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渇愛(上)

 冬姫が心痛のあまり病んでいる、そのため参上できかねると次兵衛が断ってからしばらくして、また秀吉が冬姫に側室になれと言ってきた。なお具合が悪いと答えると、さらに秀吉はしつこく言い寄ってきたのである。

「そこまで病んでおられるからこそ、お慰めしようと申している」

 秀吉は苛立っているらしい。使者の口ぶりからもわかる。一度や二度なら我慢してやるが、それ以上は許さぬ。暫しの間なら待ってもやるが、それ以上は許さぬ。ということのようだ。

「これ以上焦らされたら、殿下は蒲生家の不忠を咎められましょうぞ。すぐにも蒲生家との縁組み、取り纏められるべし」

 使者は脅してきた。

 冬姫はよろよろと倒れ込んだ。

 どうして秀吉はこうもしつこく言い寄ってくるのだろう。冬姫には理解できない。

 冬姫は本当に窶れていた。

 彼女もすでに三十代の半ば。

 ところが、やつれても痩せても、一向に容色が衰えないのだ。やつれているのに、肌はなお透き通り、白く艶やかで、髪も輝き潤い、美しいままだった。

 それどころか、やつれて愁いを帯び、透けてしまっている姿が、かえって惹き込まれる。これがいわゆる未亡人特有の魅力とか、色香とかいうやつなのかもしれない。

 なお若く美しい。そこに儚さと、放っておけない愁いとが加わって、冬姫を見慣れた家臣達でも、その色香にどきりと、思わず迷いかける。

(姫さまはどうしてこうも美しく生まれてしまわれたのか……)

 一人次兵衛だけは、冬姫の国色振りを気の毒に思う。

 そして、ある時遂に、秀吉から迎えが来た。

「御方様、迎えまで来られては、これ以上は拒否できませぬ」

 源次郎を牽制して、彼を鶴千代のもとに行かせた隼人が、冬姫の所にやって来てそう告げた。

「何故?私は亡き殿をお慕いしているだけなのに……どうして殿をお偲びしてはいけないの?」

 冬姫は珍しく気弱な言葉を吐いた。

 隼人もそれには同情する。彼とて、秀吉の執心を気の毒に思うし、冬姫の忠三郎への想いをいじらしくも思う。

 忠臣は二君に事えず、

「貞女は二夫を更えずと申しますのに……」

「ですが、御方様、もうどうしようもございませぬ。及ばぬところ」

 冬姫の双眸は赤みを帯びていた。しきりに瞬きをする。その都度かすかに睫が凝って行った。

「これは政治にございまする。古くから、美人計なるものもございます。御方様のお麗しさは武器。その武器であれば、殿の望まれた夢も掴めましょう。そして、若殿を天下人になされませ。殿の果たせなかった夢を、若殿に──」

 隼人がそんなことを望んでいるとも思えないが、冬姫に決断させるために言ったのだろう。

 だいたい、どうやって鶴千代が天下人になれるというのだろうか。

 母子ともども秀吉の世話になるということか。冬姫が秀吉の室に入り、鶴千代は連れ子として、秀吉の養子にでもなるというのか。

「お支度を──」

 隼人が促した。

「忠三郎さま、お逢いしたい」

 かすかに冬姫が口にした。隼人には聞こえていないのか、彼は控えていた腰元達に、支度を言いつけた。

 冬姫の周りを腰元達が取り囲んだ。隼人が下がり、秀吉の迎えのもとへ行く。

「お召し替えを」

「自分で支度します」

 冬姫は腰元らの手を借りるのを拒み、一人隣室に閉じこもった。

 無性に忠三郎に抱きしめられたかった。

 彼女は自分で自分を抱きしめるようにした。だが、彼女の腕には、忠三郎のような熱はない。

 いつも寄せられた息吹きの熱さも、男にしては柔らかな髪も、力強い腕も、優しい唇も、甘やかな声もない。どこにも。

「忠三郎さま……」

 彼以外の人間に触れられるなど、想像もできない。彼女は忠三郎以外の人間の体温を知らない。

 初めて忠三郎に抱かれた夜のことを思い出す。

 冬姫はとても恐かった。忠三郎にちょっと触れられただけで気絶したほど。なのに彼は容赦しなかった。

 恐いのに。逃げたいのに。彼に触れられると、身動きできなかった。

 そうして彼の悦びに、冬姫も幸せを感じた。

 あの日から、忠三郎しか知らないのに。

 秀吉にあのようなことを──

「嫌!」

 冬姫は激しく瞼を閉じた。

 やがて、迎えの使者の前に現れた冬姫は、驚くほど凛然としていた。

──己を愛するように汝の隣人を愛せ──

 ふと、彼女の脳裏にその言葉がよぎった。

 見知らぬ無数の人々のため、自分の命を犠牲にすることさえできる愛。忠三郎なら──。

 冬姫は家老達に見送られ、秀吉のもとへ向かった。


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