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終章(上)

 慶長十六年(1611)。

 早々に将軍職を嗣子・秀忠に譲って、大御所様と呼ばれるようになった徳川家康は、帝の即位により、上洛した。そして、豊臣秀吉の嗣子・秀頼と対面を果たしている。

 丁度、スペイン領ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ周辺)副王の使者として、セバスチャン・ビスカイノという者が来日していた。

 フィリピン総督府はひどく遠方にあるが、ヌエバ・エスパーニャに含まれ、副王の下に置かれている。先年、総督だったドン・ロドリーゴの船が台風で難破した折、日本に助けられた。

 その礼のため、副王が遣わした使節なのである。ビスカイノは大変熱心なカトリック教徒だという。

 家康はスペインと敵対しているオランダやイギリスと友好関係を築いていたが、スペインとの関係も良好であることを望んだ。


 蒲生秀隆は名を秀行と改め、家康の婿として、幕府内で重きを置かれている。将軍・秀忠も江戸の蒲生屋敷に来訪し、蒲生家は東北の要と目されていた。

 彼は父を害した者について、確信があるらしい。いったい誰だと断定したのであろうか。調査した者を重用していた。


 さて、家康と秀頼との対面も成り、泰平の世を予感させた頃の六月二日、大徳寺総見院では、信長の祥月命日の法要が営まれた。

 冬姫も上洛して列席したが、八月になってもそのまま京に滞在し続けている。

 この正月、蒲生家の江戸屋敷が火災に遭っていたこともある。だが、それよりも気掛かりなことを、京で見つけたからであった。

 間もなく信長の死から三十年。命日の法要には、御台(濃姫)と側室・お鍋の方(小倉殿)が参列していた。二人ともかなり高齢で病みがちであった。冬姫は二人が心配で、京を離れることができなくなってしまったのだ。

 それでも、濃姫もお鍋の方も相変わらず強気で、しゃんと背筋を伸ばし、日々静かに楽しく暮らしている。

「月見でもしようぞ」

 八月十五夜、濃姫は総見院で月見の宴を計画した。


 冬姫は当日、日の高いうちから総見院を訪れた。彼女が来た時、既に御台は座って待っていた。

「冬か?──籍が来たのかと思うた」

 随分若いと、濃姫は笑って迎えた。痩せて弱って見えるが、けっこう元気そうである。

「籍がお世話になっております」

「よく訪ねてくれる。しかし、冬は籍とちっとも変わらぬ。三十がらみにしか見えぬ。これは、よほど覚悟した方がよい」

 濃姫はくすくす笑っていた。

「左様に常より老いる速度が遅いのは、常人よりも流れている時間がゆっくりだから。そなたは尋常でなく長生きするぞ」

 冬姫はまだ廊にいた。立ち話のまま、華やかに笑う。

「まあ、嬉しい。必ず百まで生きます」

 ようやく部屋の中へ入って、御台の前に手をついた。続いて二人の男が入ってきて、彼女の後ろに平伏する。

「これは珍しや」

 冬姫が伴っていたのは山鹿六右衛門と小倉作左衛門行隆(孫作行春)だった。

 作左衛門が面を上げると、濃姫が彼に尋ねる。

「近頃、大坂に出入りしているようじゃの。秀頼公に気に入られたとか」

「はっ。お陰様にて」

「それにしても、冬のところは相変わらずじゃな。作左衛門が追い出されるようでは」

 蒲生家は城持の自治に任せていたが、中には民から不当に搾取する者もおり、家臣の統率に秀隆改め秀行は苦慮していた。

 そうした中、岡半兵衛の専横に怒った坂源次郎らが蒲生家を出ていた。

 熱心なキリシタンである作左衛門の領内では、キリシタンが爆発的に増えていたが、作左衛門も岡を許せず、蒲生家を出ていたのである。

 彼は蒲生家の直系、内戚である。彼の父は蒲生定秀の三男、つまり忠三郎の実の叔父。作左衛門自身は忠三郎の従兄弟であり、妹婿でもある。

 また、小倉家は他にも後藤家の、桐の御方の姉を娶った人もおり、信長の側室のお鍋の方の実家でもあるから、蒲生家と最も近い家だ。

 忠三郎の死後、秀行が最も親しみを抱いていた家族同然の一家であり、秀行は作左衛門を父のように慕っていた。

 青地元珍、小倉行隆、どちらも本来は蒲生元珍、蒲生行隆で、秀行との血の近さも同じだが、秀行は生まれた時から傍らにいた作左衛門行隆に懐いていた。

 元珍は籍姫に付いているが、まさか秀行の父のような作左衛門が、秀行の側から離れることになろうとは。

「作左衛門が大坂に仕官できそうであるならば、よかった。冬もひと安心ね」

 濃姫の言葉に冬姫は曖昧に頷いた。

 大御所・家康と秀頼は対面を果たしたが、幕府が秀頼の下に属する筈はなく、秀頼が幕府の下に属するとも思えない。最近、秀頼は前田利政にも接触してきているとか。このまま何事もなく過ぎることを願うしかない。

