天つ正しき
京で和議が成った頃、南近江では一揆が起きた。一揆は義昭のために起こしたものであろう。柴田勝家や丹羽長秀の留守というのもある。
一揆勢もまた義昭同様、武田信玄の西上を信じていたのだ。
四月七日に和睦に応じた信長は、ゆっくりと近江へ向けて動き出していた。一方、柴田勝家、丹羽長秀らはすぐに近江に入り、草津、守山とどんどん進んで、一揆の鎮圧に乗り出した。
一揆の首謀者は六角義治である。義治は鯰江城に籠城しているため、織田方はそこへ仕寄る。
まずは鯰江城の補給路を断つ必要がある。荷止め人止めし、道を封鎖して、完全に人の往来を遮断した。
城攻めする柴田軍の中に、蒲生賢秀・忠三郎父子もいる。
鯰江城の東南には愛知川が流れ、天然の堀の役割を果たしている。また、城全体守りを鉄壁に施していた。
「攻めるとすれば、隙のある北の搦め手からです。されど、搦め手を攻めれば、その背後の百済寺から挟み撃ちに遭いましょう。そうして我等が苦戦している隙に、討ち漏らしてしまった敵は君ヶ畑越えにて、やすやすと逃走してしまうでしょう」
鯰江城の川下側に到達した柴田軍の中で、忠三郎がそう進言した。賢秀はそれに頷いている。
鯰江城の搦め手には、少々隙がある。というのも、そちら側には百済寺があるからだ。百済寺からは鯰江城へ物資の供給がなされていた。また、そちら側から君ヶ畑越えに抜けることができる。
柴田勝家は眉をつり上げ、大きく鼻から息を吹き出した。
「一揆勢は、百済寺にも集結しているので?」
「左様でありましょう。その百済寺は鯰江城を支援しております。鯰江城を包囲して、物資を完全に断っても、百済寺から武器、兵糧、人員が調達されます。百済寺は相当な規模を誇る大寺院。この寺が後方支援をしている限り、鯰江城は二年でも三年でも持ちこたえましょう」
百済寺は天台宗の巨大寺院である。僧兵もおり、相当裕福だ。しかも、城の構えをしている。
忠三郎の指摘を受けて、勝家は困惑した。
「では、いかにする、大手門から攻めるので?」
「先ず百済寺から攻め、後顧の憂いを断ってから、鯰江城を搦め手から攻めましょう」
と忠三郎は答えた。
忠三郎は信長の婿である。寄親とはいえ、勝家には少々遠慮もあるようだ。忠三郎は思いきって願い出てみた。
「厚かましいお願いでございますなれども、我ら蒲生は地元にて、地形も心得ておりますれば、百済寺攻めを我らにお命じ頂きとう存じまする」
「承知した、先陣をお願い致す」
勝家は快諾した。
自軍に下がってくると、賢秀は忠三郎に訊いた。
「百済寺は巨大な伽藍を有している。苦戦が目に見えているが、どのような手を考えているのか」
「簡単に片付ける方法です。鯰江城への兵糧も失わせることができる、一挙両得の策です。それもとても単純です」
「む。火計か?」
「そうです、簡単でしょう?」
賢秀は頷き、百済寺の焼き討ちに取り掛かったのであった。
四月十一日。
蒲生軍が百済寺へ火をかけ、攻め込んで行く。伽藍を全て、小さな祠さえ残さず、灰にしていく。跡形なく──。
まるで比叡山焼き討ちの再現である。以前その対岸の惨事を、他人事と眺めていた百済寺であったが。
この蒲生軍の攻撃には僧侶たちも一揆勢も驚いて、ろくに戦いもせずに四散した。だが、蒲生軍の目に触れた者は、武運つたなく刃の餌食となった。
そして、激しく燃えさかる紅蓮から、やがて百済寺の全伽藍が灰へと化す頃、勝家によって鯰江城への攻撃も開始された。
搦め手より攻めかかる。百済寺から引き上げてきた蒲生隊も加わり、およそ四千の軍勢となった。
百済寺があったからこそ、搦め手は脆弱ではなかったのだ。その頼みの百済寺がなくなれば、ただの弱点に過ぎない。
堅固で難攻不落を誇った鯰江城も、ひとたまりもなかった。搦め手からの敵の侵入を許し、城の多くを破壊され、落城は時間の問題となった。
暗くなると、寄せ手の攻撃は一旦止んだ。だが、夜襲を仕掛けるかもしれないし、一夜明ければ、必ず攻撃は再開される。
次の一手で最後。六角義治はそう悟った。
義治は、城を枕にというつもりはない。六角家の家名存続のためにも、必ず生き抜かなければならないと信じる。最後の一戦を前に、落ちることにした。
逃げ名人の義治は、その最適の時を完璧に捉えていた。
石榑越えあたりを使用したのだろうか。多くの城兵を残したまま、義治はこっそり城を落ちて行った。
義治が逃げる間に、残った城兵が柴田軍と戦う。城兵が柴田軍を引き付ける役目を果たしてくれることになる。その隙に随分遠くまで、逃げて行ったのだった。
こうして、鯰江城は落城した。四月十二日。百済寺焼き討ちの翌日のことである。
