一向一揆
天正二年(1574)七月。信長は長島の一向一揆を片付けるべく八万超の大軍で出陣した。
一揆勢は長島、篠橋、大鳥居、屋長島、中江に分かれて立て籠っている。織田軍は八月三日に大鳥居、十二日に篠橋の砦を落とした。残りは三つの砦。
戦場の長島一帯は木曽川、揖斐川等の河口で、幾重にも連なる水路、点在する島々、輪中の中に、砦が築かれている。辺り一面水ばかり、そこから海へと繋がっている。
その土地柄から、一揆勢は水を得意としており、彼らの重要な補給路は海であった。
じくじくとした湿地でもあり、そこかしこ水で溢れているので、織田軍がまともに攻めて行っても、水に沈み、泥濘に足をとられ、その間に返り討ちにあう。そして、一揆勢はさっさと水の中の砦に帰る。これまで、織田軍は攻めて行く度、煮え湯を飲まされていた。
だから、兵糧攻めが最も適していた。陸海四方を包囲して、一揆勢の補給路を絶ち、一揆勢を餓死させるのである。
伊勢には有名な九鬼嘉隆がいる。それらの水軍が安宅船などの大船で海からやってきて、河口を封鎖した。さらには大湊からの船団や、数多の小舟も乗り入れている。河口の封鎖は万全。
陸海四方を封鎖し、一揆勢の補給路を完全に断ったから、辛抱強く持久戦で行く。だが、一揆勢の食糧が尽きるのをただ待っているばかりではない。安宅船からは一揆勢の砦に向かって、大筒が撃ち込まれ続けた。
そうしているうちに、やがて、確実に兵糧攻めの効果が出てきた。
籠城する一揆勢は次第に痩せて行き、ついには織田軍に討たれた仲間の死肉をも食べ始めた。
二ヶ月半もの兵糧攻めが続くと、餓死者が出てくる。一揆勢の首領の顕忍(佐堯)さえ、粥一啜りしていない。どうにか生きている者も空腹に堪えきれずに、ついに一揆勢は長島開城を申し入れてきた。
「いいだろう」
許可した信長の目に、一揆勢は骸骨に見えた。
一揆勢は丸腰であることを条件に、城から退去することが許された。
やがて、城から出てきた一揆勢。小舟に乗って、長島城を去りかける。
「放て!」
突如、信長が攻撃を命じた。次々に鉄砲が放たれる。
「おのれ、騙し討ちとは卑怯なり!」
一揆勢は激怒して、織田軍に躍りかかってきた。たちまち織田軍に血飛沫が舞う。
「何が騙し討ちか!うぬらこそ丸腰ではないではないか!開城なぞ、討って出るための口実、その手には乗らぬぞ!」
確かに、一揆勢は丸腰ではなく、皆衣服の下に武器を隠し持っていた。六千もの一揆勢が、織田軍を次々に仕留めて行く。
信長の兄・信広、弟・秀成、叔父の信次はじめ、幾人もの親族が討ち死にした。信長の身内でさえかなりの犠牲が出ているのだから、各武将の下にいる兵、小者に至るまでの犠牲は数知れず。
二ヶ月半もの兵糧攻めで餓死者が続出し、生きている者は骨と皮だけで、歩くのもやっとでありながら、一揆勢のこの強さは異常だ。
信仰に生きている者の狂気であろう。進めば極楽と信じきっているので、死への恐怖が全くない。いや、退けば地獄──死に物狂いで戦わなければ地獄に落ちると信じ込み、地獄への恐怖に抗って戦っているからこその強さだろう。
織田軍をさんざんに打ち負かした末、一揆勢は討ち死にしたり、逃亡したりした。
一揆勢の首領の顕忍はまだ子供だが、長島城を出て船に乗ろうとしたところで、織田軍に撃ち抜かれて死んだ。
顕忍が死んだとはいえ、織田軍のこの散々な有り様。
そのまま戦い続ける信長ではなかった。
「一揆勢を焼き殺せ!」
残りの屋長島・中江の二ヶ所には幾重にも柵を巡らせ、火をかけさせた。そこには二万もの門徒衆がいたが、全て紅蓮の炎に包まれ、焼け死んだ。
彼らを飲み込む火。まるで地獄の業火業風が吹き抜けたよう。一揆勢のその苦患の姿を、信長は閻魔大王のように眺めていた。
だが、信長のその凄絶な瞳孔にぞっとした者がないほど、織田軍も怒り狂い、精神が崩壊していた。それほど一揆勢が異常に見え、恐怖だった。
大量殺戮はこうしてようやく終わった。後には夥しい名もなき庶民の髑髏が転がっていた。
信長は遂に伊勢長島の一向一揆を片付けた。一揆勢との死闘は筆舌に尽くしがたいものだった。