「ところでそちらの者は?」

 濃姫は同じく冬姫の後ろに控える六右衛門に視線を投げた。

「町野家で預かっている山鹿六右衛門です。会津にいなくてはならない身ですが、連れ出して参りました」

 冬姫は悪戯っぽい表情を見せた。

「会津にいなくてはならない?」

「は、実は」

と、そこからは六右衛門自ら身の上を話す。

「それがしは関家の家臣でございますが、我が主は関ヶ原の戦の後、本貫の伊勢亀山に戻されたのでございます。それがしも亀山におりましたが、ちと子細がございまして、会津の町野家にご厄介になっております。関家は二代続けて蒲生家より奥方様をお迎えし、奥方様の化粧料(所領)も会津にございます。以前、関家は蒲生家の寄騎でもございました縁で、それがしは蒲生家のお預かりとなりました」

 幼くして教会に預けられ、少年期を教会の同宿として過ごし、ロルテスと知己を得た彼。関一政が忠三郎の寄騎だった頃には、忠三郎の直臣となり、何度もローマへ使いに行ったのだ。

「なるほど」

 何についてなるほどと思ったのか、濃姫は頷いた。

 言葉は濁したが、実は六右衛門は同僚を斬り、蒲生家に預けられ、町野家に居候しているのである。同僚は軽傷でけろっとしていたが、さすがに一政も家中には置いておけなかったようだ。

 濃姫のなるほどとは、蒲生家は血の気の多い者ばかりだという意味かもしれない。

「それにしても、作左衛門も六右衛門とやらも切支丹なのであろうに、冬はどうして未だに受洗をせぬ?会津の領民も大半が切支丹と聞くが?」

 濃姫が冬姫を見つめた。

「忠三郎様はデウスのもとにおいでですので。永遠に」

 冬姫は懐に手を当てた。あの阿弥陀像が秘められている。忠三郎の死後は彼女が持っていた。

 生前、一度、『経正』を口ずさみながら、忠三郎が阿弥陀を返却しようとしたことがある。

 戦場で多数の人間を殺した能の主人公達は皆、一度は修羅道に落とされ、地獄の苦しみに襲われる。だが、いずれの人も、やがて僧侶の念仏の功徳により、救われる。

 しかし、『経正』だけは違う。主人公・平経正の幽霊は、救われる前に、自ら僧侶達の前から姿を消してしまう。彼だけは救われることがない。

 その『経正』を口ずさみ、阿弥陀を返そうとした頃の忠三郎は、多くの命を奪った身では、決して救われることはあるまいと思っていたのだろう。

 阿弥陀は信仰するだけで救われるのだという。だが、阿弥陀を信仰することで、殺戮の罪が許されることを、是としなかった彼なのに違いない。

 あの後も、常に彼は戦場に身を置いてきた。不敗の勇将として、いったいどれだけの人間を殺しただろう。

 忠三郎に殺された何千、何万の人間の中には、一向宗門徒の民も多数含まれている。彼等はキリシタンではないから、地獄にいる。

 忠三郎はキリシタンとなり、神を信じ、愛した。彼の不滅の魂は神の国にあって、永遠に神に愛される。

 冬姫は、だが、忠三郎に殺された者達のことを思うと、いたたまれなかった。キリシタンでない彼等は、神の国には行っていないのだ。彼等は皆地獄にいる。

「私は地獄で構わないと思いまして」

 言葉にしたことはないが、忠三郎が殺した者達のもとへ行こうと、決めていた。彼に代わって地獄の業を受けようと。

「そなた、受洗しないと、あの世で忠三郎殿に再会できないのではないか?会えなくてよいのか?」

 あんなに慕った夫なのにと、濃姫は言った。

「私は長生きするのでしょう?百まで生きたら、さすがに皺だらけになって、会っても忠三郎様に気付いて頂けませんわ。名乗りでもしたら、きっと嫌われます。私だって、お若くおきれいなままのあの方のお側に参るのは嫌です。再会したら、きっと自分が惨めでしょうから──」

