本能寺の変
天正十年(1582)六月二日。
京・本能寺にて、信長自刃。炎に包まれて死んだ。
その急報はすぐさま安土にもたらされた。安土城内では俄かに天地がひっくり返ったような騒ぎになった。
留守居達はあまりのことに思考停止状態となり、女衆は不安に脅える。次々にもたらされる情報は錯綜していて、敵の正体さえ定かでない。その敵の次なる標的が安土なのかさえわからなかった。
安土の混乱の中に、蒲生賢秀もいた。賢秀は留守居役である。次第に明らかになっていく状況の中で、彼は決断した。
信長の家族を日野に避難させることを──。
賢秀はすぐさま日野に使いを走らせた。
「上様がっ!……」
父からの使いの外池を前に、忠三郎は絶句した。あまりに現実味がなく、真実とは思えない。それでも、絶句し、息を忘れている彼がいる。
「殿が、上様のご家族を日野にお連れするとのこと。すぐにも準備して下さい」
言われてもなお、何から手をつけてよいやら考えが回らない。
(まさか、冗談だろう?……本当ならば──どうなる?どうする?どうすればいい?)
「いったい誰の仕業か?」
「惟任日向守!」
つまり、明智光秀。
新参者の明智光秀を、譜代の家臣よりも重用した信長。光秀は信長に期待されていたし、信頼されてもいた。織田家随一の家臣であった光秀が、何故このような暴挙に及んだのか。
「間違いではないのか?」
「間違いございません」
信長を討った敵の正体が明らかになって、忠三郎は頭に血が上った。未だかつて覚えたことのない怒りに支配される。
「よし!籠城だ!必ず光秀の首とってくれる!」
逆上しても、冷静さは残っている。忠三郎はてきぱきと指示を出し、籠城と安土城の女衆を迎える準備を進める。
城下から駕籠や輿などをかき集めさせる。忠三郎自身駆け回っていると、不意に冬姫が表に現れた。
袴姿で鉢巻をし、手に薙刀を持った侍女達を多数従えている。
(そういえば、まだ知らせていなかった!)
あまりのことに、また忙しなさに忘れていた。いや、俄かな父の死をどう伝えたものかと、冬姫を思うと伝えるのを避けたい気持ちが自然に働いて──
「あっ!」と、忠三郎と駆け回っていた侍達の手が一斉に止まり、冬姫に注目する。
皆の視線の中を、冬姫は静かに進んでくる。いつもと変わらない様子で。
皆の顔が次第に憂わしくなっていく。どの顔も、冬姫を可哀想にと言っていた。彼女はきっとまだ父の死を知らないのだろう。
冬姫は忠三郎の前まで来て、頭を下げた。
「篭城の準備はお留守中、進めておきます。輿も駕籠かきも揃いました。先に城に参集してきた兵達を連れ、疾くお出ましを」
「冬姫様、上様が──」
「未だ参集できずにいる兵も、後から参りましょう。それらの人々と支度しておきます。ですから、若様は安土にお迎えに向かわれませ。後のことはお任せを」
眉一つ動かさずに冬姫は言ってのけた。
日野の城も城下も俄かに騒がしくなったのだ。ただ事でないのは明らか。冬姫は侍女に調べさせ、信長の死を知ったのに違いない。
冬姫は目を上げた。その光を見た途端、忠三郎はこみ上げてくるものを自覚した。しかし、彼も歯を食いしばり、それを引っ込めさせ、
「わかった!もう行く!後は全てお任せした!」
叫ぶように言って、冬姫の手を激しく握りしめると、すぐに離して庭に降り立った。
集まった兵のみを引き連れ、安土へ向かった。
その道中、忠三郎は馬の背で冬姫を思った。こんな時なのに。
今後のことや、戦のことを考えなければならないのに、何故か関係ないことばかり浮かんできてしまう。
初めて冬姫を見た時。あの姿が浮かんで消えないのだ。岐阜の野辺で。一面に広がる藤袴の花の中。何と戦っていたのか、まだ少女だった彼女は涙をこぼさず、必死に泣くまいと努めていた。今日の彼女と重なる。
(今日も必死に堪えていたんだ!)
涙をこぼさぬように、取り乱さぬように。
そういえば冬姫と出会ってから十年余になるが、忠三郎は未だ姫の涙を目にしたことがない。
信長との思い出が山ほどあるのに、全く何も思い出さない。彼の脳はわざと信長を避けるように、次から次へと冬姫の姿を映し出してくる。
安土は近い。すぐ着いたが、町の有り様を目にするまで、冬姫の姿は頭から消えなかった。
町は至る所から悲鳴が聞こえ、土煙が立って視界を遮っている。忠三郎はそのまま城へとなだれ込んだ。
異変は安土の町にも達している。町の人々も慌ただしい。
「上様が討たれた!」
「敵が今日にも攻めてくるぞ!」
「町を焼き討ちする気だ!」
早くも混乱に陥っている。皆、一目散に逃げる準備をしていた。もう逃げた者も多数いる。
修道院とて同じこと。多くのセミナリオの子供達を抱えている。
オルガンティーノは財産を手にあわあわとし、同宿の六右衛門を使いに出してしまったことを後悔した。
信長が討たれたという衝撃。イタリア人故か、オルガンティーノ個人の問題か、周りの日本人の数倍混乱していた。財産を取り出しているうちに、わけがわからなくなり、急に腰が抜けたように床に尻をつくと、口をぽかんと開けたまま、足を投げ出してしまった。
「パードレ!」
「パードレ!」
皆が彼を呼びながら支度をする中、オルガンティーノは財産を抱えて座り込んでいる。
ほんの一月前。あんなに優しかった信長が、急に不敵に笑った。あの顔が忘れられない。
「貴様らは本願寺よな。長崎は本願寺よ」
非キリシタン勢力からキリシタンを守るため、長崎に要塞を築き始めたことを知り、信長は高らかに笑った。
迫害されたキリシタンを迎え入れる城であり、キリシタンではない領主からの攻撃によって、滅亡の危機に瀕するキリシタン領主に、武器を提供するための武器庫。
武装した城。傭兵。石山本願寺や雑賀衆を彷彿とさせる。
「別に俺は構わない。ポルトガルが日本と友好を保つなら」
だが、貴様らの神も一向宗の阿弥陀と同じだろう、この俗物どもめと、信長の顔が言っているように見えた。
神なんていない。それはデウス以外の神のことではない。デウスをも含めて、この世に神など一人もいないのだ。
信長がそう言っているようにオルガンティーノには思えて、信長が悪魔に見えて……
「わああああ!わああああ!」
不意にオルガンティーノは大声で泣き出した。
「パードレ、しっかりして下さい!パードレ!早く逃げませんと!」
皆が寄ってきて、床の上で泣くオルガンティーノを抱き起こす。
信長は最後まで修道院を保護し、オルガンティーノを保護したまま、安土を後にしたが、信長の心は悪魔だったに違いないとオルガンティーノは思った。それでも、保護してくれていた信長が殺された。
「神がお怒りになったのか?ああ、主よ!」
オルガンティーノは引きずられながら修道院を出て行った。
「断じて、明智に従わせてはなりません!」
オルガンティーノは、彼らの最大の保護者を殺した明智光秀に武将達が従わぬよう、武将達が主君を殺した明智の罪に連ならぬよう、神に祈った。




