渇愛(中)
通されたのは、随分奥まった場所だ。側室が秀吉と対面する所であるらしい。隣室の襖の奥には、閨が設えてあるようだ。
冬姫はしばらくそこで待たされた。
秀吉が床板を踏み鳴らして跳ねるように現れたのは、一刻ほど経った時である。
「姫さま、よう来て下されました。お痩せになりましたなあ」
秀吉は座りもせず、いきなり冬姫のすぐ前に来ると、いつものような屈託のない笑顔を見せた。頬には暗さも、目には妖しい光も垣間見えず、いつもと変わりないいたわりに満ちていた。
秀吉は年をとった。実年齢より遥かに年老いて見える。
冬姫は両手をついた。秀吉は半歩下がって座り込む。
「何度も具合が悪いと断ってこられましたな。まことにお痩せになられた。それほど悩まれたかな?」
冬姫はそっと面を上げた。秀吉はなおいたわるような眼差しを向けている。
「それほど嫌がる冬姫さまを、ついにはわしのもとへ献じてしまうとは、蒲生の家臣は不忠者ばかり。さぞお辛かったでしょう」
冬姫は目を瞬いた。話が間違ってはいまいか。
「蒲生家には色々な輩があり、わしの息のかかった者もおる。そやつらから聞いたが、姫さまは随分強情に拒まれたそうじゃの。そんな姫さまを我が儘と罵る者ばかりであったと。許せぬ!」
「あの、殿下は……?」
そもそも秀吉が冬姫を召し出したせいではないか。秀吉が蒲生家に怒るのは変だ。
「このままわしのもとに居ませ。奴らのもとに帰ってはなりませぬぞ。奴らは危険じゃ。若君もわしが育ててあげる」
結局そういうことだろう。そして、秀吉の本心は蒲生家解体にある。
(冬姫を豊臣に入れたら、蒲生は潰す。会津は安心できる家に任せる)
「殿下は何故、当家に憤慨遊ばされるのでしょう?」
「だって姫さまは忠殿が亡くなって、ご苦労なさいましたろ?忠殿が死は奴らのせいじゃ。奴らの中には、未だ下剋上を夢見る時代遅れや、元の主に未練を残し、忠殿に復讐を企む者もいる」
「まさか!」
「伴天連と結託して、忠殿に謀叛を起こさせようとしていた者がおることも、承知しておりますぞ。キリシタンの忠殿を天下人にすれば、戦無しに日本を制圧できる、イスパニアのその意向を受けた伴天連どもに乗せられたのじゃろう。忠殿が築き上げた危険ではありますが」
だからこそ、秀吉が忠三郎を葬ったのではないのか。
確かに忠三郎は謀反を企んでいた。だが、天下の座についた後は、日本をスペインに献じるつもりは全くなく、伴天連には乗せられていない。
むしろ、スペインや伴天連の思惑に対抗するような言動をしたため、伴天連には疑われたのではないか。
秀吉への謀叛が成就したあかつきには、日本を何者の手にも渡さず固守したまま、日本の秩序を全く変えようとしていた。宗教をがらりと変え、日本を唯一絶対なる神に立ち返らせ、原点に戻るべきだと考えていた。
だが、それがこの世の根本で、それが正しいとしても、今の日本から見たら反逆だろう。
秀吉の言うように、忠三郎が家中の者に殺されたなら、それは秀吉がその者に密命して殺させたのではないのか。
ただ、秀吉は為政者だ。天下人として逆賊を討つのは当然である。
だが、逆賊であっても、冬姫はその逆賊の夫を正義と信じている。
(冬姫よ。謀反企んだ蒲生は解体せねばならん。忠三郎は死んだが、今度は鶴千代を奉じようとする者どもがおろう。すまんな、姫がわしのものとなっても、蒲生家は維持してやれぬのじゃ)
秀吉は冬姫を不憫そうに見つめた。
「とにかく、蒲生家は危険がいっぱいじゃ。わしは姫さまを、忠殿を殺した家臣どもから守りたかったのよ。だから、どうしても呼んだんじゃ。しかし、ここまで拒まれるとは思わなかったよ。そんなにわしがお嫌いか?」
すっと手を伸ばした。はっと冬姫はその六指を避ける。
秀吉はそこで動きを止め、その六指を睨みつけた。
「そんなにお嫌か?わしにここまでの想い抱かせながら──。だったら、どうしてわしに優しい言葉をおかけになられた?何故、珠玉の言葉でわしに期待を抱かせたのです?」
