元亀の苦境(下)
年明けて、元亀二年(1571)。
信長は敵への報復を胸に、闘志を燃やしている。和睦は敵も味方も一旦帰還するための、一時的なものと認識している。とはいえ、今は戦の心配もなく静かなので、各地より、新年の挨拶に岐阜にやって来る者がひっきりなしだった。
蒲生賢秀・忠三郎父子も岐阜に赴いていた。
「不甲斐なくも、一揆鎮圧に手間取り、敵に領内間近にまで迫られ、冬姫さまの御身を危険にさらしてしまいました。しかし、お屋形様が六角と和睦を成立させて下されたおかげで、一揆は終息しました。謹んで御礼申し上げまする」
「いや、六角から帰参を迫る使者が再三やって来ても、相手にもせず追い返し、或いは斬り殺したと聞いている。よく近江を六角から守りきってくれた」
信長は二人を労い、「褒美をやる」と、かなり上機嫌に忠三郎に言った。鶴千代だった時分から、信長は忠三郎を前にすると、何故かいつも機嫌がよくなる。忠三郎はそれを見てとって、妙なことをねだった。
「それがし、戦を学ばなければなりませぬ。先日、稲葉様ご家中の斎藤利三殿からもご助言頂き、このままでは駄目だと痛感致しました。生の戦をもっと肌で学びとうございます。瓶割り柴田様に師事し、実戦を通してその戦ぶりを学びたいのです。柴田様の寄騎にして下さいませ!」
信長の娘婿が、織田家臣の寄騎になりたいなどと言うのである。
信長にも賢秀にも思いもよらない発言だった。だが、謝罪の言葉と共にがばとひれ伏した賢秀の後頭部に、信長のきんきんとした笑い声が突き刺さる。
「あははははは!面白い婿殿よ。我が小さき婿殿は家臣の下風に自ら立つと言う。よかろう。望み通り権六(柴田勝家)の下につくがよい」
信長はやはりどうも忠三郎には甘い。賢秀はへなへなと崩れそうな体を腕で支え、額の汗を床にぽつぽつ落としていた。
こうして、忠三郎は柴田勝家の寄騎となった。そこでは、柴田家に最近やって来たという坂源次郎なる者と出会うことになる。思慮深く、それでいて大胆で、戦になれば勇敢な猛者。忠三郎は勝家と源次郎とを惚れ惚れと眺め、生の戦を学んでいくのである。
ちょうどこの頃、日野には神戸具盛夫妻が来ていた。日野には隠居の快幹軒と冬姫しかいない。
実は娘夫婦──神戸夫妻を日野に呼んだのは快幹軒である。次兵衛はそれを知っていた。そして、次兵衛から三七丸の付家老の坂仙斎、さらに信長にも連絡した上で、神戸夫妻を捕えてしまったのである。
それというのも。
快幹軒は城下の一向宗門徒の動きを憂えていた。
昨年末、信長が六角父子と和睦したため、近江国内の一向一揆は一応収まっている。しかし、この和睦は一時的なものであること、春には再び開戦されるだろうことは、敵も味方も暗黙のうちにわかっていた。
本願寺が着々と戦の準備を整えていることは明らかだった。
日野の門徒衆は、蒲生家との関係から、一揆は起こさないと約束したが、顕如に従わないという発想はない。蒲生領内で一揆を起こせないならば、本願寺の後方支援しかない。彼らは本願寺へ兵糧を送り、また兵となるべく、壮年の男は本願寺へ行ってしまったのである。
同様のことは北伊勢四十八家にも起きている。長島の一向一揆の勢いすさまじく、四十八家の中には願証寺の信徒である家もあるくらいなのだ。日野の比にならない位、危険である。
そして、関家には六角からの誘いも来ていたし、神戸家は関家と親しい。
快幹軒は娘を神戸具盛に嫁がせていた。具盛は蒲生家よりも先に信長に臣従し、信長の三男・三七丸を養子にしている。信長の弟・長野信包は姉婿でもあった。
蒲生家が信長に降伏した時、その間に立って動いたのが具盛でもあった。
