阿弥陀の救い
──第一第二の絃は、索々として秋の風、松を払って疎韻落つ、第三第四の絃は、冷々として夜の鶴の、子を憶って籠の中に鳴く、鶏も心して、夜遊の別れ留めよ──
白楽天の琵琶行に似た謡が聞こえてくる。まだ若く生っぽい声だが、なかなかに上手い。
庭の土を踏みしめながら、忠三郎が口ずさんでいるに違いなかった。
冬姫は縁に出てみた。忠三郎の姿はない。しかし、声は近づいてくる。
「一声の鳳管な(は)」
応じれば、
──秋秦嶺の、雲を動かせば、鳳凰もこれに愛でて、梧竹に飛びくだりて、翼を連ねて舞ひ遊べば、律呂の声ごえに、情声に発す──
と返ってきて、木陰から忠三郎が姿を現した。
「声文を成すことも、昔を返す舞の袖、衣笠山も近かりき、面白の夜遊や、あら面白の夜遊や」
と、なお口ずさみながら、縁まで歩み寄ってくる。
「『経正』ですか」
冬姫は笑顔を作って迎えた。
年若い忠三郎には『経正』がよく似合う。木陰から現れた時など、本当に経正かと思えるほど雅びで、冬姫はどきりとした。
嫁いで間もなく五年。冬姫も成長し、忠三郎への意識も、自然、変わる。それに──
近く、良い日を選んで初夜となる旨、忠三郎の乳母から伝えられていた。忠三郎を見て冬姫が身を硬くするのも当然だった。
『経正』とは、平太政大臣清盛の甥を題材にした能のことである。
平経正は幼くして仁和寺に入り、法親王最愛の稚児となった──と、近年日本で熱心に布教する伴天連たちが聞けば、「悪魔の所業の典型たる衆道である」と呪い、憎悪しそうではあるが、キリスト教(耶蘇)を知らぬ平安時代末期においては、このような稚児は、殊に寺院では雅びだと、愛されたのだ。
経正は歌人で、琵琶にも秀でており、法親王は青山という仁和寺秘蔵の琵琶を授けていた。
しかし、経正は武門の生まれであり、戦場に赴くことは避けられない。仁和寺に青山を返上して戦場に下るも、一の谷の合戦で討ち死にした。
その経正のために、仁和寺で回向を施していると、経正の幽霊が現れた。弔いの有り難さに出てきたのだと言うが、声だけして姿は見えない。
夜半まで楽しく舞い遊ぶ幽霊だが、突如として修羅の苦しみが襲ってくる。苦しみもがくうちに、姿が見えてきてしまった。あらぬ姿を人々に見られることを恥じ、自ら灯火に飛び入り、火を消して闇に消えて行く。
そのような能である。
雅びな感じのする能ではあるのだが、珍しくシテ(主人公)が救われないまま終わってしまう。大概の能は、僧の念仏により、救済されて終わるのだが。
もっと荒々しい武者の霊でもそうだし、経正のようなやさしげな公達の霊でもそうだ。最後は救われる。だが、経正は修羅の苦患から救われない。
最近の忠三郎は、よくこれを謡っている。
「能ばかり謡って、冬姫さまのお父上さまに嫌われますね」
忠三郎がくすっと笑う。信長が幸若舞を好むのでそう言った。けれど、冬姫は笑わなかった。
「お帰りになってから……」
冬姫はその先の言葉を飲み込んだ。
信長が大軍を入れて、長島の一向一揆を殲滅させたのは、つい先日のことだ。
老若男女問わず、一向宗徒の民二万人を焼き殺したのだ。全滅させねば、幾らでもわき出して切りがない。しかも、降伏するというので許可すると、隠し持っていた兵器で襲いかかり、不意討ちしてきた。だから、容赦しなかったのである。
忠三郎が『経正』を口にするようになったのは、この戦から帰ってきてからである。
降伏を申し出てきた民を、幼い子供をも含む弱い者どもを、偽りの降伏とはいえ、容赦なく殺したことで、忠三郎は心に傷を負ったのではないかと冬姫は思った。
言いかけてやめてしまった理由を、忠三郎は察している。
彼は庭木へと足を向ける。そして、木に宿る綺麗な鶯を見つめた。
冬姫はさらに言葉が継げなくなった。すぐに、鶯をうまく捕らえた忠三郎が、得意そうにこちらを振り返ったからだ。
「まあ、すごい!」
歓声をあげる姫。嬌声というべきか。
忠三郎が冬姫の傍らに来て、そこに腰掛けた。冬姫は忠三郎の手元に目を細め、忠三郎は冬姫の喜びに悦ぶ。
「綺麗」
姫はそう言うと、楚々と一度部屋の奥へ行って、自分の打掛を持ってきた。それをそっと忠三郎の肩にかける。風が冷たい。
