元亀の苦境(上)
信長が岐阜に帰った頃、忠三郎も賢秀もすぐにまた出陣した。挙兵した六角承禎が、南近江奪還をかけて、本格的に仕掛けてきたからである。南近江の織田方の諸将は、六角対策に追われることになった。
六角承禎、義治父子が近江の各地に檄を飛ばし、土豪、一揆勢、それに未だ何処へも仕官叶っていない六角家の浪人等がそれに呼応していた。
六角父子は一昨年、信長によって観音寺城を追われた時、甲賀の三雲家を頼り、東海道を押さえて、伊勢、さらに伊賀に出向き、伊勢の一部と伊賀の地侍の支持を獲得していた。
今、こうした伊賀、甲賀の兵で六千もの軍勢を為すまでになっている。この兵数が、近江各地の土豪を励まし、反織田の狼煙を上げる理由にもなっているのであろう。
気をよくした承禎は、守山城、次いで永原城を攻撃した。とはいえ、思うような成果はなかった。次に、鯰江城と呼応して、長光寺城を狙う。
長光寺城は柴田勝家が守っている。その長光寺城の兵数は四百ほどで、織田方の他の城にもさほど多くの城兵はいない。
鯰江城は鯰江貞景の居城だ。浅井軍を入れ、また、六角勢に呼応した地元の者も迎えて、結構な兵力を有していた。非常に堅固な城であり、下手に撃って出なければ、まず落城することはない。
だが、柴田勝家の長光寺城がたかだか四百ほどの兵だと知ると、長光寺城の水源を切るという行動に出た。
水源を断たれた勝家は、長光寺城の城兵たちの前に最後の水が入った瓶を置くと、それを全て飲ませてしまった。
空になった水瓶。城の外へ撃って出ても、このまま城に籠っていても、どの道死ぬ運命だ。勝家は瓶を割り、兵たちを鼓舞すると、城外へ飛び出した。
鯰江城から出て来て長光寺城を取り囲んでいた敵を、凄まじい勢いで仕留めて勝利。勝家は瓶割り柴田の異名が付けられることになる。
永原城の佐久間信盛はこの機を逃さなかった。
六月四日、勝家と合流して、押し出してきていた六角本隊を野洲河原で迎え討ち、野戦に及んだのである。
六角勢六千。織田勢四千。この四千の中には、蒲生家をはじめ、近江の織田方の諸将の兵が含まれている。彼等は士気の高い兵を率いて、野洲河原へと駆け付けていた。
一方、数で勝る六角勢は何故か士気が低く、弱い。
戦うと、圧倒的に織田勢が強かった。
六角勢は三雲、永原等を含む八百人ほどが討ち死に。一揆勢も千人以上死んだ。
結果は織田勢の大勝利である。
六角承禎、義治父子はまた逃亡した。こうして、南近江から六角勢は姿を消した。
だが、鯰江城など、降伏しない城はある。それでも、各地の一揆も鎮まり、浅井方も北へと戻って、南近江は随分落ち着いたのである。鯰江城は動く気配を見せなくなった。
六角父子は甲賀郡の三雲家を頼り、石部城に入った。
風呂で戦垢を落とすと、今後の方針を決める。三千近くの兵を失い、残りは四散していたのだ。兵を集め直さなくてはならない。旧臣たちが戻ってくれば、万の兵となるが──。
誰から誘うか。皆、織田の武将の寄騎になっている。
「蒲生で。蒲生は市原一帯の領主どもを寄騎にしているとか。二千三千、兵を持っている」
先日、蒲生家を誘って失敗していたが、四郎義治はなお帰参を試みようとしている。
「あとは甲斐の武田。それと本願寺を」
承禎はそのように発案する息子に、初めて感心したような眼を向けた。
一向宗は各地で非常に強い勢力を持っている。その総本山が本願寺だ。
本願寺の門主・顕如の妻は左大臣三条公頼の三女だが、承禎の父・定頼が養女にしていたので、彼女は承禎の妹でもある。定頼の死後、承禎の手により顕如のもとに嫁がせた。また、甲斐の武田信玄の妻は公頼の次女だ。
「本願寺を説得すれば、全国の一向衆が我のものよ」
一向宗の門徒衆を立ち上がらせれば、数万、数十万の兵となる。
「御上人(顕如)に命じて頂きましょう。門徒衆の御上人への信仰心は凄まじい。御上人のためとあらば、農民、女子供までもが挙って一揆を起こしてくれます。蒲生の領内にも一向宗の寺があり、門徒衆がおりますから、蒲生が返り忠せぬ時は、彼らに一揆を起こすよう命じてもらいましょう。門徒衆は領主よりも御上人の御意に従いますから」