神戸家は関家の分家である。しかし、南伊勢の北畠家から楽三が養子に入ってからは、北畠の血統となり、関家とは他人になった。楽三の代から三代の間は、北畠家に従い、関家とは対立していたのである。
しかし、兄の後を継いで神戸家の当主となった具盛(友盛)は、祖父、父、兄とは違い、血よりも家を大事にして、関家と同心することにし、蒲生快幹軒の娘を娶った。
実は関家当主・盛信の妻も快幹軒の娘であったのだ。盛信と具盛は相婿となった。
具盛には息子がいない。そのため、具盛は当初、盛信の子・勝蔵を養子にするつもりでいた。勝蔵を養嗣子とすれば、神戸家は再び関家の血統に戻る。
ところがである。永禄十一年(1568)二月、関家は六角家に同心したままであったが、神戸家は信長に降伏した。三七丸を養子にすることが条件であり、信長に降伏した以上、受け入れなければならない。具盛は勝蔵を養子にできなくなった。
具盛は本心では不承不承、面白くなかった。妻の実の甥たる関家の子が欲しかったのだ。
それに、勝蔵は特別な子で、乳が四つ(副乳)あった。関一門には、度々このような人が出る。これを瑞兆として慶んでいたのである。
だからであろう、どうも勝蔵をこそというその気持ちが、知らず態度に出ていたようだ。
ともかく、関盛信と神戸具盛の両者は親しい。
今は共に織田家に従っているが、関家が六角の誘いに乗れば、神戸家も同心するに違いなかった。彼らが六角や本願寺、願証寺に従えば、北伊勢の他の家々も次々にそちらに靡くであろう。
「長島一帯の一揆勢は凄まじい勢力があり申す。このままお屋形様のご出馬がなければ、収拾がつかないほど拡大するでしょう。さすれば、北伊勢四十八家、次から次へと敵方に寝返るに相違いなく。それを防ぐために、芽をつんでおかなければ」
次兵衛、坂仙斎は信長の許可を得て、快幹軒に神戸夫妻を日野に招かせ、捕えさせたのである。今の日野中野城は、かつて蒲生貞秀が築城したものの脇に、子孫の快幹軒が築いたものだが、神戸夫妻を二の丸としている昔の中野城の方へ、押し込んだ。
このことを、信長はまだ幼い冬姫には教えるなと厳命している。
次兵衛は快幹軒の神戸夫妻捕縛の様子を、黙って見ていた。おかしな動きがあれば、助言と称して口出しするつもりで。
だが、快幹軒は冬姫に一切そのことを語らず、次兵衛に度々相談して、実行してしまったのである。
神戸夫妻の幽閉の理由は三七丸を冷遇したからということにされた。その後、三七丸に仕えるようになった関盛信も、信長によって追放され、蒲生家預かりとなる。具盛室と盛信室の姉妹は、揃って夫婦で実家に幽閉されるのだ。
敵との和睦はあくまで一時の停戦に過ぎない。また戦が始まる。
木下秀吉の働きによって、浅井家の磯野員昌、新庄直頼らが織田家に従った。秀吉の横山城、丹羽長秀の佐和山城周辺は、着々と戦の準備が整い、浅井対策は万全である。五月、浅井勢が箕浦の一揆勢と共に攻めてきたが、織田方は容易に破ることができた。
それもあって、信長は北伊勢討伐に乗り出した。五月十二日、信長は尾張津島に着陣。伊勢長島の一向一揆との最初の攻防が始まったのである。
その頃、南近江ではまた一揆が勃発している。場所は神崎郡垣見、小川周辺である。
長光寺城の柴田勝家が、伊勢長島へ出陣している隙をついて、六角父子が呼び掛けたのだ。
一方、伊勢からの信長の帰還は早かった。今回の北伊勢出陣の目的は、一揆の完全鎮圧ではない。何回かに分けて、掃討するつもりである。
今回の出陣の意図は、門徒衆という特異にして、輪中という特殊な土地にいる敵に、いかなる方法で当たったらよいのか、その作戦を練るための敵情視察である。