冬姫の匂いそのままを被り、忠三郎は胸が騒ぐ。それを紛らわすように、彼は彼女の目の高さに鶯を翳しながら、
「姫様の鞠の色と一緒ですね」
と頬を染めた。
信長が姫に贈った美しい鞠。信長が手にすると、すっぽり覆われてしまった。この世はその鞠のような形であり、唯一絶対なる神の手が、それを包み込んでいる──その鞠の糸に似た鳥の羽色。
忠三郎が包み込んでいた両手のひらを広げると、鶯はすぐに飛び立って行った。その羽ばたく姿の愛らしさに、冬姫は微笑む。忠三郎も空にとけ行く鶯を目で追いながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「修行しなければ成仏できないと聞くのに、信じるだけで救われる、一向宗は信仰が極楽へと導く。伴天連の教えと似ています。奇妙だなと思うのです。一揆勢は、躊躇わず戦えば極楽、引けば地獄と信じ込まされていました。戦って死ぬと極楽へ行けるのだと信じ込んでいた。そのような者を相手に戦うのはただ事ならぬ労苦を要します」
不気味過ぎたし、猛者を前にした時とはまるで異種のものだが、恐ろしかった。信長の命令を残忍とも感じない程に。
民にそんなことを信じ込ませた者の罪は重かろう。だが、宗教とはそういうものであるに違いないのだ。
「伴天連は自分達の神以外は認めませんから、きっと良き成果だと、父を褒めるでしょうね」
冬姫はため息をついた。忠三郎の体験をいくら想像してみても、その異様さは体験しなければわからない。
「伴天連の言うことに、肯けることがあるとすれば、仏教は宗派によって異教かと思えるほど違っていることです。まるで正反対なことが多いですから」
忠三郎は、信長が比叡山を焼き討ちした年、岐阜に来た伴天連達のしていた話を思い出した。
あの頃。
比叡山の焼き討ちは、実行した武将達の心に何かを残していた。
敵とは躊躇いなく戦えても、僧侶、庶民、女、子供を殺すことには抵抗がある。殊に僧侶は尊ばれるべき存在であり、実際大変な力を有していた。み仏に仕える聖職者を害することは、恐ろしい。
僧侶の多くが堕落した生活をしており、酒池肉林に溺れていたことも事実である。それでも、仏罰が下るのではあるまいかと怯える者もいた。
ちょうどその頃、イエズス会のフランシスコ・カブラル日本布教長が、伴天連ルイス・フロイス、伊留満ロレンソらを伴って岐阜にやってきた。信長は家臣達に話を聞かせようと、忠三郎や焼き討ちした皆を集めた。
伊留満(修道士)のロレンソは了斎という日本人。日本人の伴天連(パードレ・司祭)は未だいなかった。
とはいえ、伴天連達の日本語はたどたどしく、布教には日本人の力が不可欠で、ロレンソのような修道士が大きな役割を担っていた。信長の前でも耶蘇(キリスト教)の教えについて語るのは、専らロレンソだった。
ロレンソの語るところは立派であり、信長も、また周囲の家臣達も感心したが、必ずしもその場にいた全員が、その教えに感銘を受けたわけではない。
ロレンソは神による天地創造から、神がイスラエルの民に、預言者モーセを通じて与えた律法(十戒とその他の掟)、彼らが偶像を作ったことから神の怒りに触れたことなどを話した。若い純粋な小姓ほど、この神の怒りに怯えた。
「神は唯一ただお一人です。人間が偶像を作り、それを神として祀ることを最も憎まれます。また、偶像は人間が作り出したものに過ぎず、それは神ではないので、そのようなものに祈りを捧げても願いは叶えられず、何も奇跡は起きません。主なる我等の誠の神のみが成せるのです」
信長は頷き、
「坊主どもが俺の父の病を治すと言って祈祷したが、治らなかった」
と同意した。ロレンソは。
「もっともなことです。仏は神ではありません。釈迦はそもそも人間なのです。僧侶が拝む偶像には神力などありません。悪魔が甘言によって愚人に作らせたものです。神が最も憎まれる偶像は破壊しなければなりませぬ」
比叡山焼き討ちによる仏罰を恐れる武将達を、安堵させようとでもいうのか、焼き討ちはむしろ素晴らしいことだとでも言いたげに語った。
(僧侶を殺し、仏像を破壊すれば仏罰が下り、地獄へ落ちるかもしれぬが、この異国の神が、むしろよいことをしたと褒め、引き上げてくれるのだろうか?)
