低限のものだけまとめて荷造りするよう言っておいたのに、まだ支度は終わっていない。さすがの賢秀でも苛々するほどだ。
すでに三日の夜明けだ。信長の死から丸一日過ぎている。敵は瀬田橋の補修を終えているかもしれない。船を並べただけの簡易の橋なら、午前中にも渡ってきてしまうかもしれない。時間がない。
「お急ぎ下され!」
あわあわと賢秀が言うが、準備できた女人は少なく、なお文句を言うやら、なかなか輿に乗らない。そういえば、御台の濃姫の姿もない。
ここへ来て急に、
「上様の御宝を運び出しませぬと!金銀財宝を敵に持っていかれてしまいます。上様の御宝だけは敵の手に渡してはなりませぬ!」
と言い出す女房衆がいて、賢秀はまた苛立った。
「さような時間はござらぬ!疾く輿へ乗りなされ!」
「蒲生殿!何考えていやる!敵にくれてやるとお言いやるか!」
「これこれ」
再び揉めかかったところで、既に輿に乗っていた大方殿が、御簾を掲げて中から宥めた。
「蒲生殿が持ち去ったと陰口されよう。蒲生殿が盗賊みたいに言われてしまうのじゃぞ。蒲生殿に従いなさい」
忠三郎も困惑しているところへ、ようやく御台がやってきた。
「蒲生が言う通りじゃ。わらわはわざと部屋を飾り立ててきたぞ。天主も、いつもはしまっている屏風を広げ、金銀宝玉を並べて、煌びやかに飾りつけてきた。惟任は目を眩ませ、恥入ればよい。宝に一切手をつけなかった我等の心根を知るがよい!」
御台はそう言うと、遅くなったことを忠三郎に詫び、輿に乗った。
「御台様は岐阜へお連れした方がよいかと存じましたが──岐阜の衆も奮い立ちましょう」
輿の脇に跪く忠三郎に、御台は毅然と言いきった。
「よいのじゃ。わらわが日野へ行けば、敵の目は日野へ向く。その間に、未来ある子らは逃げ延びられよう。皆が逃げられるよう、わらわは標的となる。と言うて、冬の婿というだけのそなたに、迷惑かけてしまうが。織田のことに蒲生を巻き込んで、まことにすまぬ」
「滅相もない。それがしは一生、人質の卑しい身であったかもしれませぬ。それが、冬姫様を賜り、上様の婿という、夢のような境遇にして頂きました。冬姫様を賜ったご恩、人質から婿に取り立てて頂いたご恩、生涯かけてお返し致したく存じます」
「……ありがとう」
御台は御簾を下ろさせ、それ以上は何も言わなかった。
御台や大方殿を待たせるわけにはいかない。女房衆はまばゆい着物や化粧道具に後ろ髪を引かれながらも、出発した。
「後のことお頼み申す。御台様の御心根が惟任めの目に触れる前に、暴徒どもに奪われぬよう──」
後を同じく二の丸留守居役の木村高重に託して、一行は安土城を出たのであった。




