答え
しばらく修道院で談笑した後、信長は城へ戻り、家臣達と酒盛りをした。城内も城下も、夜更けてなお盛り上がっている。
信長は満足げに、家臣達を宴席に残すと、民の様子を見んとて、天主に向かった。
「蒲生、来い」
信長は家臣達の中から賢秀だけを呼び、伴う。同年齢の二人だが、並ぶと随分年が離れているように見える。
天主の階段を上っていると、上から声が降ってきた。
最上階には先客がいた。今日の祭に日野から招いた冬姫と、忠三郎とが窓辺に寄り添っている。
琵琶湖に映る、灯りに照らされた天主の影を、うっとりと眺めているのだ。湖面の天主は幽玄で、人気ない闇夜に二人きりの男女を、甘美に誘う。
忠三郎は先程、松明を手に光の道を駆け抜けてきた。今は、冬姫との時間に浸っているのである。
階段を上りきらないうちに、賢秀と顔見合わせた信長は、にたと苦笑して引き返し、階下の居間に賢秀を招き入れた。
「父の城で逢い引きとはけしからん」
くくくと笑って、どっかと座る。賢秀も頭をかきかき、向かいの下座に腰を下ろした。
「……いやはや……」
「よし、今日は飲んでやるか」
信長は小姓を呼んで、改めて最上階には行かないよう注意し、珍しく酒を用意させた。やがて、酒が運ばれてくると、二人だけで晩酌を始める。
天下を手にした主君と臣下。ちぐはぐでおかしな図だ。だが、確かに、冬姫と忠三郎の父どうしなのである。そういえば、こうして親しく杯を交わすことなど初めてだった。
「良き夜だ。お前とこんな日が迎えられるとはな」
信長は賢秀の杯に酒を満たしながら、ふっと笑う。
「お前、いつ俺が蒲生を潰すかと、びくびくしていただろう?」
「めめ滅相もない」
賢秀の杯を持つ手が震える。なお彼は信長に馴れない。
「偽らなくともよい。神戸、北畠に続き、徳川のこと、驚いたはずだ。次こそ蒲生の番かと震えたはずよ。現に、お前の妹どもは三七郎によって憂き目に遭っているのだからな」
信長の三男・三七郎(神戸信孝)は、養父や家臣を追い出した。その神戸具盛と関盛信は蒲生家に預けられている。具盛の妻と盛信の妻こそ、賢秀の妹である。
「今度こそ俺の娘が蒲生を潰すであろうと、恐れたはずよ」
賢秀は困って笑顔を作るだけ。徳川家の正室と嫡男の死から、二年経っている。信長はひどく長閑に言った。
「娘を日野に嫁がせた時、俺は娘に何も言わなかった。娘は自分の考えで、今日までやってきたのだ」
「……では、上様は冬姫様を歯痒くお思いなのでございますか?」
勇気を振り絞って訊く賢秀に、信長はゆっくり頭を振った。
「俺の真意をわかっている。冬姫だけだな」
まさか信長は、北畠も神戸も皆、自分の意志ではないと言うのであろうか。信長は本気で、純粋に和睦のために肉親を他家に送り込んでいるのか、信長は絶対に敵対しないと。
(和睦、その一念だけ。敵対すれば、送り込んだ我が子の命危うくなる可能性もある故に。この人も、やはり我が子は可愛いか)
賢秀はなかなか酔えなかった。
「それは、冬姫様に来て頂けた蒲生は幸運でございました」
他の姫ではなく、冬姫だったから救われたのだろうか。冬姫だけでなく、他の子達にも信長は何も命じず、子達の裁量に任せていたならば──。
「いや、冬姫を選んだのは忠三郎だ。忠三郎に目があるということだろう。他にも姫はおったのに、あえて冬姫を選んだのだからな」
「え?忠三郎がですと?」
「そうだ。織田には沢山娘がいるのに、忠三郎は冬姫を選んだ。俺は忠三郎を婿にと考えてはおったが、相手を冬姫とは定めておらなんだ。何人かの姫と会わせて、忠三郎本人が冬姫を選んだのよ。蒲生を救ったのは忠三郎の器量だな。大した子ではないか」
信長はふんっと鼻で笑った。
(織田家の中から、忠三郎がこの人の愛し子は冬姫だと見極めた、ということか?)