「私は夫の妻です……私はただ、夫を想っているだけで……」
声が震えた。
「姫さまは双瞳は嫌じゃと仰せられたではないか。虞姫になりたくないと。なのに、何故そんなに忠三郎ばかり見ているのです。わしは!……姫さまが大事じゃ!わしがここまで来れたのは、姫さまが、この忌々しい指を褒めて下されたが故。それなのに!」
冬姫は困惑するばかりだった。
「姫さまへの想いは忠三郎には負けない!想いの強さなら、忠三郎以上じゃ!」
秀吉は悲しげに六指を見下ろしていた。
幼い頃、言ったことさえ忘れてしまったような些細な一言。それが、これほどまでに偉大な一人の人間に、ここまで大きな影響を与えていようとは。
「何故です?いつから?いつからそんなに忠殿がよくなった?」
秀吉が身を乗り出して問いつめる。その目に冬姫はたじろいだ。だが、ここで負けては、彼女はこのまま秀吉に組み敷かれてしまうだろう。彼女は必死に言い返した。
「初めて会った時から、一目で恋に落ちました!理由なぞありませぬ。ただ夫を一目で好きになったのです」
「項羽は嫌じゃと仰っしゃったではないか!」
「はじめは──」
ロルテスの言葉を口にした。
ロルテスの故郷イタリアか、ポルトガルかスペインか、それに対立するオランダかイギリスかは知らぬが、西欧では近年、一目惚れこそ真実の恋だと言われているという。
だが、その一目惚れには、憎悪や嫌悪、憤怒も含まれる。一目見て、何かしらの強い感情を覚えること、それが真実の恋だというのだ。
「私は夫を無礼者だと思ったのです。強く怒りを覚えました」
かの阿弥陀像を押し付けたほどに。
「だから双瞳は嫌じゃと?それは矛盾していないと?忠殿に怒るは恋じゃと?──何かしら感じる……なれば、わしも姫さまに一目惚れしたのじゃな」
秀吉は思い出す。木の上の秀吉を見上げた冬姫を。
頭上に注意する者など、めったにいない。頭上を忘れるは、人間の不可思議な性質だ。なのに、その性質を利用して木に登り、お市御寮人を盗み見た秀吉を、幼い冬姫は見つけてしまったのだ。
その衝撃。
その時の黒い澄んだ穢れのない瞳。
そして、六指は王者の証と言ったその言葉。
秀吉は忘れない。ずっと焼き付いている。あの時からずっと冬姫を見てきた。
「わしは姫さまを一目見て、ずっと見守りたいと思ったのじゃ。ずっと見ていたいと」
幼女に一目惚れする男など、おかしいかもしれない。だが、あの時、冬姫に感じた驚きは、一目惚れに含まれるのだろう。
(わしの醜さを初めて……)
秀吉、急にそこで思い得た。
「いっひゃひゃひゃっひゃっ」
不意に奇妙に笑い出したので、冬姫はぎょっとして、身を仰け反らせる。
「初めて会った時に、何かしらの強い感情を覚えたら、それは一目惚れじゃと?ひゃひゃひゃ!わしは、わしはいつもこの醜悪な姿で、初めて目にする者に嫌悪感を与えてきた。わしを見て、男も女も醜さに笑い、嫌悪したものぞ。それじゃ皆わしに一目惚れしたことになるわい」
だが、秀吉は実際多くの人間を魅了し、彼等の手を借りて、天下を手に入れた。
「異形は王者、確かにな。異形を目にした者は、一目で嫌悪する。そうして、この醜いわしに、どうしようもなく従いたくなって、わしを天下様に押し立てたわけじゃな。わしのこの醜さが、道を拓いたのじゃ。姫さまはまことに良いことを口にされたものじゃ。わしはこの世の全ての人間を、一目で惚れさせた!」
異形は王者の証と言った幼き日の冬姫は、やはり素晴らしかった。
「だがよ、姫さま」
秀吉はそこで急に笑いをおさめ、真顔になり、ややさし俯いた。
「誰しもわしを一目見て嫌悪するのに、姫さまだけは褒めて下された……姫さまはわしを見ても何とも思われなかったのですな……わしを嫌悪しなかった」
秀吉の感情の波は烈しい。いきなり顔を上げると、冬姫を睨みつけた。
「つまり、姫さまは忠三郎には怒ったのに、わしには優しい言葉をかけて……わしを嫌悪されなかった。わしに惚れては下さらなかった!」