しかし、敵は一筋縄ではいかない。退却する織田軍を猛攻した。
織田軍は殿軍をつとめた柴田勝家が負傷するなど、猛将にとっても過酷なものとなり、氏家卜全が討ち死にした。勝家の寄騎となった蒲生軍などは、まるで地獄から生還したような有り様。忠三郎もこのような退却は初めてだ。しかし、彼は無傷である。
それでも、織田方もやられるだけではない。
山野に潜んでいた伏兵が、願証寺の寺主・証意を暗殺することに成功したのだ。敵の総大将を死なせた、大変大きな成果であった。
後を継いだのは、まだ十一歳と幼い、嫡男の顕忍(佐堯)だった。
十一歳が総大将の烏合の衆など、あの特異な輪中さえ克服できれば、信長に勝てないはずがない。
何れにしても、半里はあろうかというほどの川幅を、織田軍は次回までに克服しなければならない。それには、船。敵をあっと言わせる機能を持ち合わせた安宅船が要る。そして、それを自在に操る水軍が必要だ。
信長はあれこれ思案しながら帰還した。
忠三郎も帰ってきたが、腰を落ち着ける間もなく、すぐまた近江の一揆鎮圧に出掛けて行く。さすがに冬姫も心配になった。いつも無傷で帰ってくるが、危険な殿軍を務めたばかりだし、出陣が多過ぎる。
秋になって、信長も一揆討伐に近江にやって来た。信長が出陣しているのだから、柴田勝家の寄騎が出陣しないわけにはいかない。
信長は一揆を鎮圧しながら、近江をどんどん南下して行く。すると、守山近くの金森で一揆が起きた。
これは六角承禎が指揮していた。地侍、一向宗門徒の民だけで起こした一揆とは違う。六角承禎の下、六角旧臣の軍勢と一向一揆勢が合流した軍で、これまでの一揆と違い、厄介ではある。とはいえ、やはり織田軍が勝利して片付けてしまった。だが、肝心の六角承禎にはまたしても逃げられてしまった。
信長は、一揆が終息した守山方面へと南下して行く。さらに大津へと向かい、三井寺に立ち寄って、さらに軍を進めるや、突如として驚くべき命令を全軍に下した。
「これより、比叡山に向かい、根本中堂、山王二十一社ことごとく焼き払え」
家臣たちは、一瞬話が呑み込めなかった。
丹羽長秀や柴田勝家、佐久間信盛、中川重政、木下秀吉など、近江より信長に従って行軍してきた武将。加えて、足利義昭に従ってきた明智光秀などがいたが、皆ぽかんとしている。
「昨年、逆賊どもを匿いし罰である」
信長がさらにそう重ねると、そこで初めて、仏罰が下るの、開山以来誰も攻めて行ったことはないのと騒ぎ出した。
「山法師どもは三井寺を百度も焼き討ちしている。仏罰はこれまで悪行の限りを尽くしてきた山法師どもにこそ下る。我等による焼き討ちこそ、比叡山へ下される仏罰よ!」
九月十二日早暁。ついに比叡山への焼き討ちが始まった。
坂本から山頂を目指した軍勢は、次々に火をかけて行く。煙に燻され、堂や塔の中から飛び出してきた僧兵たちが、次々に仕留められて行く。
比叡山には僧侶が囲っていた女や子供も多数いた。これらも手当たり次第に討って行くが、多くは煙に紛れて逃げたのであろう。織田軍とて、比叡山全山にいる生きとし生ける者全てを、全滅させるなど不可能である。特に、木下軍の討ち洩らしは多かった。
各軍勢は、目の前に映る敵が片付けば、どんどん山を登っていく。
ついには延暦寺の象徴・根本中堂も燃え、天台座主の覚恕法親王は逃亡した。
朝霧を突き破って燃えさかる比叡山の赤々とした姿は、京の都からでも見えた。都の人々もさぞびっくりしたことであろう。
火は十三日になっても消えることはなく、織田軍の一部は十五日まで留まった。
その後、坂本は明智光秀に与えられた。




