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日野椀

 日野に着いたのが年末だったので、冬姫がその暮らしに慣れるよりも先に年が明けた。

 日野は南近江の地にあるが、近くに峠越えの道が幾つもあり、それらの道で北伊勢と繋がっている。

 伊勢は北は以前より信長に従い、神戸家には信長の三男・三七丸が養嗣子に入っている。南は極最近信長が攻めて、北畠家に信長の次男・茶筅丸が養嗣子となることで和睦が成立していた。

 そのような中で、北伊勢に影響力を持っている蒲生家に、信長の娘が嫁いできたのである。三七丸の養母である神戸具盛の妻は快幹軒定秀の娘であり、神戸家の本家筋に当たる関家当主・関盛信の妻も快幹軒の娘であった。

 北伊勢四十八家とて、小領主が乱立するその地の人々が、冬姫を迎えた蒲生家に挨拶に来るのは不思議なことではなかった。北伊勢の人々の中には、そうして蒲生家に来たり、新年や婚礼の祝いの品を届ける人もいたのである。

 それは、南近江の六角旧臣達も同じであった。六角旧臣達が冬姫にご挨拶をと、複数集ってやって来たのに対して、迎えた加藤次兵衛は、

「貴殿らの旧主・六角四郎義治は斎藤義龍の婿である。織田弾正忠様(信長)のご内室様は義龍の妹なれば、四郎は弾正忠様ご夫妻の甥。弾正忠様はもともと貴殿らの主筋だったのだ。姫君様は四郎の妻の御従姉妹であるから、承禎入道、四郎父子が貴殿らの復帰を望んで誘ってきたとしても、返り忠する理由はあるまい」

と、冬姫の目に好ましくないことを述べて、胸を張った。冬姫はおろおろしている。

 快幹軒定秀は元同輩達が中野城に来てへりつくばるのを、愉快なことこの上ないと、祖父として冬姫の後ろでふくふくと受けていたが、さすがにちょっと目を丸くした。

 次兵衛は快幹軒に白い眼を向けながら、続けて声を張る。

「──姫君様は四郎のお身内。それ故、貴殿らに、たとい四郎への未練の欠片が残っていようとも、その思いは、姫君様へ忠勤を尽くすことで果たせるはずである」

 近江の人々、何も言わずに平伏している。

(お屋形様は南近江の旧主・六角の御親戚の姫様をこの地に据えることによって、六角旧臣どもを統治遊ばすおつもりなのだ。織田家を内心面白くなく思っている者もあろうが、旧主の身内の姫様を前に、心も変わろう)

 当初は近江の人々に寛大だった信長。今の次兵衛の強硬さに、得意満面だった快幹軒は冷や水を浴びせられた。確かに硬柔併せて治めるべきではあるが。

(これや織田家は当家に対して、色々無理強いすることがありそうやなあ……苦労させられそうや。冬姫の乳母夫、あれには警戒せぬとな)

 無邪気に冬姫との正月にはしゃぐ孫の忠三郎や、その二人を見て、雛人形だと単純に喜ぶ忠三郎の傅役の町野左近を横目に、これからの蒲生家の受難を予感する快幹軒だった。

 近江の六角旧臣達は、柴田勝家などの織田家重臣達の寄騎に据えられる。


 挨拶に来る人の列が途切れると、その合間に忠三郎は、藪下という巨漢の中間を護衛に、冬姫を外に連れ出した。行き先は蒲生家の氏神・馬見岡綿向神社で、そこの若松の杜は忠三郎が幼い頃から親しんだ場所だ。

「ここでよく遊びました」

 雪化粧した木々に目を細め、さらに冬姫に城下町を見せて回った。

 冬姫は次兵衛の言動も忘れ、心から忠三郎との外出を楽しんでいる。

「岐阜のお城と町はこの世にこんな世界があるのかと、驚くばかりでした。日野なんてちっぽけでしょう?」

 忠三郎が冬姫の眼を見つめて真顔で問えば、まさかそんなことと姫は首を振った。実際、日野は豊かだ。特に日野筒など、信長でも羨むのではないか。

「いつか一つ、岐阜に自慢できるような物ができればと思っているのです」

 日野といえばこれと、日本全国の人が知っているような日野の象徴。海外にまで知られるような、そんな名産を作りたい。

 少年らしく頬を上気させ、海外の市場さえ視野に入れて語る忠三郎に、冬姫は、信長が後継者にしたいと願っているのがわかる気がした。普通の人間なら、収入は米以外に思いつかない。