六角家が南近江の統治権を失った、永禄十一年秋の観音寺城の戦いより、五年弱。ついに、近江国内に唯一残っていた六角方の拠点が消えてなくなった。近江から六角家が完全に消えた瞬間である。
その織田家にとっての記念すべき一日。元亀四年四月十二日は、超大物・武田信玄の死去した日でもあった。
六角と武田。偶然にも二つの宿敵が、織田家の前から同じ日に消え去ったのであった。
忠三郎の百済寺での活躍は、信長を大いに喜ばせ、満足させるものであった。
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甲斐の大物・武田信玄の死は、本人の遺言により極秘にされていたが、その情報は漏れていた。徳川家康によって、信長のもとにも伝えられている。
後顧の憂いがなくなったので、信長は佐和山に向かった。丹羽長秀に命じて、大船を作らせるためである。京に攻め上る準備だ。
上洛するのにこれまでは、佐和山、安土、守山、草津等を通って大津へ、そしてようやく都へと到達していた。だが、先年、堅田、坂本など、琵琶湖の対岸を手に入れることができた。
つまり、琵琶湖を船で渡れば、大幅に時間短縮できる。
兵を輸送するための大船。それを信長は作らせていた。
ちょうど信長が船を作り始めた五月、将軍・足利義昭に動きが見られた。
義昭は朝倉義景、本願寺の顕如に御内書を送りつけた。武田信玄の死をまだ知らない義昭は、それを信玄にも出している。すなわち、信長討伐を命じる御内書である。
七月三日、義昭は遂に挙兵した。
二条御所を日野輝資、高倉永相、伊勢貞興、三淵藤英らに守らせる。そして、義昭本人は宇治の槇島城に入った。
明智光秀がすぐにそれを信長に報告。信長は七月六日、完成した大船に乗って佐和山から坂本へ一気に渡った。
そして、柴田勝家に先陣を命じて、二条御所を囲ませた。大軍に囲まれ、義昭不在の二条御所は、なす術なかった。
間もなく京に到着した信長自身が、二条衣棚の妙覚寺に陣を構え、三万の大軍で御所を囲む。
妙覚寺はその昔、濃姫の祖父・長井新左衛門尉が、美濃に移る前に僧侶として入寺していた所である。その関係もあってか、斎藤家の菩提寺である岐阜の常在寺は、妙覚寺の末寺であった。
信長がやって来ると、主不在の二条御所はすぐに降伏した。
織田軍は幕府の終焉を喜び、勝鬨を上げ、十六日には義昭が籠る槇島城へ向かった。その数、七万である。
一方、義昭はたった三千七百。
槇島城は、宇治川が本流と支流に分岐する中洲部分にあり、西には巨椋池が広がっている。水に囲まれ、なかなかに難攻不落である。とはいえ、兵力差があり過ぎた。
開戦は十八日の早暁であったが、織田軍の猛攻で、城は僅かの時間にみるみる落ちていく。あっという間に本丸まで落ちる寸前に陥った。
義昭もさすがに観念し、二歳の息子を人質に差し出して、降伏したいと申し入れてきた。
「命だけは助けて下され!出家する、都も出て行く、それゆえ……」
何としても生きていたい。それが義昭だ。
この期に及んでも、死一等だけは免じられたい。いや、免じられなければならない。
この生への執着は、どこか六角承禎・義治父子に似ていた。名門の共通点だ。いや、名門なればこそか。
力などなくとも、その身一つだけで価値がある。存在自体が宝なのだ。
命さえあれば、全てを失っても、必ず誰かが保護し、旗印にする。その者の希望になるのだ。
身一つしかなくても、義昭の行く場所が幕府なのであり、彼は武士の主たる将軍なのだ。
己の死は世の損失である──義昭はそう信じる。
義昭は出家した。そして、幼い我が子を人質に差し出した。
明智光秀、細川藤孝などはもとは義昭に仕えていたが、見限り、今は信長にのみ仕えるようになっていた。それでも、彼らの思いは複雑だろう。
倒幕。
これが今まさに現実として、目の前で成ろうとしている。
倒幕というもの、将軍に成り代わるということが、どれほど大それた難しいことか。
どんなに暗愚でも、史上最低の暗主でも、いざとなったら、それを討った正義が、ただの返り忠者と見なされるものだ。
返り忠者に従う者はいない。不思議なことに、世の中とはそういうものだ。
腐っても将軍、それを飾って、名ばかりの幕府を残し、天下を掌握する方が楽だろう。そうした体制を数十年続けた末、将軍から禅譲されるのが最も楽な方法なのかもしれない。だが。
この日、足利尊氏以来二百三十年以上続いた幕府は終焉を迎えた。
義昭は都を追い出された。
荊棘の道を行く信長の手で、倒幕は成し遂げられたのであった。