忠三郎は天上の世界はどうなっているのだろうかと思った。仏とこの異国の神が絶えず争い、八百万の神々がそこに加わって、死闘を繰り広げている。そんな光景が脳裏に浮かんだ。
忠三郎はこの時まだ、この異国の神以外の神仏全てが、人間が作った偽物なのだというロレンソの話を理解していなかった。八百万の神々も仏も存在せず、故に神仏の神通力などもない。存在する神は唯一この異国の神のみなのだということを。
「真言宗は大日如来は森羅万象であり、修行して、それと融合できるようになることで、成仏できると説いています。一方で、阿弥陀を信仰するだけで救われ、極楽へ行けるという宗派もあり、南無阿弥陀仏と念仏を唱えよとか、同じ釈迦から出た一つの宗教とは思えぬほどに、教えることが違います。宗派が違うと、まるで別の宗教です。その理由は。仏教は人間が考えたものだからです。人によって解釈が変わるのです。しかし、我等の主なる神の教えは、誠の神が教え下されたこと故、我等の中で別なことを言うものはありません。皆一様に同じ教えを説き、その教えを守ります」
ロレンソの説明に、信長は皆を見回すと、にやりと笑った。
「日本の国土を作った伊邪那岐について、どう思うか?」
「彼は日本の神話の中で、日本に最初に住みし人間です。日本の神は、各氏族の祖先を神格化して、己が血統の格を上げんがために作られたものです」
つまり、皇統も人間だと言っているのだ。
「イスラエルの最初の王は、その民の中から神によって選ばれしサウルでした。次のダビデも神が選び給い、油を注がれし人でありました。国王は人です」
忠三郎はさすがにまずいのではないかと思った。公家衆の耳に入ったら、信長にあらぬ疑いがかけられよう。帝に関わることには触れてはならないと思った。
(いや、宝誌の予言の詩……)
東海姫氏国は百世しか続かないという予言と関係しているのだろうか。そんなことさえ思ったものだった。
ロレンソが仏教は宗派によってまるで異教だと指摘していたことを忠三郎が口にすると、冬姫は頷いた。
「経正は優しげな人でしたのに、戦に赴き、殺生したが故に、修羅の苦しみに悶えることになりました。殺生したら極楽へ行けるという一向宗門徒とは正反対ですね。阿弥陀様への信仰が救いですから、殺生しても、阿弥陀様さえ信じていれば極楽へ行けるということでしょうか?」
「そこです。私が近頃考えていることは」
一向宗は悔い改めもせず、極楽へ行けてしまう。
一方、能の主人公達は皆、一度は修羅道にて苦しめられる。
(この身もきっと地獄へ行くだろう。これだけ殺生してきて、極楽など有り得ない)
忠三郎は懐から、あの銀の阿弥陀像が入った彫漆の厨子を取り出した。常に懐中にあり、戦にも持って行っている。
「阿弥陀仏か。不思議なみ仏ですね」
蒲生家は浄土宗である。一向宗同様、阿弥陀を本尊としていた。
冬姫は厨子の中の阿弥陀像を眺める忠三郎を見つめてしまう。
一度は修羅の苦しみに悶えても、最後は僧の念仏の力により救われる能の主人公達。それなのに、救済される前に自ら去ってしまう経正を、あえて選んで謡う忠三郎の心境を思わずにはいられない。
忠三郎は、自分の罪が法力如きで許されるほど軽くはないと思っているのではないか。
不意に忠三郎が冬姫の膝に阿弥陀を厨子ごと置いた。
「私の夢だと言いましたが、これは姫様にお返しします」
冬姫は頭を振った。