本願寺を蜂起させるのは、至極の策であること間違いない。近江を奪還できてなお有り余る兵数だ。信長を包囲して討ち果たすことも可能だろう。将軍・義昭の後見人になるのも夢ではない。
あとは北伊勢四十八家。伊勢長島の願証寺も近い。
「関盛信は蒲生賢秀の妹婿。信長の倅の養父の神戸具盛とは相婿。関家にしつこく毎日使いを遣れば、関家と、我等や願証寺との間に行き来があるように見えよう。信長は関と親族の神戸と蒲生にも、疑いを抱くようになるのではないか」
その後、父子は赤佐やら赤坂やらいう者を召し出した。近江の地侍である。
「つい先日、蒲生が信長から五千石ほど加増されたそうだ。その加増分に、うぬの所領も含まれている。蒲生が返り忠すれば、うぬの所領も蒲生が背負って来るゆえに、戻ってくるだろう。だから、蒲生を説得して来い」
承禎がそう命じれば、義治も。
「信長の姫は、我が妻の身内。もとは土岐家や一色家(斎藤家)に仕えていた者を大勢引き連れて、蒲生家に住み始めている。その姫の里女中らは、信長に仕えていることを、内心では悔やんでいるに違いない。奴らを抱き込めば、蒲生は動かせる」
義治は使者の役を命じると、次に、妻の井口殿へ、彼女の里女中達を貸すよう要求した。
「信長の姫の所へ遣わすから」
というのである。
ほどなくして、蒲生家には六角家からの使者が来た。
そして。織田家から冬姫と共に蒲生家に入った者の中には、阿ろくのように元斎藤家の侍女等美濃衆もいたが、彼らにも、井口殿の侍女等から声がかけられているという。
蒲生が六角の誘いを受けていると知り、次兵衛らは浮き足立った。阿ろく等美濃衆が六角方を相手にすることはないが、蒲生が六角の誘いに応じれば、冬姫の身が危うい。
しかし、賢秀と忠三郎は、次兵衛の見ている前で六角からの使者を斬り、その誘いには応じなかった。
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信長が浅井討伐のために出陣したのは、六月十九日のことである。
まず木下藤吉郎秀吉が攻略していた伊吹山付近に着陣。徳川家康も合流して、三万五千を越える軍勢である。
そこから浅井氏の本拠・小谷城のすぐ近く、虎御前山に移ると、二十一日、小谷城付近一帯を焼き払った。
朝倉軍が進軍してきたので、浅井勢は小谷城から出てきた。野戦を望む信長は、浅井勢を炙り出すことに成功、陣を姉川南岸に移動する。
浅井勢は姉川北岸へ。こちらは一万八千。朝倉義景率いる朝倉勢の本隊は、まだ到着していない。
六月二十八日朝。織田軍の先陣が鉄砲を撃って開戦。阿鼻叫喚という言葉がぴったりの、姉川の水が血で真っ赤に染まったほどの激戦となった。
浅井軍は異常に強かったが、三刻以上戦い抜けば、さすがに疲労する。そんな浅井軍に対し、数で上の織田軍には、まだ戦っていない隊もあった。それらが突っ込んで行くや、戦局は一変し、織田軍が勝利した。
信長は横山城を秀吉に任せて引き上げた。
そのような中、三好勢が四国から摂津へと上陸した。彼らは野田・福島に城砦を築き、京を目指して河内方面へ進軍して行く。それを防ぐべく、松永久秀が奮戦していた。
しかし、三好勢の勢いは凄まじく、松永だけでは防ぎきれない。このままでは、三好勢に京へ侵攻される。
信長が出陣しなければならなくなった。信長は八月二十三日に入京。朝敵・三好勢討伐に向けて、二十五日には河内へと出発した。
二十六日、摂津の天王寺に着陣。野田・福島の三好の陣に迫るが、ここは一向宗の総本山・石山本願寺の目と鼻の先である。
野田・福島の砦は天然の要害で、信長が攻めあぐねる中、九月三日には将軍・義昭が着陣した。信長軍は幕府軍ということである。
次第に敵は追い込まれて行くが。
突如として、本願寺に集結した雑賀衆、根来衆などの二万の傭兵が、織田軍へ向けて発砲してきた。鉄砲、その数三千挺。とんでもない数の鉄砲である。
織田軍は仰天した。
傭兵集団がやって来た理由は、本願寺の呼び掛けによる。三好勢のために、本願寺が参戦したのだ。
本願寺は一向宗の総本山。その頂点に君臨する顕如光佐は各地の門徒衆に檄を飛ばした。
