桜花
北近江の浅井長政のもとへ、ようやくお市が嫁いだ。
先年にも持ち上がったお市の縁談。しかし、その時にはまとまらず、今回足利義昭の鶴の一声で決まった。そして、数日前にお市は輿入れしていった。
輿入れが決まった時から、その準備等で忙しない日々が続いていた織田家だったが、濃姫はようやく人心地つく。
濃姫は織田信長の妻。つまり、お市の義姉である。
濃姫とは美濃の姫という意味だが、彼女は斎藤道三の娘であった。
尾張を統一し、美濃を攻め取った信長が、新しい本拠地として最近移り住んできたこの美濃の国の稲葉山は、もともとは斎藤道三の城のあった場所。信長は妻の実家の城に移ってきたわけである。
「北近江との同盟は成った。次は南近江ね」
織田家が次に同盟すべき相手は南近江守護の六角氏であろうと、濃姫は幼い冬姫を前に口にする。
「足利義昭という御仁を公方様とするために、父上は上洛なさり、京にいる三好の軍勢と戦をなされなければならない。この美濃と京の間にある近江は通り道。避けては通れぬ。北近江の浅井家と、南近江の六角家の協力が不可欠なのよ」
まだ幼くて、よくわからないだろうに、それでも冬姫にこのような話をする。これが織田家の、濃姫の教育なのだろう。
南近江の六角家のことを口にしたところで、不意に濃姫は思い出したようで、
「南近江といえば、ちょうど今頃だった、父上が上洛なされて、その帰り道に──」
と立ち上がって、違い棚に向かった。そして、そこにある螺鈿を施した箱を取り上げた。
ここは濃姫の居間。冬姫に唐菓子を与えて、濃姫自身も寛いでいるところである。多忙な信長は、岐阜と名付けたこの稲葉山の城の改築作業でもしているのであろう、この場にはいない。
濃姫は冬姫の前に戻ってきて座り、箱を開けた。中には紫草で染められた麻布が入っていて、その高雅な色が、見る者の目を驚かせる。しかし、この麻布、未だ色褪せず美しい織りではあるが、どうした不都合か、端が裂けていた。それを取り出しはせず、箱ごと冬姫の方へ押しやると、濃姫は懐かし気に息を一つ吐き出した。
「そなたは覚えておるまいが、これは赤子の時のそなたを包んでいたものでの」
冬姫のおくるみだったのだという。それを大事にとっておいたのだ。
「懐かしい。確か近江の布とかで」
濃姫は笑顔でその上級品の麻布を見ている。
「蒲生野の紫草だろうとのこと。父上が上洛なさった時に手に入れられた布で。何でも近江の行商人から買われたのだそうな。つまり、これは、父上から頂いた京土産なのじゃ」
永禄二年(1559)二月、尾張統一間近だった信長は、数十人のみを供に上洛して、当時の幕府将軍・足利義輝に謁見した。遊山も兼ねていたので、都見物は勿論、奈良や堺にも出かけた。その折、この布も手に入れたのであるが。
「帰りに南近江に寄られて、ちょうど今頃だったが、はて、あれは何日のことだったか」
今日は二月七日である。
「ちょうど九年前の、今日辺りか。他の者たちより先に都を発って、南近江にお着きだったそうだから、多分七日辺りだと思う。八風越えで帰ろうとなされて、その前に蒲生野に寄り道を──」
額田王の薬狩りの和歌で有名な蒲生野に、信長は寄った。
「茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る──?」
額田王の和歌を吟じる冬姫を、濃姫は感心したようにその口もとを眺めやって褒めた。
「まあ、よく勉強していること」
その歌には返しがあり、
──紫草の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも──
という大海人皇子(後の天武天皇)の歌である。
九年前、信長はその古歌の地に来ていたのだが、実のところは保内商人の暮らし振りや、日野筒という鉄砲を見てみたかったのである。日野筒はその辺りで作られている。
