終章(下)
この大徳寺の中に、忠三郎の墓所である昌林院がある。
信長がその父、すなわち冬姫の祖父の信秀の菩提寺にと創建した黄梅庵の傍らに、昌林院はある。黄梅庵はかつて信長の墓所の候補にもなった。蒲生家は黄梅庵が黄梅院になった後も帰依し続け、傍らに昌林院を創建したのである。
父の総見院、祖父の黄梅院、夫の昌林院、いずれも同じ寺内にあるのは、冬姫には嬉しい。
キリシタンだが、昌林院に埋葬されたので、忠三郎には昌林院殿高岩宗忠大居士という戒名がある。大徳寺に帰依しているとはいえ、もともと蒲生家は浄土宗であり、百萬遍知恩寺と会津の高巌寺とは深く関係を築いている。臨済宗の大徳寺にのみ帰依しているわけではない。
さて、広い寺だが、昌林院に至った時にも、まだ暗くなり尽くしてはいなかった。
忠三郎の墓前に進む。
ここには、彼の亡骸がある。すぐそこに、冬姫のすぐ目の前に、忠三郎は眠っているのだ。
冬姫は墓石の前に腰を下ろした。六右衛門がその背後にうずくまっている。
「忠三郎様」
彼の墓所にも藤袴が何本か生えていた。
冬姫は総見院の庭で切ってきた一枝を、彼の前にそっと置く。そして、懐からあの阿弥陀像を取り出した。
しばらく何も言わずに座っていたが、やがて背後にそっと語りかけた。
「ねえ、六右衛門殿。芳い香りですね?」
すでに、藤袴から香りがしていた。
「……私を最初にご覧になったのは、岐阜の藤袴の咲く秋の野だったのですって。私は初めてお会いしたのは翌年の冬だと思っていたのに。この方はずっと黙って、にやにやしておいでだったのです。憎らしい方でしょう?」
六右衛門の脳裏に、少女をそっと藤袴の中から見守る少年の顔が浮かんだ。
「御方様。ロルテス様を覚えていらっしゃいますか?」
「勿論です、忘れるはずがありません……忠三郎様は、もうお会いになったのかしら」
今なお消息が伝わらないロルテス。きっともう──。
ロルテスがインドで何者かに襲われたのは、もう随分昔。二十年近くになろうか。未だ消息不明なのだから、きっともうこの世にはいない。追っ手に命奪われたか、船が沈んだかしたのだろう。
それでも冬姫はこう言った。六右衛門に背を向けたまま、忠三郎を見つめながら。
「ビスカイノ様が会津にいらしたら、ご存知か訊いてみて下さい。また、消息を調べて下さるよう、お願いしてみて下さい」
最近は西欧へ向かうのに、ポルトガル人たちがよく使用した、インドやモザンビーク島を経由して喜望峰を巡り行く航路ではなく、反対側の航路を使うことが多いようだ。つまり、太平洋を渡り、ヌエバ・エスパーニャを経由して、大西洋を渡って行く。
もともとスペイン人たちの使っていた航路だが、フェリペ2世がポルトガルを併合した頃は、どちらの航路も使われていた。
ロルテスの行方はインド周辺でなければわかるまい。ビスカイノはスペイン人であり、ヌエバ・エスパーニャの副王から遣わされたのだから、太平洋を横断する。ビスカイノに聞いても、ロルテスの行方は掴めないだろう。だが、六右衛門は冬姫の依頼に黙って従った。
「では、ビスカイノ殿にお願いしてみます」
ビスカイノはその後、確かに会津を訪れ、秀行(秀隆)と対面することになる。
スペインは日本国内でのカトリックの布教拡大を望んでいた。また、プロテスタントのオランダを日本から追い出すことも──。だが、ビスカイノのその要請は幕府に受け入れられなかった。
そのビスカイノの目に、教会やセミナリオが建ち、キリシタンで溢れる蒲生家の領内はどのように映っただろう。西欧風に調理した肉料理を出して饗応し、子達にビスカイノの説教を聞かせ、キリスト教に親しませた秀行は、どのように映っただろう。
その足で仙台に行った彼は、伊達政宗が西欧に遣わす使者、つまり支倉常長らを伴い、太平洋を横断してスペインに帰国する。
だが、それは数年後のこと。
未来のことも知らぬこの世の人間は、来世のことも想像しかできない。
六右衛門は冬姫に言った。