今回、蒲生軍は先の大鳥居城攻めに加わっていた。忠三郎は松木の渡しで一番乗りを決めた。また、敵の剛の者と組み合い、その首を獲った。
一番乗りは誉れである。豪傑の首を上げるのもまた栄誉であり、普通は褒められ、褒美を与えられる。
しかし、軽い大将めと信長は、大将としての自覚がまるでないと言って褒めなかった。
自ら敵の首を獲った忠三郎に、何でもかんでも突っ込んで行けばよいものではない、首を獲るのは下郎のすることだと叱った。
蒲生軍の強さは、大将自らが先陣切って突っ込んで行くことにある。大将が安全なところにいて後方から命を下すよりも、先頭にいた方が、兵の士気が上がるからだ。
蒲生家伝統の戦い方だ。そのため、蒲生家は何代も前から、かなり強い軍団として、近隣にその名を知られている。
だが、その戦い方だと大将が死ぬ確率が上がる。大将が討ち死にした軍は危機に瀕する。
「此度の戦は、織田一門も多数討ち死にした。さような泥沼の戦なのだ。後ろで指揮していたのに、皆死んだのだから、大将が先頭を疾走したら、死ぬるは必定。また、戦によっては、大将が討たれたならば、大将の弔い合戦だと、味方が息巻くこともあるが、此度の戦はそうやって息巻いて攻めれば攻めるほど、泥沼に陥る。そういう戦だったのだ」
何故、手柄を立てたと褒めなかったのか、逆に叱ったのか。
心配なのだ、死んで欲しくないのだとは信長は口にはしなかったが、聡明な忠三郎ならば、理解できるだろう。後方で指揮していても、身内が次々に討ち死にしたような戦。真っ先に駆けて行く娘婿に、はらはらした。
しかし、忠三郎の無茶には理由がある。
(御屋形様から下された命以上のことをして、それが御意にかなっていて、初めて使える奴だと思って頂ける。どうすれば、御屋形様は喜ばれるか、御屋形様は何をお望みか……)
忠三郎なりに熟慮した結果だったのだ。
小姓として仕えた経験から、信長が家臣に求めることがだんだんと見えてきていた。
信長という人間は、多くは語らない、端的に命令を下すだけだ。その命令通りに働いただけの者には、不満を抱く。そのことに気づいている家臣は実は少ないが、忠三郎は察している。その察しが間違いでないことは、信長の機嫌を窺えば明らかだ。
命令を遵守しただけの者に対して、目の奥だけで苛立つ。その瞳の奥の、堪えに堪えている癇癪に、小姓だったからこそ忠三郎は気付くことができた。
その命令から、それ以上の成果をあげられる者だけが、初めて使える者と認めてもらえる。
信長は、出された命令以上のことを自発的に行うことを、家臣たちに求めた。いや、人間とは皆、普通にそうするものと信じた。
──と、忠三郎は信長を分析している。
信長の女婿がやらないであろうことをやってこそ、その地位に甘んじず下卒の働きをして、あっと驚かせてこそと忠三郎は思ったのだが。信長の愛情が逆の評価をもたらした。
改めて、信長の心理を知ることは難しいと思った。ついて行けるであろうか。
信長の目指すものさえ忠三郎にははっきりとは見えていないのかもしれない。ただ、それを実現するためには、たとえ民であっても殺し尽くさなければならないのだとは思っている。
以前、比叡山への報復として、信長が焼き討ちを行った時、忠三郎は頭が真っ白になるほど驚愕し、恐怖におののきながらも、信長のその凄絶な覚悟を悟った。
ここまでしなければ、信長の目指す世は実現できない。倒幕しただけでは到底実現に程遠いのだ。
だから、一向宗の二万人もの民を共に殺戮し尽くした。それは偏に信長を信じたが故。忠三郎は信長への真っ直ぐな尊敬を胸に、生きていたのだ。
まだまだこれから先も数千数万の人間を殺さなければならないだろう。信長の見ているものが見えず、悔しい悲しい思いを数知れずするだろう。若い彼には未だ信長の描いている日本の未来像は見えていない。それを口で教える信長でもない。
天下静謐、信長の天下布武の、以前教えられた武の意味さえわからなくなってきた。見えず、わからず、もがきながらも、それでも信長に是が非でもついて行きたいと、忠三郎は切に願っていた。