一日早く都を出ていた信長は、後発隊とは八風越えの街道筋で落ち合うことになっており、待っている間の寄り道だったのであった。
実は、信長の上洛を知った、当時敵対していた美濃の斎藤義龍(道三の子)が、三十余人もの刺客を送り込んできていた。刺客は京だけではなく、東海道にも東山道にもいて、信長の帰路は危険な状況だったのである。
そのため、信長は京の刺客の目を誤魔化し、なお洛内にいるように装いながら、供廻りの一部とこっそり京を抜け出していた。その信長の本隊は六日に出発していたが、信長がいるように装った別働隊は、七日に京を出発した。
そして、東海道でも東山道でもない、得珍保(保内商人)や石塔、沓掛、小幡等の山越え商人達が使う八風越えの道を使って、南近江から北伊勢へと抜け、尾張に帰ることにしたのである。
「その上洛の旅で買われたこの布を染めたのは、その蒲生野の紫草かなとて、一帯をぐるりとご覧になって」
と、濃姫は箱の中の紫草染めに目を落としつつ、以前、信長から聞いたその時の蒲生野での出来事を、冬姫に話し始めたのである。
「その蒲生野には桜の巨木があって、遠くからでも良く見えるほど立派なのだそうな。父上がその巨木を見つけられた時は、まだ花はほんの数輪咲き初めたばかりの時期で。ふと、その根元に三つ四つの幼い子がいることに気づかれて、父上は近寄って行かれたのだそうな。大人数人が付き従っていて、どこぞの良家の子だったらしい」
信長がその桜の巨木に近寄って、幼い童子の様子を見るに、我が子の奇妙丸と同じくらいに見えて、つい目を細めてしまったのだという。
童子は桜の古木の下を、ぴょんぴょん狐か犬のように跳ねていた。袖を翻し、敏捷に無邪気に。よく見ると、風で桜の枝が揺れるのに合わせて、跳んでいるのだった。その眼は上を向いて、一本の枝に狙いを定めている。
見れば、童男が狙っている枝先には、桜の花が咲いていた。その枝は咲初めの一輪であるらしく、他の枝に花は見えなかった。
小さな童子が思いきり跳躍しても、到底その枝に手は届かないと思われた。しかし、枝の動きをよく見た童子の手は枝を確かに掴んだ。
枝は激しくしなり、べきっと乾いた音と共に派手に折れ、童子は枝と一緒に頭から地面に叩きつけられた。
従者達が青くなって助け起こす。童子は右手に掴んでいた枝をぽろりと落とした。
瞬間、ぽとっと地面に赤い雫が落ちる。掌から出血していた。
蒼白になって従者達が、止血しようと自身の着物を探ったが、適当なものがなく。
信長が声をかけたのだった。
歩み寄り、信長は袂、そして懐を探った。つと、懐から紫の大判の布が出てきた。
信長は紫の布の端を細く裂いて、残りを懐に戻すと、童子に手を伸ばした。そして、童子の掌に、裂いた紫の布をぐるぐる巻いていく。きれいに巻き終えると、信長は童子に言った。
「花見か?随分気が早いんだな」
「一番最初の花を見つけたかったの」
無邪気に童子は真っ直ぐ信長を見上げて応えた。
「ふうん、すごいな。最初の一輪、見つけたんだな。だけど、せっかく咲き初めたものを、何で取ろうとしたんだ?花の命は短い。すぐに寿命がきて、散ってしまうのだぞ」
折ったら可哀想だろうと言おうとしたら、童子はちょっとさし俯いた。
「干からびる前に、散っちゃうもの……風が吹いたら……」
「風が。そうだな。花吹雪だ。なかなか雅びて綺麗なものよ」
「風が強かったから……お花、風に吹かれないように、持ち帰って花活けに挿そうと思って……どうして風は、花を散らしてしまうんですか?」
「……風が吹いたら、花は散るに決まって……」
「干からびてない、まだ瑞々しい花びらは、何もしなければ散らないのに……」
寿命が来ていないのに、本来散らないはずの花弁でも、風が吹くと散ってしまう。
「散り際ってものだ。一番良い時に散るのが良いのだ。散り際を逸するのは見苦しい。お前もそういう生き方をしろ、良き武士となれ」
