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 日本にやって来る宣教師は全てイエズス会士で、スペイン人もいるが、たいていポルトガル人である。しかし、オルガンティーノは珍しくイタリア人であった。

 来日して十年。ずっと畿内近辺で布教活動をしてきた伴天連(パードレ・司祭)である。

 先年以来続いた荒木村重による謀反の解決に、オルガンティーノも関わっている。熱烈なキリシタンである高山右近は村重配下であったが、オルガンティーノは村重から離反するよう進言し、それで右近は信長に従った。無論、それには信長の意思が働いており、その後の村重の家族への惨たらしい処刑を目の当たりにする等、オルガンティーノには苦渋の行動であった。

 それだけに、信長の信頼は厚く、或いは後ろめたさもあるのかもしれない。今の信長はオルガンティーノの願いならば、たいてい聞き入れてくれそうだ。

 セミナリオ(セミナリヨ・神学校)を作りたいと口にすると、信長はその時には協力すると言った。果たして間もなく実際に、この安土の地の、しかも良い場所に信長は土地を与えて、セミナリオを作らせることになる。

 オルガンティーノは今日、セミナリオ開校はもはや夢ではなく、いよいよ計画に上ってくるということを、話しにやってきたらしい。

「それでな、面白い楽器を持ってきたので、姫に聴かせてやろうと思ったのだ」

 信長は城にオルガンティーノを迎えて、しばし歓談した後、たまたま安土に来ていた冬姫とオルガンティーノを会わせようと思ったのだった。

 信長に連れられて、冬姫が三蔵と共にオルガンティーノの通されている書院に行くと、ビオラ・ダ・ブラッチョを持つ同宿と伊留満が同席しており、書院の前庭には毛氈が敷かれ、その上にはクラヴォが鎮座していた。

 三蔵はオルガンティーノに会うのは初めてである。互いに興味津々といった目を向け合っている。

「その庭の楽器は難しいのか?」

 信長がクラヴォについて質問すると、オルガンティーノはいいえと柔和に返事した。イタリア訛りの強い日本語だ。けれど、日常会話には全く問題ないだろう。多くの日本人と親しく交わってきたオルガンティーノならではの語学力である。

 擦弦楽器のビオラ・ダ・ブラッチョは難しいが、クラヴォは鍵盤楽器だ。頭を使えば、日本人でも弾きこなせる者は少なくないだろう。

 信長は伊留満と同宿と共に庭に降り、クラヴォの説明をさせ始めた。

 書院に残されたオルガンティーノは、冬姫と三蔵ににこにこと笑いかけている。

 三蔵は色々聞いてみたい。だが、身の上など聞くのは不躾だと思ったのだろう、さりとてキリスト教の教えを全く知らないのに、説教をいきなり披露されても困る。そこで、

「キリシタンは貴殿の力で爆発的に増えたと聞くが、女人が圧倒的に多いとか。それは何故でござろうか?」

と、当たり障りないことを先ず聞いた。

「それは、日本は一夫多妻が当たり前だからでしょう」

 オルガンティーノの面は柔和だが、イタリア訛りの強い口調なためか、穏やかというよりは弾けるような溌剌さを感じる。

「一夫一妻でなければならない、離縁も多妻も罪であると、貴殿らは教えていると、聞いており申すが」

 三蔵は日本の当たり前の風習を罪と言い切る伴天連に、あまり良い気持ちはしないと思っていた。

「単なる風習の違いではありません。一夫一妻の方が良いのは、日本だって同じだと思いますよ」

 オルガンティーノはあくまで明るい表情である。庭からはクラヴォの音がしていて、信長が大声で色々質問しては、自ら鍵盤を指で押したりしている。

「あるキリシタン女性のお話をしましょう。その方は、キリシタンになる前、生霊になって、とても苦しんだというのです」

 だが、その後、受洗してキリシタンになり、救われたのだと、オルガンティーノは冬姫と三蔵とを当分に見やりながら、話し始めた。

「その方は武将の奥方でしたが、夫に望まれて妻となられました」

「武将の縁談の中にも、好いたからと夫婦になることもあり申す」

 三蔵が応じると、冬姫も頷いた。三蔵がこれから仕えることになる羽柴秀吉夫妻は、まさに恋愛結婚であった。

「政略結婚でも、お互いを思いあい、幸せを願うもの。それが両家の関係を良くするのであります。まして好き同士なら、互いを大事にするものでしょう。政略結婚であれ、恋仲で夫婦となったのであれ、相手の幸せを願い、互いに尽くし合うもの、それが夫婦というものでしょう」

 何故か三蔵がそう言った。

 オルガンティーノは頷き、けれどと、その女性のことを語る。

「人を好きになるというのは、相手の幸せを願うこと、慈しむこと、成る程そうですね。しかし、その生霊になった女性はそのことを知らなかった。自分は人を好きになったことがなかったようだと、女性は言っていました」

 オンガンティーノは静かに、やや遠い目をした。

「その女性は夫を好きではなかったのです。好きだと思っていたけれど、それはただの執着に過ぎなかった。不幸にも、女性は夫の裏切りに遭いました。夫は新たに女を持ったのです」