単純に冬姫を気に入っただけなのか、はたまた──など、賢秀が考え込んでいると、信長は江雲寺御殿の方角に目を向けた。
「お前達が神戸のことに腹を立てなかったからではあるがな。江雲寺殿へ義理立てして六角の誘いに乗ってしまうようなこともなく、よく俺の冬姫を大事にしてくれた」
信長は礼など口にしない男。顔も馬鹿にしたような笑みを浮かべたままだ。だが、賢秀には信長の心は十分伝わっている。
そして、他の子達は手柄をあげんと、競って養子先、嫁ぎ先を混乱させ、潰して行ったのに、冬姫だけは、他の子達に競り勝とうとはしなかった。やはり、冬姫には感謝せねばなるまい。
「上様、一つ伺っても宜しいでしょうか?」
「なんだ?」
信長は江雲寺御殿の方角の壁から、真っ正面に向き直った。
「上様は何故、忠三郎を婿にと思って下されたのでございますか?」
信長は不意に複雑そうな顔になった。だが、今の信長は余程機嫌がよいのか、他に何か理由があるのか、隠さなかった。
「天下だ」
「天下?」
「忠三郎に天下を委ねる」
「そ、それは──」
──信長の志を継ぐ──
つまり、そういうことか?
「織田家の未来を託して下さるということではなく?」
「織田?そんな小さなことではないわ!織田は嫡男信忠の器量で充分だ」
信長は今度こそ小心者だと見下すように、笑っている。
「俺はすぐにも日本全土を統一する。だが、それで世の中、安定するかどうかわからぬ。国内の問題だけではない。南蛮人どもも何を考えておるやら。天下を掴んだその先が、実はよく見えぬ。やりたいことはあるが、その通りに世の中が動いてくれるかどうか。だから、俺の後を忠三郎に任せたいのだ」
「天下の儀も、お家のことと同じと存じます。王統は一つでなくては、後継争い生じ、国は混乱致します。上様が天下様となられたその座は、織田の血統にて受け継がれなければ」
「そうかもしれぬが、今は難し過ぎる世だ。俺が天下を治めて、世が静謐となれば、信忠に織田と天下とどちらも任せてもよかろう。だが、俺の望んだように世が動かず、反乱絶えず、南蛮人どもまで攻めてくるようならば、世襲に拘ってなぞいられぬ。今の若者のうち、さような難局を乗り切れるであろう者、忠三郎くらいしか俺は知らぬ」
「……」
「この数年、忠三郎を見てきたが、大丈夫だろう。それに、忠三郎は子供の時分から、明、朝鮮の重要性を悟っていたぞ、凄い奴だ。それ故、俺が寿命までに果たせなんだ時は、忠三郎にと思うのだ。だから。忠三郎を潰さねばならぬようなことを仕出かさなかった蒲生家に、礼を言う」
息子がそこまでのものを担わされているのだと知って、賢秀はただ茫然とした。
そんな賢秀を見て、信長は珍しく柔らかい表情を見せた。
「俺は若い頃、国友の鉄砲を手に入れようとしたことがある。その折、同じ近江の日野でも鉄砲を作っていることを知った。日野に興味を覚えた。調べれば調べるほど面白い町だと思った。日野の領主は武器を手に入れ、強くならんと欲しているのかと思ったが、漆器などを生産し、城下には商人を多数集めて裕福だった。鉄砲は異常に高価。日野は丸儲けだな。米だけでは、いかに石高があろうとも貧しいままだということ、米より産業だということ、最も儲かるのは鉄砲だということに、早くから気付いていたのだな。鉄砲はあっても硝石がなければ使えない。我が国が硝石を買うのは明からであり、明が喜んで買うのは漆器だ」
「たまたまでございます。日野辺りは山深いので、木地師、塗師が多く住んでいたに他なりません」
信長は全く裏のない笑みを見せた。
「お前の父を見る度、俺の父を思い出していた」
賢秀は目をしばたたきつつ、「はっ」と頭を下げる。
「俺より先に楽市を始めて城下に人を集め、俺より先に鉄砲の重要性に気付いて日野筒を作り──きっと、俺が奴の真似をしたのだと思っていような」
「め滅相もない!」
慌てふためく賢秀の冷や汗を面白そうに見ている。
「いったい、どういう考えを持っているのか興味深かった。尊敬していたのかもな」
ついに賢秀は絶句した。すっかり礼儀も忘れて信長を見つめている。
「江雲寺殿のことも、奴からもっと聞いてみたかった気がする」
