叶わぬもの
畿内では各地で大地震の修繕工事が行われていて、落ち着いた雰囲気ではない。
その中でも伏見城の修繕は進んでいて、京都新城の工事も進んでいた。
秀吉は伏見の修繕がある程度になると、新城を出て伏見城に戻って行った。冬姫はようやくほっとできた。
秋に入り、蒲生家に残った家臣達が、しばしば冬姫のもとを訪れるようになっていた。
彼等は皆彼女を誇らしく思っているらしい。そう思わない者は蒲生家を去ったか、残留しても冬姫を訪ねはするまい。
蒲生家大減封の原因は冬姫だと専らの噂。都でもそれは大きな噂になっており、冬姫の耳にも届いている。
自分のせいで家臣達に迷惑をかけたと、また、忠三郎もこの状況に絶望し、立腹しているだろうと、冬姫の心は晴れなかった。彼の天下の夢を、冬姫が潰してしまったのだ。
「殿から、御方様を蒲生家にお迎えするよう仰せつかっております。太閤殿下は危ない状態とか。殿は母上様を宇都宮に呼びたいとお思いなのです」
秀隆が宇都宮に移って半年にもならない今、秀吉は伏見城で死の床に臥していた。
このまま秀吉が亡くなるようなことになれば、益々冬姫は旧臣達に恨まれよう。すぐ秀吉は死んだのだから、少しの間、適当にあしらっていてくれたら、減封されずにすんだのにと。
「殿下に万が一のことあらば、宇都宮にお移り願えましょうや?」
冬姫の思いを察し、家臣達がそう問うた。
秀吉が死んだら、一悶着あるであろう。秀吉の後継者はまだ幼い。きっと織田家の三法師の時と同じ事態になる。三法師を後見した織田家の家臣・秀吉が、いつの間にか天下の座についていたように──。
小牧の戦でその秀吉と争った家康が、今度こそと出てくるに違いない。豊臣家が、かつての織田家と同じ状況にあるのに、家康が何もしないはずがないのだ。
家康が動けば、娘婿の秀隆は当然家康に従うであろう。戦になった時、母が傍にいなくては心配なのに違いない。それに、冬姫が敵の手に渡れば、味方の損害が大きい。秀隆はすでに何事か察知しているのかもしれない。
家臣達は額を床にこすりつけた。
「我等が悪うございました。何卒お許し下さりませ。我等、ご先代様から多大なるご恩を受けていながら、恥ずかしゅうございます」
冬姫に秀吉の側室になれと迫り、追い出したことを言っていた。
「ご先代様の知行を死守することが、ご先代様へのご恩返しだと、思い違いをしておりました。御方様の毅然としたご様子を拝見し、大変恥ずかしく思っております」
忠三郎への思いを尽くすことこそが忠義であると、受けた恩には心で報いることこそが武士であると、今にしてそう悟ったと詫びた。
「ですから何卒、蒲生家にお帰り下さいませ」
今後は冬姫を手本にしたいと、男泣きする家臣達。
冬姫はやがて伏見に迎えられることになる。だが、それは秀吉の死後のことだ。
冬姫が家臣達と対面していた頃、まさに秀吉は臨終を迎えようとしていた。
意識なく昏々としていることが多かった。また、目覚めても、朦朧としていることがほとんど。
よく信長の夢を見た。どんな夢なのか。蹴飛ばされ、あるいは張り倒されているのか。気の毒なほど、ひどく怯えて許しを請うていた。
その秀吉、臨終を前にして、突然頭がすっきりしていた。最近では稀なこと。
手を翳して六指を眺め、満足げに頷いた。
「まことの異形……わし」
傍らにいた北政所には聞き取ることはできなかった。
「異形擬きは……結局……」
「殿下」
ふくふくと笑う秀吉に、聞き取れなくとも北政所は笑顔になった。彼女は母を亡くしたばかりでもある。
「今日はご気分が宜しいのですね?」
「……わしはもう……結局頼れるは徳川殿しか、日本を頼み……豊臣は、駄目か。日本か豊臣か」
三成では駄目だと思った。
「……撤兵は、ならぬ……朝鮮どころか、明まで……」
ひゅうひゅう喉が鳴る。途切れ途切れで聞き取り難い。しかし、北政所には辛うじて朝鮮のことを言っているのだと、通じた。