しかし、信長が義昭を殺さなかったことは、忠三郎には全く理解できないことだった。
(唐土の易姓革命では、前王朝の天子を殺さないで、地方に追いやることはよくあるけど……あの公方みたいな人間は、新しい天下様に謀叛を企むと思うが……)
若輩の自分には計り知れないと、忠三郎は悩んだのだった。
義昭は将軍職のまま追放となった。都を追われた将軍は過去にも何人かいた。また、都に足を踏み入れたことのない将軍もいた。義昭にしてみたら、己の身はそれらの将軍達と同じものと思えたろう。だから、義昭は落ち着いた先・備後鞆からなお御内書を出し続けることになる。
忠三郎の疑問は的を射ていたと言えるかもしれない。
いずれにせよ幕府はなく、将軍職のままとはいえ、義昭もいなくなった。義昭に代わる将軍も立たない。
数日後の七月二十八日、元亀から天正に改元された。以後、元亀四年は天正元年となる。
天正は以前から信長が希望していた元号であった。
だが、永禄の後は元亀になった。永禄の終わりに、信長の出陣中、義昭が勝手に元亀にしてしまったからである。義昭の手による改元を渋り、また新しい元号には天正を望んでいた信長には、不愉快なことだった。
改元は権力の象徴である。だからこそ、以前の義昭も己を誇示するために、自らの提案である元亀を強行したのである。
そして、今は信長が天正に変えた。
義昭を追放し、幕府を滅ぼした信長が、即座に改元したということは、信長こそが武士の頂点に立つ者だということを、天下に知らしめたことになる。
朝廷は信長を頼りとした。
この信長の存在感に対して、敵の足並みが乱れたことは事実だろう。
これは敵わぬと、織田方に寝返る者が出た。阿閉貞征である。改元から僅か数日後の八月七日のことだった。
阿閉貞征は北近江の浅井長政の家臣で、山本山城主である。この織田家への寝返りは、横山城の木下藤吉郎秀吉の調略もあってのことであった。
信長は即座に出陣して、九日に浅井方の月ヶ瀬城を奪い、十日には浅井家の本拠地・小谷城の近くにまで迫った。その数、この時点で三万を超えている。
一方、浅井軍は五千ほど。浅井長政は朝倉義景に援軍を要請した。
十二日、朝倉勢二万が越前から出てきた。
その間、信長は越前と小谷城との通行を遮断できる山田山に陣を布いている。
朝倉軍は余呉、木之本まで進軍してきた。
朝倉勢が来ても、浅井方の離反は続いている。それを見て朝倉義景は何と思ったか、臆病風に吹かれたか、はたまた浅井を見限ったのか、翌日、夜陰に紛れて撤退してしまった。
だが、信長はそれを読んでいた。信長自身が、追撃を開始する。
退却を開始した途端、突然、思いもよらず織田勢から追い討ちをかけられたのだ。朝倉勢は大混乱に陥り、競って逃げて行く。
もはや収拾がつかないほどだ。背中を見せて逃げる敵を仕留めるのは容易い。織田軍は面白いように敵を狩ってゆく。
十八日には、織田軍は越前の府中にまで至っていた。朝倉家の本拠・一乗谷はすでに織田軍の攻撃を受けている。
義景は信長が府中にいる間に一乗谷城から出て、山田庄六坊賢松寺に逃げ込んだ。
ところが、ここで一族の朝倉景鏡に騙し討ちに遭い、義景は自害して果てた。ひどく呆気ない最期だった。
八月二十日。朝倉氏はこうして滅亡した。
朝倉が滅べば、残るは浅井である。織田軍は二十六日には近江に戻っている。信長は小谷城を目前に望む虎御前山に着陣した。
いよいよ決戦である。
小谷城の本丸の北側には、長政の父・浅井久政の住む京極丸がある。二十八日、織田軍はここを攻めた。小谷城は刻一刻と追い詰められて行く。
浅井長政は信長の妹である妻のお市御寮人と三人の娘達を信長のもとに送った。信長は妹や姪をあたたかく迎える。
戦の行方は。先ず浅井久政が自害して果てる。本丸が落ちるのも時間の問題となり、翌日の八月二十九日、長政は最後の決戦に及んだ。
本丸に兵五百。
信長自身が率いる織田軍が本丸に迫り、浅井軍を殺戮して行く。
長政は最後の一人になるまで戦い、城と命運を共にできることを喜んで、本丸の中にある赤尾屋敷に入った。そこでついに自刃した。二十九歳であった。
浅井家もついに滅亡した。
南近江に続いて、北近江も織田家のものとなった。とうとう信長は近江一国丸々我が物とすることができたのである。
織田家の領地はこうして京の都に接することになった。
信長は小谷城周辺の北近江の支配を木下藤吉郎秀吉に任せ、また、長政の嫡男の万福丸を殺すよう命じると、お市とその所生の娘たちを連れて、岐阜に向かった。
お市腹の長女は父・長政によって、本願寺の顕如、教如父子の幼名と同じ茶々と名付けられていた。