「その名物とは何でしょう?日野筒ですか?」

 おっとりした口調で冬姫は訊いた。祝言を挙げてからの姫は従順だ。主家の姫君らしい態度がまるでなく、忠三郎に素直に従っている。

 忠三郎は懐を探った。小さなかたい物が指先に触れる。

(これを下された時とは違う。きっと、嫁とはこうあるべき、こうしなければならないという使命感でのことなんだろう……)

 忠三郎を恋い慕ってのことではないのだろうと思う。そうはいっても、こうして隣でいやな顔一つせず、和やかに話をしてくれるのはありがたい。それに、姫は忠三郎のもとに届いた井口殿からの文のことでは彼を助け、守ってくれた。

 彼は懐からその指先にある阿弥陀像の入った厨子を取り出し、姫に見せた。

「鉄砲は開発に努めても、南蛮でも日々開発し続けているでしょう。でも、これなら、南蛮にもないものですから」

「阿弥陀様?」

「厨子の方です。漆塗り。つまり、日野椀です。漆器は珍しいもののようです。以前、伴天連が岐阜に参った時、漆器で食事を出したのですが、椀の美しさに驚いていました。南蛮にも唐土にも、このようなものはないようです」

 唐土にはこの厨子のような彫漆はあるが、日本で作られる漆器の類は他のどこにもない。

「日野が漆器の産地なのは、私に課せられた天命とさえ思えて。今、日野で作られているのは素朴なものですが、もっと様々な技法を取り入れて、日本一の漆器を作り上げます、きっと」

 忠三郎は目を輝かせ、厨子を翳した。

「実は日野に戻った翌日、塗師の家を訪ねて、この彫漆を見せていたのです。塗師はこの技法も新しい日野椀に取り入れたいと申しておりました。この阿弥陀仏と厨子は、私の夢なのです」

 冬姫は頬を染めた。

「希望になれて嬉しいですが、あんな手渡し方をしたものですのに……恥ずかしいことを致しました」

「とんでもない。おかげで、冬姫様はいつも私の夢として、私の心にあることになりましたよ」

「そのようなこと、武将が仰るものではありません……」

 耳まで赤くし、消え入るように言う冬姫。すっかり忠三郎に馴染んだ。


 その頃、快幹軒は賢秀と雪見酒に顔を赤くしていたが、ふと思い出したように、

「そういえば、先程から冬姫の御殿が静かだな。忠三郎は何している?」

「暇があれば、姫のもとに入り浸っていますよ。今日は一緒に若松の杜に参るのだと──」

 快幹軒は眉間を寄せた。

「どうしました?冬姫君を冷遇しているなどと難癖つけられずにすみますぞ」

「確かに、冬姫を隙なく大事に扱わねばならん。しかし、あの姫はどうもいかん」

「何がいけないので?」

「そちは信長殿が何故あの娘を寄越したのか、考えたことはないのか?」

「元の屋形・六角義治(義弼)殿の奥方は一色いや斎藤義龍の娘。冬姫君と親戚だからでは?六角家がいなくなったこの南近江に、六角の屋形の親戚筋の姫を据えれば、我等六角旧臣どもを御しやすいとお考えになったのではないかと。それに、六角の隠居(承禎)は斎藤家との同盟に猛反対でござったが、我等重臣達は無視して斎藤家からの嫁迎えを強行致しました。つまり、六角旧臣どもは斎藤家を頼りに思っていると、そう織田の御屋形様は思われているからでは」

「まあ、それも全くないことではなかろうが、十の中九は左様なことではあるまい。あの娘は今はまだ幼いが、あれはいずれきっと妖婦になる。傾国だ。すでに忠三郎が惚れている。将来が危ぶまれる。あの娘は蒲生を滅ぼすために来たのだ」

 祝言を挙げたとはいえ、冬姫は未だ男を迎え入れられる体にはなっていない。本当の夫婦の契りを交わすのはまだ当分先だ。しかし、すでに忠三郎は冬姫に惹かれている。傍目に見てもよくわかる。

「忠三郎を虜にする、だから信長殿はあの娘を寄越したのだ。わしは一目見て不安になった。冬姫は美しい。忠三郎でなくとも堪えられまい。あの乙女のやわらかい肌に一度触れたら──」

 溺れるだろう。

 忠三郎は必要以上に感情が豊かで、綺麗な花に見とれ、恋の歌などにうっとり浸るようなところがある。家臣たちとも心温まる交流をし、卑しい者にも親しく声をかけ、愛情をしめすのだ。

 いずれ冬姫と契りを交わしたら、忠三郎ならば、きっと骨を抜かれてしまう。

 仮に織田が、一昨年の六角氏のような事態に陥った場合、家の存亡を考えて行動できるであろうか。或いは、冬姫を織田からの人質と考えることができるであろうか。忠三郎の情が、祖父には危険に見えて仕方ない。

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