日野の城と城下町を築いたのは、賢秀の父・快幹軒定秀だ。快幹軒は六角定頼(江雲寺殿)に仕え、定頼の様々な政策を日野の町作りにも活かした。だが、既に亡く、今年三回忌であった。
安土城が観音寺城址の隣にあることばかりが理由ではあるまい、城内に江雲寺御殿を建てた信長には、六角定頼や快幹軒に対する特別な思いがあるのではないか。
「忠三郎の育った環境も大きかろうな」
忠三郎が生まれついての神童でも、余所の家に生まれていたら、信長が期待するほどには成長しなかったかもしれない。信長は賢秀に、親しげに目を細めやった。
「それにしても、俺の城を我が物顔で占拠しよって!ぐはっ。そうだな、どうせ日野に近いのだし、いずれこの城は冬姫にやろう」
そんな冗談まで出るとは。信長はもう酔いが回ったのだろうと、賢秀はなお冴えた頭で考えていた。
一夜明けて、翌日。
城に呼ばれていたヴァリニャーノは、信長に挨拶し、そのまま安土を去る予定になっている。ロルテスもまた先を急ぐ身だ。京に、行かねばならぬ場所がある。
安土を発とうと準備していると、昨日の同宿がやって来た。
「昨日日野の姫様をお見かけした辺りのことなのですが、少し気になって、調べてみたのです。あの辺りに後藤様の屋敷があった気がしたので」
後藤と言われても、ロルテスにはどんな身分のどんな地位の人なのかわからない。
「近江ではかなりの名門です。一時は、守護より力を持った家で──」
屋形でも突然、家臣に追われて領地を失ったり、一瞬で無一文になったり浪人するのが、日本という国だ。その後藤とやらが、屋形を凌駕しようが没落しようが、特別なことでもないように思われた。
「やはりあの辺には後藤家がありました。姫様はたまたまいらっしゃったのではないのかもしれません。姑に当たられる方の家なので──」
「姑?」
同宿はやや躊躇った後、簡単に説明した。
「姫様が嫁がれた蒲生忠三郎殿には母君がいらっしゃいません。母儀は離縁されて蒲生家を出されたのです。ご兄弟を頼られ、今はご実家の後藤殿に身を寄せておいでだと聞きます。姫様にとって姑に当たられる方ですから、姫様はその方を訪ねられたのかもしれません」
祭り見物などという暢気なものではなかったのかもしれない。
ロルテスの薄い瞳の色が曇った。
日本では特に理由もなく、離婚再婚が繰り返されている。憎み合ったわけでもなく。夫が浪人したり転封されたとかで、妻が新しい土地について行かずに、自然に離縁になったり。
人生で初めて知った妻と、生涯添い遂げなければならないキリスト教国の人間にとっては、摩訶不思議だ。
それでも、恨みなく別れた人でも、日本人はよく悲しい瞳をしていた。ロルテスにはそう見えた。
「悲しい日本人を、この聖なる教えで救ってあげたい」
ロルテスは昔、騎士であった頃、病院で働いていた。彼は医術ではなく、心で病人に寄り添っていた。キリスト教こそが、病んで心も衰弱した人々を救うもの。ロルテスはそう信じている。
日本人の悲しみにも、この父なる神の教えが必要だ。
同宿は頷いて、そして、後藤家を気にする理由を語った。
「実は我が家は伊勢の関家の家臣だったのです。両親は早世。主家は零落し、今はその蒲生家に幽閉されています。兄は浪人したため、私は九州の親戚に預けられ、さらに教会に入れられて、そこで育ちました。関家も後藤家も蒲生家に縁があります」
蒲生家は関家の外戚だが、蒲生家は後藤家の時と同様、その危機に主君を選び、親戚には味方しなかった。同宿は関家の家臣の子として、似た境遇の後藤家が気になるようだ。
ロルテスは、
「それがし太秦に行かないと。それに、山科。マナセ族に会わないといけません。あなた、代わりに後藤家に通って、姫様の姑様を慰めて」
と、彼の話を半分以上理解できない同宿に言った。
「頼みます。お世話になりました、六右衛門。元気で」
ロルテスはその日、ヴァリニャーノと共に安土を去った。同宿はその後、後藤家を訪れることになる。
没落していたが、きちんとした家柄の子らしく、伴天連の同宿だというのに、論語にも孟子にも通じている彼。山鹿六右衛門という。