 女性のことが好きだからと言って、夫婦になったというのに。その夫は別な女を作った。

 女性がその夫の側女と会ったのは、三度ばかり。特徴の無い顔の女だった。再会すれば、ああ確かにこういう顔だったと思い得るが、普段は面影を浮かべることができなかったのだという。

「女性は夫の心変わりに、嫉妬しました」

 女への悋気、夫への憎しみは激しく、瞋恚の猛火を自分でもどうすることもできなくなり──。

 表面上は理解ある妻を演じ、夫にも側女にも穏やかな態度をとり続けたが、心の中はそうではなかった。

「夫を取り返したい、夫の心を自分だけのものにしたい、そのためにはあの女は邪魔だと。自分を好きだと言ったのに、夫はどうして裏切ったのかと。自分でも自分の感情をもて余すほどに、嫉妬しました。一日じゅう嫉妬に苛まれ、苦しかったのです。そんなある時、ふっと側女の顔が頭にくっきり見えたことがあって。いつも思い描こうにも、正確な目鼻立ちが浮かばない人なのに、はっきりとその顔がわかったというのです。しばらくして、その面影は消え、あとはいくら努力しても、顔がはっきりしなくなってしまった……その夜のことです」

 三蔵も冬姫も固唾を飲んで、話に聞き入る。何やら怪談めいてきて、掌に汗を覚えるほどだ。オルガンティーノはやや身を乗り出した。

「その頃、女性はいつも食欲がなく、腕の痛みで箸も握れないほど。体が怠重くて。そして、はっとしたのです。もしや、自分は生霊となって、あの女に取り憑いているのではないかと。あの顔がはっきりした瞬間、あの時、女に自分のことを気付かれてしまったのではないかと」

と、聞いた当時の恐怖が蘇ったのか、オルガンティーノは興奮して一気に捲し立てた。

 古来より、女の情念の恐ろしさは無数に語り継がれている。

 女性は、自分ももしかしたら生霊になっているのではないかと、その時閃いたのだ。


──「恥ずかしいと思いました。生霊になってしまったかもしれない私の浅ましさも。そして、あの人に生霊の正体が私であると、知られてしまったのかもしれないと。恋敵にそんな恥ずかしい私を知られてしまったのではないかと、恐ろしくなって。そして、あの人に対して、私の怨念が何か障りを与えているのではないかと。私のせいで、誰かが傷つき、病みつき、苦しんでいるのかもしれないと思ったら、恐ろしくて」──


 女性はそうオルガンティーノに告白し、懺悔したのだという。

 三蔵は、

「……その人は悪くありませんでしょう。後妻討ちなるものもありますが、その人が実際に側女に対して嫌がらせをしたわけではありません。嫉妬を行動に移すのが悪いのであって、心で思うだけの、何がいけないのでしょうか。寧ろ、心で思うだけで、必死に堪えていたのに」

 その女性は繊細過ぎると思う。

 だが、オルガンティーノは違うのだと、首を横に振った。

「女性はその時、色々考えて。それで、ある事実に気づいて、愕然としたというのですよ」

 三蔵も冬姫もさらに首を傾げる。


──「殿が好き。私を好きでいて欲しいと思っていただけで。殿の幸せを思ったことがなかったのです。相手に自分を好いて欲しいと望むのは、好きになったのとは違うのだと気づいて──。自分の幸せを願ってくれたことのない人を、どうして好きでい続けられるでしょう、殿の心変わりの理由がよくわかりました。そして、心で妬む、怨むだけで罪なのだと悟ったのです。恨む心が生霊を産み、取り憑いた相手に実害を及ぼすのですから」──


 女性はオルガンティーノにそう語ったというのだ。

「恋をしたら、相手にも自分を好きになって欲しいと願ってしまうのは、当たり前の人情ではないのですか」

 三蔵はまだ若いが、そのような経験でもあるのだろうか、反論すると、オルガンティーノは穏やかに微笑んだ。

「女性を見兼ねて、女性のキリシタンである友がデウスの御教えを語ってあげたそうです。それで、女性は随分楽になったそうですよ。『他のつまを恋すべからず』──心に響いたそうです。他人の妻を心で思うだけで罪。実際に姦通していなくとも、心で思うだけで罪なのですが、女性は全くその通りだと思ったのです」

 他人の妻。自分のものにはならぬその人を、実際に抱いたわけではなくとも、心で犯したならば、同罪だという。

 三蔵には理解しがたい論理だが、その時のその女性には納得できた。

 決して自分のものにはならない相手だからこそ。他人のものだからこそ。その人を心で抱き、自分を愛して欲しいと願えば、叶わぬ現実に、やがてその愛著は妬み、怨みに変じて、生霊を生じさせてしまう。