「……殿下……!」
目が暗かった。冬姫によからぬ予感がよぎった。
「世の中の皆がわしに一目で惚れるのに、わしの大切な御方は、大切な御方だけが、惚れて下さらなかったのじゃっ!」
いきなり突っ立った。冬姫目掛けて手を伸ばす。冬姫も立ち上がり、後退った。
「殿下っ!」
冬姫が逃げかける。しかし、狂気の秀吉の動作は異常に速く、冬姫の襟を両手で鷲掴みに掴んでいた。そして、その勢いのままざっと襟を開く。
ぼとっ。
その拍子に何か下に落ちた。
秀吉は硬直した。襟を掴んだまま。寸前までの乱暴が嘘のように。
落ちたものの音もその姿にも気づかず、冬姫の胸元を凝視していた。
「姫……」
冬姫の襟の下から現れたのは、死に装束であった。
秀吉が茫然とそれを見ている。はっと冬姫はその隙に身をよじり、秀吉の両手を振り払って、そのまま素早く畳に落ちた物を拾い上げた。
銀に宝石がいくつも埋め込まれた、小さな細長い小刀。南蛮製の珍しいそれ。
拾うが早いか、冬姫はそれを抜いた。
秀吉、はじめて意識が戻り、
「ややっ、わしを殺す気か?わしを殺せば──」
と、半歩後退る。
冬姫とてこの場で斬られる。しかし、差し違えてもと、覚悟を決めているであろう。
「いいえ!」
けれど冬姫は、刃を己の首にあてがった。
「ひひ姫さま!」
「殿下は日本の要。なくてはならない御方ゆえ、今殺すわけには参りませぬ」
「やっやめなされ。いったい何をお望みか。望みなら、何でも叶えて進ぜましょう。秀吉、冬姫さまのためなら、天下だって差し上げられる。だから、やめなされ」
「望み?天下?私が欲しいのは……」
秀吉が隙あらば刀を取り上げようと、右足を前へやや擦らせる。
「私は忠三郎さまの天下が……ええ、殿下、忠三郎さまに天下を下さいませ!」
冬姫は声を張り上げた。
「隠谷の蘭ではないのです!あの方は死んでも死にきれないと仰有った!蘭なのです、天下は忠三郎さまのもの!」
冬姫の目は光っていた。
「わわ、わかった。わかったから、その危ない物をこっちに寄越しなされ」
しかし、冬姫はかえって刃を皮膚すれすれに近づける。
「わしのものは若君に遣わそう。天下を若君にやる、のう?」
「いいえ!」
冬姫は強く頭を横に振った。
「忠三郎さまに!」
「そうしてあげたいが、忠三郎はもう亡いではないか。無理なのじゃ。だから、忠三郎の嗣子に。それで忠三郎が天下を得たことになろう。姫さまとて我が子を天下様にしたいじゃろう?」
「思いませぬ」
「なに?」
「あの子がそれを望むなら、そして、それに相応しい器量なら、私も援けます。でも、天下に血筋は関係ありませぬ。もし、それに拘るならば、私はとうの昔に殿下に、秀信(三法師)に返してと申し上げておりました。天下は忠三郎さまだけに相応しい、忠三郎さまだけのもの!下さい、忠三郎さまに!」
秀吉は困惑した。
「それだけは無理じゃ。忠三郎は死んだんじゃよ。諦めなされ。それに──」
秀吉は冬姫には言うまいと思っていたが──。
「……忠三郎はわしに一服盛るような男じゃ」
盛ったのは毒ではないが、病気の者にとっては、薬草も害になる場合もある。
「そんな男のために、死ぬことはありますまい。さ、それをこちらに寄越しなされ」
右手を差し出した。
冬姫はふるふる首を振って拒否した。
秀吉とて、忠三郎を殺そうとしたくせに。いや、実際殺したのかもしれない。
「私だって、忠三郎さまが生きておいでだったら、自分ではなく殿下を殺すところです!こんな絶好の機会はありませぬ。でも、忠三郎さまはもういらっしゃらない故……天下は、殿下にお守り頂くしか……だから、私が死ぬのです」
「姫さま……」
(忠三郎に天下を譲らぬ限り、死ぬというのか?わしに抱かせる条件は、天下を忠三郎に譲渡することだと?)
秀吉は脱力した。
「辱めを受けるくらいなら死ぬか……」
ぽつりと呟いた時、冬姫がその珠のような白い肌を、刃で切り裂かせた。