「ご門跡様に従わぬ者は破門だ。法敵を討たねば地獄へ落ちる。進むは極楽往生、退くは無限地獄!」
本願寺に籠る門徒も、各地の門徒も、そして、雑賀や根来の傭兵も、戦うは極楽と信じ、顕如への信仰を合言葉に、法敵・織田へと決戦をしかけてきたのだ。これは、本願寺だけではない、全国の全一向衆徒が織田家の敵となったことを意味する。
法敵を殺し、討ち死にすれば極楽と、信じ込んでいる者ほど強いものはない。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、戦場に不気味な鬨がこだまする。
織田軍を追い込む鉄砲傭兵集団とともに、本願寺に籠る門徒衆も戦闘に加わっている。彼らは民。主に農民だ。
その民草である門徒衆が、南無阿弥陀仏を唱えながら、ほとんど自爆のように攻めてくるのだ。こんなのを相手にしたことのない武士は、ぞっとしたし、手こずった。死を全く恐れぬ者が捨て身で襲ってくるのである。
これに、三好勢は俄然やる気をとり戻した。
こうなっては、収拾つかない。九月十九日、朝廷は腹を立て、天下静謐を乱すけしからぬ奴よと、本願寺へ勅使を遣わす準備を整えた。
ところが、この時。朝倉・浅井が、宇佐山を襲って織田信治(信長の弟)、森可成、青地茂綱(蒲生快幹軒の子、賢秀弟)を討ち死にさせ、逢坂を越えて京の山科に進出してきたのである。
織田方、朝廷にはまさに不意討ちだった。
勅使は俄に下向どころでなくなった。都から出ること叶わず。そのため、本願寺はまだ朝敵だという自覚がなかった。
いや、自覚は浅井も朝倉にもなかった。彼らは信長が義昭を使って、自分たちを御敵にしたのだと思っていた。
さて、このままでは朝倉、浅井に京に侵攻されてしまう。信長は三好・本願寺との戦を途中にして、二十三日には京へ戻った。
すると、敵は比叡山に逃げ込んでしまった。
信長は比叡山に対し、
「こちらに味方すれば、先年奪いし我が領内の山門領は全てお返し致そう。我らに味方する気がないというなら、せめて一方にのみ味方せず、中立を貫いては頂けぬか?」
と頼んだ。なお、嚇しを加えることも忘れない。
「もしも中立を守らず、朝倉に味方するならば、全山焼き払う」
昔から強訴で朝廷に要求を認めさせてきた山門である。恐いものはない。朝敵とされれば、強訴でそれを覆えさせる、朝廷に。
ましてや、信長ごときの要求。嘲笑して、山門は信長に返事さえ寄越さなかった。
こうして、朝倉・浅井軍と信長は対峙した。しかし、朝倉義景は全く仕掛けてこないので、しばらく膠着状態が続くことになる。
その間、甲賀の六角承禎がまた蜂起した。本願寺の顕如の呼び掛けに応じた一向衆と共に、再度近江国内で一揆を起こしたのである。
甲賀郡、野洲郡、神崎郡で一揆が起き、近江の南から北、東に向かって広がって行く。東端の蒲生家の領内にまで及ぶ勢いだ。
さらに、摂津では、阿波から三好方に援軍が投入され、信長を取り巻く状況は深刻になって行く。
そして、織田家の本拠地・尾張の近く、まさにお膝元の伊勢長島で願証寺が決起した。願証寺は一向宗。寺主・証意は本願寺の顕如の一族であり、その檄に従ったのである。
この願証寺こそ、一色(斎藤)龍興が美濃を追われて逃亡した当初、身を隠していた場所であった。龍興は濃姫の甥、信長によって美濃を追われた、前の美濃国主である。
美濃を追われた時は、木曽川を下って伊勢・長島に落ちたが、その後、龍興はしばしば三好勢と行動を共にしている。
その龍興の元に、六角義治が連絡を寄越してきた。二人は義兄弟である。
つまり、京を目指せと、三好勢を焚き付けたのは義治と龍興だったのだ。
近江国主時代、最終的に三好勢と和睦した義治。その義兄弟で三好勢と行動を共にする龍興。もともと龍興は浅井と親戚でもあり。
二人は、三好勢と朝倉・浅井を連携させた。信長が三好討伐に出てきた所を、朝倉・浅井勢に背後から襲わせる。
さらに、本願寺をも蜂起させた。本願寺の法主・顕如は六角定頼の婿(承禎の義兄弟)である。
つまり、三好・本願寺、朝倉・浅井は連携していたのであり、そこに比叡山や願証寺やらが加わって、信長包囲網を築き上げたのであった。