「ですが、兵達は皆苦しんでおります」
秀吉は明を手に入れたいらしい、とんだ誇大妄想だと、人々は迷惑がった。そして、こんな愚かな計画は失敗に終わるに決まっていると、百人なら百人が思っていた。
「我等は勝っておる。だが、勝ち負けは、関係ない……明まで討てる、余力がある。見せつけ……」
たとえ負けても、朝鮮から撤兵してきてはならない。
「明など、実のところはどうでも……撤兵、などしては……イスパニア……」
(今にして愚策であったと思い知ったわえ……コエリョめ、何故わしに明を攻めてくれと言ったのか、ようやくわかった。奴らに侵させまい、譲るまいと出兵したが、出兵してはならなかったのだ……しかし、出兵してしまった以上、断じて撤兵してはならない。たとえ大敗したとしても、撤兵しては、それこそイスパニアの思う壺だわい)
そこに、コエリョかフェリペ王でもいるかのように、天井を睨んだ。
「殿下?」
「奴らの狙いはこれなのだ……」
戦って損害が出ているのは、日本だけではない。朝鮮も明もだ。
日本が朝鮮から撤兵してきたら、朝鮮には、疲れきり、傷付き数少なくなった朝鮮兵だけが残る。これこそがスペインの狙い。
(日本が撤兵するのを奴らは待っているのだ。最初から、わしが朝鮮を制圧できないことを、奴らはわかっていたのだ。日本と朝鮮・明を戦わせ、制圧できないと諦めた日本が撤兵したところを、イスパニアは攻め入るつもりだったのだ、最初から。日本によって、弱りきった朝鮮。奴らはそこを攻め、それを容易に手に入れ……ああ、そうしたら、次の狙いはいよいよ明か、それとも日本か?サン・フェリペ号のイスパニアの奴輩めが、イスパニアの軍勢が襲来してくるの、日本を攻めるのと、ほざいたわな!)
ぎくっとしたように、信長に魘された時のような顔になった。
今になってやっと、スペインの、ポルトガルの、そしてコエリョの本当の狙いがわかった。
「唯一、日本に攻め入ることができた地……朝鮮」
朝鮮は、蒙古に従い、日本に攻めてきた高麗のあった地だ。
(駄目だ、断じて、イスパニアに朝鮮を得させてはならぬ!)
「わしが間違っていた……されど、始めてしまった以上……」
仮に負けたとしても、撤兵してきてはならぬ。スペインの脅威がなくなるまで。
「間違い?」
北政所は出兵が間違いだったという所だけ聞き取れた。
「三成は……駄目だ……」
彼はわかっていない。
ずっと撤兵したがっている三成では。
(伴天連め!もう戦はならぬ、日本人も朝鮮人も苦しめてはならぬと、本音を隠して武将どもを騙し、朝鮮に攻め込ませておきながら、すぐに撤兵させようと必死になりおって!何が愛だ!三成も行長も誑かされおって!──撤兵撤兵撤兵撤兵!皆そればかり!わかっておらぬ!)
わかっていた者は──
──朝鮮一国を賜れ──
(そうか、忠三郎だけであったか)
忠三郎の若い端正な姿が思い浮かんだ。
(異形擬きが!)
忠三郎だけがわかっていたのだ。スペインの思惑を。
そういえば、当初忠三郎は朝鮮への出兵を反対していた。信長も明への野心を窺わせていたようだったのに、全く準備している様子がなかった。
朝鮮出兵に反対していたのに、いざ出兵してしまったら、己が朝鮮を固守すると豪語した忠三郎の、あの時の姿──
(忠三郎、わしとそちだけじゃな!)
大した奴めと面影に言ってやった。
忠三郎の面影は屈託のない笑顔であり、腕に冬姫を抱えている。冬姫は愛おしそうに忠三郎を見上げており──
「くそっ!」
秀吉は面影に毒づいて、しかし、苦笑のようなかすかな笑みを紛れさせていた。
「殿下?」
また昏々として。それきり意識も覚束ないまま一日半過ぎ──ついに息を引きとった。
慶長三年八月十八日。
忠三郎の死より三年、蒲生家の大減封より数ヶ月。
秀吉は家康に日本を託して逝った。




