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渇愛(下)

──冬姫さま、冬さま──

 どこからか声が聞こえたような。同時に冬姫の手元は狂わされ、刃は彼女の首筋をすり抜ける。

「……忠三郎、さま……」

「ぎゃああああ!」

 秀吉が尻餅ついて、喚いた。目が血走っている。

 冬姫は、はらりと髪が頬にかかるのを見た。ぽとりと刀を取り落とし、そして、手に握っているものを見やる。

 美しい髪。長く真っ直ぐに伸びた艶やかな髪の束。

 彼女は自分でそれを切り落としていた。

 手にした髪を見つめ、冬姫はその場に崩れるように座り込んだ。

 血が涙のように首筋をすっと伝って、彼女の死に装束をほんのわずかに染めている。

「ひ、姫さま姫さま、何ということを!」

 冬姫の髪の長さは、秀吉が初めて彼女に出会った頃と同じくらい。

 ぽとりと畳に落ちたのは涙。血ではなく涙だった。

──御身は私を愛している──

 忠三郎の言葉が頭に響く。

「忠三郎さま……」

 涙は幾つも幾つも落ちた。

 忠三郎にさえ見せたことのない涙を、秀吉に見せようことになろうとは。

「忠三郎さま……忠三郎さま……」

 髪を抱きしめ、冬姫は何度も呟いた。その度に珠のような涙が零れる。

「忠三郎さま」

 涙に洗われる度に、彼女の顔は清しく輝いていく。

 感涙──秀吉にはそのように見えた。それに見とれ──。

「忠三郎さま」

「しいっ!」

 やがて、尻餅ついた体を起こし、秀吉は自分の唇に人差し指を押し当てた。

 初めて会った日に、木の上から幼い冬姫にしたのと同じように。同じような眼差しで。

「もうその名は、呼んでは駄目じゃ」

 幼い子をあやすような口調で言った。

「このまま、この秀吉のそばに居ませ、姫さま」

 冬姫は首を横に振る。首を動かす度に、髪が頬にかかる。首筋にかかった髪には、血がついた。

「痛いじゃろう?ほれ、手当てして進ぜよう」

 秀吉が伸ばした手を、さっと払った。

「姫さま……」

 はあっと秀吉は物凄く大きな溜め息をついた。

(死してなお、冬姫の体を縛り付けるか!)

 忠三郎が憎かった。

「姫さまをお帰しするわけにはいかぬのじゃ。姫さまがどんなに奴を想おうと、わしは姫さまを返さぬぞ」

 冬姫は我に返った。

 髪を下に置き、襟を整え座り直すと、南蛮の小刀を収めた。そして、凛然と返事した。

「お断り申し上げます」

「それは許されぬ。姫さまはわしの側室じゃ」

 秀吉は睨みつけると、胡座する。が、何故かすぐに下を向いた。

「姫さまのお心がわしになくても構わん。ずっと奴を想っていても良い。わしは姫さまを傍に置く!──そう心配せんでもわしは……わしは、もう男ではないのじゃ……」

 何と愚かなことをしたのかと、冬姫の切られた長い髪を眺めた。

(わしは小便さえ己で管理できんようになった。冬姫をこの手に抱き、愛でようとも、完全に愛で尽くし、一体になることはできぬ)

「……名目上の側室となるだけじゃ」

 遅かった。もっと若いうちに欲しい人を奪っておけば──。

 忠三郎は、冬姫を人質に寄越せと言えば、妹を寄越し、有馬で手籠めにしようとすれば、妹を用意して、いつも邪魔してきた。それでも、無理矢理押し入ろうと思えば、できないこともなかったはずだ。

 顔を上げ、冬姫を見た。冬姫は凍りの月のようだ。

「私の身を勝手にできるのは、夫だけです」

「姫さま!」

 秀吉の目にぶわっと涙が涌いた。

「こんなに懇願してもか!?」

 おいおい泣き出す。

「……わかった。側室にはせぬ。だが、一度だけ、冬姫さまの御唇に触れさせてくれぬか?」

「いいえ!」

 秀吉は泣いたまま、ふっと笑った。

「傷の手当てをせんと」

 秀吉は涙を拭きつつ立ち上がり、人を呼んだ。

「また戻って来る」

 一度冬姫のその姿を貪り見ると、出て行った。

 すぐに若い医師が現れた。見覚えがある。確か、秀吉が忠三郎に寄越した施薬院全宗につき従っていた者だ。

 医師は冬姫の様子を見て頷き、安堵した様子で言った。

「傷は極めて浅く、心配ありません」

 一応治療はするのか。薬剤などを取り出し始める。

 そうしている間に、もう一人入ってきた。

 あっと思った。相手は驚いたようで、冬姫を見た途端、眉根を寄せた。

「三蔵さま」

「冬姫さま、これは──」

 藤掛三蔵だった。

 三蔵は人を呼ぶと、何事か命じた。

 医師が冬姫の首に薬を湿布する。血止め薬のようだ。そして、治療を終えると、冬姫のことをしげしげと見つめて。

「会津宰相殿のご内室様を──死してなお宰相殿は守っておられるのですなあ」

「どういうことでしょうか?」

「いや」

 何でもないと言って、医師は片付けると、立ち上がった。

「宰相殿は殿下に大それたことをなさったものです。殿下は治りませぬ」

 医師はそう言い残して去って行った。

 医師と入れ替わりに現れた侍女から、美しい唐綾の被衣を受けとると、三蔵はそれを冬姫に被せた。頭から被われたことで、髪の長さがわからなくなり、普通の女人と変わらぬ様子に見える。