「御方様はキリシタンではいらせられませぬ。だから、この世での別れが亡き殿との永遠の別れと仰せでしたが、ロルテス様の仰有ったことには──」
忠三郎の代わりに地獄の責め苦を受けるのだと、敢えて受洗しない冬姫が、六右衛門にはいじらしく、切ない。
キリシタンの忠三郎は神の国におり、キリシタンでない冬姫は地獄へ落ちる。あの世で忠三郎と冬姫は再会できない。
そう信じ、それを覚悟し、敢えてその道を選ぶ彼女に、六右衛門は言わずにはいられない。忠三郎の目の前だからこそ、忠三郎にも聞こえるように言う。
「弘法大師は唐に留学中に景教(キリスト教東方教会、ローマ・カトリックによりネストゥリウス派と呼称される)を知り、その教えを真言密教の中に取り入れました。また、浄土宗や一向宗の阿弥陀信仰は、信仰による救済という、景教の影響です。日本に渡来した者の中には景教徒もおりました。また、八幡も稲荷も、鳥居も神輿も、神話も、イスラエルの民のもたらした物。日本の神と仏は、デウスを信仰したものなのだと、ロルテス様はそう仰せでした。御方様、ですから、御方様はきっと──」
冬姫は忠三郎と再会する。神の、デウスのもとで──。
いつの間にか、光る雲は消えていた。
辺りも薄暗くなってきており、そこら辺の空気を幻想的な紫色に染めている。
「……そう……」
冬姫は微笑み、呟くようにそう答えた。
彼女は瞼を閉じた。風が藤袴の香りを届けている。
その桜のような香りに包まれながら、彼女は忠三郎を愛しているだけで良いのだと思った。未来がどうであれ、来世がどうであれ。
「主知らぬ香こそ匂へれ秋の野に誰が脱ぎかけし藤袴ぞも……」
──アーマリッリ、ミーア ベーッラ……──
不意に、蘭香の風が聞き慣れぬ歌を届けてきた。
はっとして、六右衛門が立ち上がり、辺りをきょろきょろ見回す。
「御方様!」
冬姫に注意を促す。
遠くで歌が聴こえる。聴いたことのない歌だが、聞き覚えのある声のような気がした。以前、度々耳にした、ファララララ…と歌っていた──陽気で朗々と歌い上げられたあの声。
冬姫の耳にも、確かに届いている。
「ロルテス様!?」
遠くでがやがや人声がしている。利政と籍姫が来たのだろうか。だが、歌声はその喧騒とはまるで別物。
異国のものであろう。歌詞も聞き取れぬし、旋法もおよそ東洋のものではない。近頃のローマ辺りの流行り歌だろうか。
冬姫の胸に、かつて信長に連れられて、安土の修道院で聴いた聖歌が去来する。
彼女は胸を押さえ、立ち上がり、瞳を輝かせて忠三郎に語りかけた。
「ああ、夢はまだ見られますのね、忠三郎様!」
歌声はどんどんこちらに近づいてくる。
「御方様、ロルテス様です!ロルテス様がお帰りになったのですよ!」
六右衛門は叫ぶと、歌声のする方へ走って行った。
冬姫はそれを見送りもせず、忠三郎を見つめていた。
秀行の言葉を思い出す。
「母上、やはり父上は殺されたのだと思います」
キリシタン宗門に。その理解者に。
殺してはならない、戦をしてはならない、敵を愛せ、隣人を愛せ──伴天連のその言葉に感銘を受け、キリシタンとなった彼等は。キリシタンを保護した人達は。
秀吉の朝鮮出兵を嘆いた。明人、朝鮮人にも迷惑が及ぶと。
明人を隣人と思わない忠三郎を伴天連が嘆き──伴天連の嘆きに感応し、それを信じた彼等が忠三郎を。
「神が現れ命じたのでもないのに、人が異教徒を討ってはならない、罪人は神が裁く──あの子の世迷い言……聖戦は別。隣人に異教徒は含まれない。デウスは全ての人間を愛して下さるけれど、敵の悪魔を信じる異教徒は……」
冬姫は頭を振った。忠三郎を見つめて。
「忠三郎さま、ローマの聖下が王冠を下さいます!あなたは遂に日本の王になられたのです」
東海姫氏国は遂に百王の時代終わり、それまであったものは全て取り払われて消え、新しい世に生まれ変わる。唯一絶対なる神の正しき国に。
冬姫は涙しながら、紫色に染まった忠三郎の石をいつまでも見つめていた。
歌声はいよいよ近くに迫っている──……
──完──