 冬姫は全くふざけて冗談を口にした。

「だったら、早く死ぬことじゃ!」

「それができないから、キリシタンにはならぬのです。キリシタンでも、自害したらパライソ(天国)には参れませんので、結局、忠三郎さまには再会できません。私は忠三郎様が亡くなった時が、あの方との永遠の別れだと思っております。死後の国は永遠とか。パライソも地獄も永遠。それに比べたら、この世の三十年、四十年などほんの一瞬。百年、いえ、千年も刹那のことでしょう。死後の時間の長さを想像しただけで、ぞっと致します。永遠にあの方はいないなんて、堪えられない……ですから、少しでも死後の時間が短くなるように、私はこの世にできるだけ永く留まっていようかと。百まで、いえ、もっと、誰より長生きしてみせます」

 死後、愛する人とあの世で再会できると信じている人は多い。信じているからこそ、その時を楽しみに、この世で精一杯生ききるのであろう。

 冬姫のように、この世での別れが永遠の別れ、あの世での再会はないものと決意して生きている人は珍しかろう。

「信仰を持てば、お逢いになれまするに」

 神を信じさえすれば、死後、忠三郎と再会できるであろうに、自らこの世での別離を永遠の別離と決めてしまう冬姫が、作左衛門には痛々しい。

「ま、父上も死ねば無であると信じておられた故、その娘らしいと言えなくもない」

 濃姫はそう言って、ゆっくり瞼を閉じた。

「無、ですか……於次殿が亡くなった時、一面雪で真っ白で。無とは真っ白な世界のことかと。死後の世界は雪の中のようなものかと思ったものです」

「御方様……」

 魂の不滅を言いかけて、作左衛門は、しかし黙った。六右衛門も何も言わない。

「雪か……」

 目を閉じたまま濃姫は呟いた。

(無。真白。雪。冬に降る雪は美しく、この娘にこそ相応しいと思っていたが。そう、雪は無か、冬姫よ)

 濃姫は目を開け、微笑んだ。急に表情を改めると、明るく言った。

「夜の月見が楽しみじゃ。夜には三蔵も来るそうな」

「籍も参りますそうで」

「では利政もか?利政はいつまでも気楽な身分よの。さてと、冬が連れてきたそなた達、支度をしてくれぬか」

 濃姫の命で作左衛門と六右衛門が掃除や物の運搬をする。

 やがて掃き清められた庭と廊に毛氈が敷かれ、供物が並べられた。庭の筧の周囲には、藤袴が咲いている。

 広廂に琵琶や和琴、それに秋の食べ物や秋の草花、団子が供えられる。その中に、美しい手鞠が一つ。大きな会津塗の器の上に置かれ、脇に藤袴が一輪添えられた。

 その手鞠を見て、濃姫が嘆息した。

「懐かしや。これは冬が嫁いだ時、父上が贈った鞠よな」

「はい」

「ちっとも色褪せぬ。美しい碧色じゃ。しかし、何故それを供える?」

「これは、この世でございますので」

 十五夜の月に日頃習っているものを供えると、その道の上手になると言われている。例えば、楽人ならば楽器を供え、上達を月に祈念するのだ。

 このような鞠を供えるのは、少し変と言えた。

「ビスカイノという方が、伊達様のもとに行かれるご予定で、途中、会津にも寄られるとか。だから、鞠を天空におわすあの方に見せて差し上げようと思って」

 六右衛門は階下の庭で、眉をやや動かした。

「ビスカイノ殿は江戸の町で伊達様に会われ、知己を得たようです。伊達様は何か企んでいるのではないでしょうか?」

 ビスカイノはカトリックの布教と、プロテスタントのオランダを日本から追放することを望んでいるらしい。また、日本じゅうの探索、特に海岸線の測量をしたがっているそうで、それはスペインが日本を侵略するためだと、六右衛門も小耳に挟んでいる。

 六右衛門はスペインを昔から警戒していた。なおも日本侵略を諦めていないのか。危険過ぎる。家康は今のスペインにそこまでの力はないと、楽観しているようだが──。

「近年は関東以北の地にまでパードレ達が入り込み、ビスカイノ殿に測量までされては──。伊達様と手まで組まれては──」

 天下が欲しいのか、何が狙いなのか、伊達政宗は未だに動きがおかしい。関ヶ原の合戦の最中には、どさくさに一揆を煽動し、己が領地を広めようとしたり、何を考えているのかさっぱりわからない。危険なことだけは確かだと、六右衛門は思っている。

 かつての忠三郎が危険なことを計画していたが、それを知っている六右衛門だけに、今の政宗を警戒しているのだろう。

「イスパニアは相変わらずなのですね。まあ、でも。世界を手に入れると心から思って努力して、ようやく一国を得る──一国を得ることを目指して、ようやく一地方を得られるもの。最初から、自分の領地を固守することだけに必死なのでは、先祖伝来のその地を奪われ、滅びるだけです。つくづくそう思います。イスパニアはこの世の全てをデウスの掌中にすることを建て前に、必死なのですね」