 生霊はとり憑いた相手に悪を行う。不運や不幸を招かせ、病ませ、時には命さえ奪う。

 南蛮でも日本と同じように、大昔から、嫉妬の恐ろしさは語り継がれてきたのだろうと、女性は理解した。

 そして、もっとキリスト教のことを知りたいと思った。そうして、オルガンティーノのもとにやってきて、苦しみを告白し、その教えを請うたのだ。

「……心で思うだけで罪……なのですか。相手を怨み、呪えば、その念が相手に不幸を与える。なれば、行動しなくとも、心で思うだけで、行動したのと結果は同じですものね」

 ずっと黙っていた冬姫が、少し怯えたような表情を浮かべていた。情念の恐ろしさ、それはまだ冬姫には無縁のものだが、いつか自分もそのような物に我を失ったりするのだろうかと、震える。

 人の大罪科は七つ、驕慢、貪欲、邪淫、瞋恚、貪食、嫉妬、懈怠だという。

「その女性は、我々の教えの、見返りを求めない愛というものに感じ入られました」

 愛されたい、愛して欲しい──ではなく、自分が愛するだけ、慈しむだけ。


──「殿の幸せを願う、殿のために尽くしていきたい、私もようやくそう思えるようになりました」──


 女性は受洗して、そう言ったのだという。まさに憑き物が落ちたようだった。

「ぱあっと、周りの空気の色まで明るく、違って見えたそうです。体調も良くなり。女性は救われました」

 女性はキリシタンとなったが、夫は仏教徒のままである。キリシタンでない夫に、キリシタンのように側室を持つなとは言えない。だから、女性は武将の妻として、夫がキリシタンを目指す日までは、その女を認めようと決意した。

 側女のことを、共に夫を守り、幸せにしてくれる同志と思うことにした。最初はなかなか難しかっが、言霊の力を信じて、かの人は同志だと言い続けるうちに、女性の執念は消えて行った。

「そうですか……同志と思えるようになるのは、至難の技でしょうなあ」

 生霊になるくらい嫉妬深い女性がと、三蔵は吐息をついた。

「ええ。だから私は女性に、許すことの大切さを伝えました」

 オルガンティーノは他にも沢山、夫の側女に苦しめられる女性達を見てきた。彼女達には、先ず許すことを教えていた。

 自分の敵を愛せと。自分を憎む者に親切にせよ。自分を呪う者を祝福し、自分を辱める者の為に祈れと。

 件の女性は、「殿の裏切りと、私から殿を奪ったその人の行いを許します」と、そうすれば、彼女の生霊も霧散してくれるかもしれないと願って、誓った。

「でも、そうは言っても、心から許すことなんて、人間、そう簡単にはできません。それもそのはず、人間は誰しも生まれながらに、その七つの罪の感情を、心の中に持っているからです」

 キリスト教では嫉妬、怒り等の感情を罪としているが、人間はこれらを先天的に心に持って生まれてきている。だから、相手を許すことができない。

「でも、主イエズスは人間の罪を許して下さったのです。ご自分を十字架に架けた人をお許しになったことで、人間の罪は許されました」

 そして、その女性も許される。女性の心に生まれながらにある、その罪を──。だから、女性も他人を許さなければならないのだと。

 オルガンティーノから教えを聞くようになって、少しずつ心も穏やかになって行き、女性もついには許せるようになったのだという。

 不意に、庭の信長がオルガンティーノを呼んだ。ビオラ・ダ・ブラッチョを弾けなどと言って、手招きしている。

 オルガンティーノは冬姫と三蔵に頭を下げると、庭に降りて行った。

 部屋に二人残され、三蔵は苦笑を浮かべている。

「……それがし、そもそも人を恋うる心自体は清らかなものであると、聞いたことがございます。認められたいという心、男女交合の恍惚境さえも清らかなのだと。一方で、それらが煩悩とされるのは、その感情が過ぎれば、それが執着となるから。執着になった時、煩悩となるのだと」

 向上心が煩悩ではなく、逆に良いことであるように、人を好きになる心は清らかであるはずだ。

 キリスト教でも、邪淫の心は罪とされるが、「愛しなさい」と説く。

 本来清らかな感情であるはずの恋心。

 愛とは──。

 仁だ。慈しむこと。

 好きになった人の幸せを願い、その人を慈しむのは、煩悩ではない。自分を好きになって欲しい、そう相手に見返りを求めた時に、煩悩の苦しみの扉は開かれるのだ。

 そして、見返りを求めても与えられず、好きな人の心は自分とは別な人に向けられ、その愛執は、嫉妬や憎しみ、怒りとなる。怒りの念が、相手も自分も傷つける。

 だから──。

「なるほど、心で思うだけで罪、か……」

 女の三毒を救うのがデウスであるならば。

「女人の方がキリシタンが多いということが、良くわかりました」

 三蔵は笑って頷いた。

 一夫多妻はあるが、その逆はない。日本に於いて、嫉妬で苦しむのは女人ばかりだ。

「まあ、男にだって、悋気、執着はあるのですよ」

 三蔵がかつて仕えたお市御寮人や、目の前の冬姫のような美貌の人の周囲は、きっとそうだ。

(忠三郎殿はどうなのだろうか?)

 三蔵は冬姫を見て、そう思った。

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