信長は適当にそんなようなことを言ったらしいが、信長自身、何を言ったか実はよく覚えていない。
「これはその時の麻布での」
濃姫は冬姫に、箱の中のその紫草染めの麻布をしめし、その端が破けている理由を語った。
「その桜の下で出会われた童の、包帯代わりに使われたからなのよ」
冬姫はしげしげとその裂けた端を見つめ、失われた部分が存在した頃のその布の姿を想像した。
「一部は見知らぬ童に与えてしもうたが、これはその後に生まれたそなたに使った。我等にとっての思い出の品故、父上もこうして綺麗な箱に、大切にしまっておられるのじゃ。これはずっとこうして我等が持っていたい。生涯、ずっとの」
濃姫はそれを箱ごと持ち上げ、とても大事そうに抱きしめた。
翌日のことである。将軍宣下があった。しかし、十四代目となるその新しい征夷大将軍は足利義昭ではない。足利義栄であった。
以前、信長が紫草の布を手に入れた時に謁見した十三代将軍・足利義輝は暗殺されていた。永禄の変と呼ばれる大事件である。敵の魔の手は義輝の弟・義昭にまで及んだ。
しかし、辛くも義昭は虎口を脱し、逃亡してしばらくは南近江に潜んでいた。そして、兄の将軍を殺した三好党を討って、自らが将軍にならんと欲した。
義昭は潜伏先の南近江を治める、守護職の六角承禎(義賢)と四郎義治父子に協力を要請した。六角父子は、なれば周辺諸国の協力が要るとて、北近江の浅井と、美濃の主となった織田とを結ばんとした。それで、浅井長政とお市の縁談が持ち上がった。
しかし、結局、京にいる三好勢の軍事力を恐れた六角家は、義昭を見捨てた。それにより、お市の縁談は立ち消えとなった。六角家は長年、三好勢との戦に苦しめられ、敗戦続きだったのだ。
六角家にとって義昭は厄介者。義昭は六角家によって消される可能性さえあるとて、南近江を去り、越前の朝倉義景のもとへ向かった。
しかし、義景も一向一揆等、国内が不安定で、義昭のために京の三好勢と戦をするほどの余裕はなく、義昭の身を預かりながらも、ぐずぐずとして動かなかった。
何とかしたい義昭は、今度こそ浅井と織田に協力してもらおうと、長政とお市の縁組を斡旋。遂に成った。
北近江と美濃が同盟したことで、両者の軍事力を頼みに、義昭も遂に動けるだろうと思われた。
その矢先の出来事だったのだ。三好勢に担がれた新将軍が立ってしまったのだ。
(困ったことになった、北近江の次は南近江だったのに)
新しい公方(将軍)が立ったことを知り、濃姫は憂えた。
美濃の信長が義昭を戴いて上洛するには、南近江は通り道。南近江が味方になってくれなければ、上洛できない。
しかし、足利義栄という新しい将軍が立ってしまった。三好勢を恐れる六角家が、この状況で足利義昭のために織田家に同心するとは思えない。
義栄に逆らう者は御敵。六角家は三好勢との戦を避けたいし、御敵になどなりたくないに違いない。
信長は御敵であろうと、義昭を将軍にするために挙兵する。南近江が同心しなければ、戦になる。
(今の六角家には全く力がない。三好だけではなく、我が織田との戦も避けたいはず。こちらに同心する可能性もあるだろうか?同盟する場合は──)
濃姫は考える。六角と織田が同盟するには、婚姻政策ということになろうか。また、戦になったとしても、途中で和睦となれば、その時も姻戚の縁を結ぶことになるだろう。
六角家の当主・義治の妻は一色(斎藤)義龍の娘。濃姫は義龍の妹だから、義治の妻は濃姫の姪である。
(六角家に娘の話は聞かない)
となれば、六角の娘が織田に嫁ぐのではなく、織田から六角に嫁に出すことになるだろうか。六角承禎の長男義治には妻があるから、次男辺りが相手になるだろう。
(とすれば、誰を?冬?)
六角家にはすでに濃姫の姪が嫁いでいる。彼女と親戚関係にある娘の方が良い。
(南近江の紫草の布を、使っていたあの子こそ?)
運命なのかと濃姫は、冬姫が南近江に嫁がされるのかもしれないと思った。