 冬姫は鞠を取り上げ、両手に持った。だが、全ては覆いきれない。

「忠三郎様は、この鞠を──」

 我が子に託そうとしていた。

 だが、自分の夢は自分で努力して叶えるものだと、子に叶えてもらうのは怠慢だと冬姫は言った。そして、未だに彼女は自身でその鞠を持ち続けている。

 忠三郎がその叶えられなかった夢を、託したというのではないが、密かに期待したのが伊達政宗だった。忠三郎は亡くなる直前、政宗におかしな文を書いていた。

 スペインが政宗の手を借りて何かやろうとしているなら、政宗がスペインの手を借りて何かやろうとしているなら──

 忠三郎は心から愉快に思って、政宗の前に立ちはだかるだろう。好敵手よ、だが、天下はやらぬと不敵に笑って──。

「六右衛門殿、会津に帰ったら、ビスカイノ様をお迎えし、お相手をして下さい。そして、伊達家にまで送って行って。伊達様にお伝え申し上げて下さい。世界を掌中にすることを本気で思って、一日たりとも努力を怠らずして、ようやく日本を手にすると。日本を手にすることしか望まないなら、きっと百万石も得られないのです」

 何を言うのかと、六右衛門だけでなく、その場にいた全員が冬姫に目を剥いた。

 忠三郎は、ロルテスが戻ったなら、彼を政宗に譲ると言っていた。そして、六右衛門にもロルテスの補佐をするよう言いつけていた。

「……は」

 ようやく得心して、六右衛門は返事した。

「世界を目指さねば、駄目なのでしたな」

 彼は忠三郎の姿を思い浮かべた。常に忠三郎の目は世界に向けられていた。

 不意に濃姫が搾り出すように笑い声を上げた。

「とんでもないことを、冬……ぐくくく。伊達家に謀反させる気か?日本を転覆させる気か?まったく……なるほど、冬の周囲にはそのような男が四人もおった故のう……そうじゃ、四人の男がいた。皆、天下を目指していたとんだ途方もない男。天下を穫ることばかり考えていた男じゃ」

 既存の社会秩序を壊して、新しい天下を成そうとした男。

 世界へ征服の手を伸ばして行った男。

 堅固たる日本城を築き上げた男。

 日本を西欧と肩を並べるキリスト教国にしようとした男。

「何れも天下人になろうとした男じゃ。冬を生んだ男。冬を愛した男。冬と子孫を同じくする男。冬が愛した男」

 一人は冬姫に天下を示し、二人は冬姫が天下に導き、最後の一人は冬姫が天下をとらせようと躍起になった男だとも濃姫が言った時、冬姫は北方に光る不思議な色の雲を見た。

 秋の夕暮れは早い。空は噴火したように赤く燃え、西にはまん丸な太陽がその姿を大きく広げて見せている。空は赤いが一色ではなく、所々紫だったり藍だったり。そうかと思えば金色だったり、白い雲を黒く陰のように見せたりしている。

 その中で、その不思議な雲は強く銀色に輝き、時に七色にも見えた。

「まあ、面白い変な雲!」

 冬姫が庭で嬌声を上げると、皆も彼女の見上げる方角に目を向けた。その雲を見、確かにと、皆彼女に同意したが、一人濃姫だけは苦笑した。

「冬、空ばかり見上げていないで。足元に灯籠がある、気をつけなされ。そなたは昔から上ばかり見て、足元が覚束ない」

 幼児に注意するような口調なのがおかしく、皆楽しげに笑いさざめき合った。

 あと少しで暗くなる。夜になったら、関ヶ原後、減封されつつも辛うじて所領を確保されている藤掛三蔵や、改易されて悠々自適な利政・籍姫夫妻も来る。それまでまだ少し時間がある。月もまだ姿を見せぬ。

 冬姫は相変わらず雲を見上げたままだったが、急に思いついたように、振り返って濃姫の顔を見た。

「今のうちに、昌林院に行って参ります」

「何を言う。行って帰ってくる前に真っ暗になってしまうぞ」

「でも、母上、あの雲が──」

 忠三郎にでも見えるのだろうか。濃姫は呆れて嘲笑した。

「ああ、もうよい。言い出したら聞かぬのだから。行って来るがよい」

 行け行けと、手を振り払う。だが、そうしながらも六右衛門に命じていた。

「足元が覚束ない故、そなた、ついて行っておやり!」

「はっ」

 薄笑いを浮かべながら、六右衛門は従った。

 冬姫は筧の藤袴を一輪切ると、濃姫に会釈して去って行く。作左衛門が片膝をついて見送った。

 六右衛門が冬姫の後ろをついて行く。まだ明るいが、風が存外強く、冷たかった。


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