「阿弥陀様を信じれば、救われるのでしょう?戦に行かれる忠三郎様を助けて下さるはずですから──」
冬姫は戦に赴く忠三郎の身に不安を感じることはないが、戦場に身を置く彼の心を案じた。彼が苦しんだら、傷付いたらと心配で。救ってあげたくて。
姫は阿弥陀を忠三郎の手に返そうとした。だが、彼は手を差し出さない。
彼女は息を飲み込み、意を決して、彼の手に触れた。嫁いで数年経つが、忠三郎に触れたことが一度もなかった。
彼の手は想像以上に堅く、その肌は熱かった。びっくりして、思わず引っ込めてしまいそうになったが、堪えて、そっとそれを持ち上げ、厨子ごと阿弥陀像を握らせる。
冬姫の肌は、以前、忠三郎が岐阜でその足の感触を想像した時のままに、いや、その時の想像以上に滑らかで柔らかい。もうすぐ初夜だという意識もあって気がゆるんだか、堪えきれず、彼は彼女を抱きしめていた。
忠三郎はあまりに熱すぎた。その熱に、全身茹で上がったように真っ赤になり、冬姫は息を忘れる。
その時だった。いったい何の用があるのか、庭に忠三郎の乳母が現れた。が、目にした光景にびっくりし、持っていた笊を放り投げてしまった。
忘我の忠三郎、だが、はっとして姫から離れかける。その瞬間、彼の目は笊の薬草が宙に舞うのを捉えていた。
「し、失礼しました!」
気まずい。
乳母が背中を向けたまま、そそくさと薬草を拾う。
「で、では失礼致します!」
去りかける乳母の背後で、
「……え?姫様?」
忠三郎が驚いて声を上げた。
乳母はそのままの姿勢で、
「何事でございましょう?」
「姫様が……気絶した……」
「えっ!?」
振り返り、忠三郎の腕の中を見ると、確かに秋の時節の石蒜(彼岸花・壱師)みたいに、顔を真っ赤にした冬姫がぐったりしている。他人に見られて恥じたか、忠三郎にびっくりしたか。
「若様、強引なのはよくありませぬ」
「ち、違っ!そなたが急に現れるから、びっくりなされて……」
「はいはい」
乳母は非常に慣れた様子で忠三郎の口答えに応じながら、冬姫を横たえるための褥を部屋に敷くべく、上がってきた。
乳母が支度する間、気絶している姫の身を抱きながら、それでも忠三郎は無我夢中で彼女の睫を見つめていた。彼女の初々しい純情が、愛しくてならない。
彼女とまことの夫婦になれるその時は、どんなに素晴らしい、感動するだろう。
彼は再び銀の阿弥陀仏を懐中に持つことになった。
それから幾らも経たない雪の夜、二人は真実夫婦になった。
清らかな雪が庭にうっすらと積もっていた。夜には雪はやんで、月明かりによって庭は輝き、辺り一面常より明るく見えた。
夜着を身にまとった冬姫は、先に寝所で待っていた。よく整えられた寝具に、枕が二つ並んでいる。もう無理と心の中で叫んで、姫は逃げるように寝所を飛び出した。
雪の外は驚くほど冷たい。しかし、その冷たさが、体を落ち着かせる。心臓の鼓動が速すぎて、かなり気分が悪くなっていたのが、すっきりしてくる。気持ちのよい寒さだった。
ようやく呼吸ができた時、
「冬姫様!」
呼ばれて、びくっとする。
振り返らなくても、忠三郎だとわかる。すぐ側に彼が立った。
彼が来たことにも気付かなかったとは。
忠三郎が黙って姫を見つめているのが、気配でわかる。逃げようとしたのかと尋ねられるかと思い、何と答えようかと考えているうちに、忠三郎が一歩踏み出してきた。もう二人の間に一歩の距離もない。
「もう気を失われてはならぬ」
言うと彼は冬姫を抱き上げ、閨の中に消えた。