「そうしていると、やはり姫さまは絶世の美女であらせられる」

 三蔵は美しい冬姫に悲しげな声を投げた。

「これほど美しい方が、これほど美しい玉の御髪を、惜しげも躊躇いもなく、御手ずから切り落としてしまわれるとは……」

 三蔵は懐紙を取り出し、その翠の黒髪を丁寧に包んだ。

「姫さまにここまでさせる宰相殿はまこと恐ろしい方です。姫さまもこんなに夢中になられては──」

 大名の娘は、たとえ相手が夫であっても、恋をしてはいけない。しかし、三蔵はそうは言えなかった。

「ところで、それがしは殿下より姫さまの監視を仰せつかっております。殿下は姫さまを帰してはならないとお命じになりました」

「三蔵さま!私はここを出たいのです」

 冬姫は縋るように訴える。

「殿下はそれがしを寄越されたわけですから──」

 三蔵は立ち上がった。

「行きますか?」

 冬姫は頷いた。それでも三蔵を気遣う。

「それで、三蔵さまにご迷惑がかかりはしないでしょうか?」

「家臣の迷惑も考えないくせに、今更何だっていうんです?」

 くすっと笑って三蔵は歩き始めた。冬姫はその後ろをそっとついて行く。

──己を愛するように隣人を愛せ──

「私は夫しか愛せない……」

 小さく彼女は呟き、死に装束の襟を着物の上から掴んだ。

「蒲生家には、お返しできませんぞ」

 前を進みながら、三蔵が話をする。

「実は先程、次兵衛から助けを求められました。次兵衛によれば、蒲生のご家中では、冬姫さまがお出座しになった直後、山三殿や水野など、姫さまのお身内や織田家縁の側近衆を追い出してしまったそうです。そして、冬姫さまは豊臣に入られたお方ゆえ、姫さまが戻られても、中へお入れ申すなと申しているとか。ご家中益々荒れているとのこと。殿下の御意もありますが、落ち着くまでは暫く帰れないかと」

 三蔵は冬姫を雑人用の門へと導いた。何故かそこには輿が用意されており、冬姫はそれに乗せられた。

 門を出て、三蔵が冬姫を連れて向かった先は、土御門。文禄元年から土御門に移転した百萬遍知恩寺であった。

 その中の塔頭。冬姫の弟で、秀吉の養子となった於次秀勝の菩提寺の瑞林院は、先年冬姫が創建したもの。おそらく三蔵は、冬姫が伏見城から出たいと願ったならば、瑞林院に住まわせるようにとの、秀吉の内意を受けているに違いない。

 輿から出た冬姫は、そこで得度した。それを見守った三蔵は溜め息をついた。

「これでもう殿下のお怒りは鎮まらなくなったでしょう。蒲生家の未来はどうなることか」

 尼になってしまうなぞ、結局、冬姫も嫁ぎ先を潰すことになるのか。

 昔、忠三郎の祖父・快幹軒定秀が、冬姫に警戒したものだ。忠三郎が冬姫の美貌に溺れ、蒲生家を傾けるのではないかと。だが、まさか冬姫が忠三郎の愛に溺れて、蒲生家を危うくしようとは、祖父も思いもしなかったに違いない。


 冬姫が出て行ったと知っても、秀吉は寂しく微笑んだだけだった。だが、三成を呼ぶと、うって変わって恐ろしいことを命じた。

「蒲生の小童を殺せ!イエズス会に必ずキリシタンになると約束したそうじゃ!父親が父親なら、子も子、あれは悪鬼だ。糞と反吐でできた不浄の悪の権化だ!あの汚い奴が、わしの天女を犯し続けて孕ませた餓鬼。わしが、指一本触れられなかったのに、彼奴は毎夜……奴の胤だと考えるとぞっとする。あの小童は存在してはならぬのだっ!」

 三成はその意を受け、また隼人を呼んだ。

 一方、蒲生家では、冬姫が秀吉を拒絶したことを知って、家臣達は激怒したり落胆したりした。一部の者はあっぱれだと冬姫を讃え、また、そこまで忠三郎を慕う彼女を健気と感じたが──。






****************************

 秀吉でも、鶴千代を急にどうこうすることはできない。手を出せずにいる間に鶴千代は元服して、名を藤三郎秀隆と改めた。

 そして、ついに会津に国入りした。

 鶴千代改め藤三郎秀隆は家康の娘・振姫と婚約した。だが、まだ輿入れには至っていない。人質として上方に置いておく妻がないので、秀吉は冬姫を在京させた。

 冬姫は瑞林院に留め置かれ続けていた。彼女は遠き会津に赴く我が子にも会えぬままだったのである。

 冬姫には辛いこと。だが、生前の忠三郎が、神より与えられた命を、勝手に終わらせてはいけない、自害してはいけないと言っていたことを思い出す。

 忠三郎への貞操を守るためであれ、死んではならなかったのだ。死のうと思って秀吉のもとへ赴いたのは、誤りであった。

 こうして生きたことによって、より辛い未来が待っていようとも、それにも堪え、受け入れなければならない。

 冬姫は会えぬ我が子との別れを、ひたすら堪えた。遥か遠い会津に思い馳せ。

「旅人の宿りせむ野に霜降らば吾が子羽ぐくめ天の鶴群……鶴千代君……」

 我が子を案じ、天空彼方の忠三郎を思った。

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