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守るべきもの(上)

 五年前、松坂から小田原に向けて出陣した時から、忠三郎の運命は狂い出した。出陣したのは二月七日。狂った歯車は、丁度丸五年、ぴったり二月七日に彼自身の死をもって止まる──


 常に秀吉の目があった蒲生屋敷に於いては、オルガンティーノと直接会うことは叶わず、日本人修道士が一度来訪したのがやっとのこと。忠三郎は秘蹟も授かることはできず、大覚寺の中に、新たに彼のために開基された昌林院に埋葬されるしかなかった。

 その全てを取り仕切った鶴千代は数え十三歳。

 十三といえば、同じく幼名を鶴千代といった忠三郎が、信長の人質となった年齢だ。忠三郎は岐阜で人質として立派にやってはいたが、元服前であり、父も祖父も健在で、大人の庇護下にあったのだ。信長にその才を愛でられた忠三郎でさえ、そのような環境にあったのに。

 同じ年齢で鶴千代は、厄介な会津の地の、それも九十二万石もの大領を継ぐことになった。

 太閤秀吉は、

「会津を取り上げ、鶴千代を近江に帰す。二万石を与える」

と、忠三郎の死の直後、一度は認めた鶴千代の会津相続を覆し、このような新たな命を下した。

 鶴千代本人には何の非も落ち度もなく、その会津相続は関白秀次が認めている。だが、秀吉は幼少の身では会津は治められまいと憂えるのだ。それに、あの家臣団──狼虎どもを統率できるはずがない。忠三郎でさえ手を焼いた。忠三郎が留守にしただけで、一触即発の事態を招いた。

 鶴千代には二万石でちょうどよい。

(故郷に帰してやるのだしな)

 ところが、これに反対する者が続出した。それぞれに思惑もあってのことだが、冬姫や鶴千代を気の毒に思ったのも事実である。

「しかし、亡き飛騨の検地に不正があった。不正があったなら、領地は召し上げじゃ」

(いや、あの家臣どもの企みであろう。奴らはキリシタンばかり、何らかの企みもあるに相違ない。さような蒲生家に数万の軍勢を与え続けるのは危険過ぎる。奴らは日本国外に追い出し、蒲生家を最弱にせねば!)

 秀吉は忠三郎の検地に不正があったと難癖をつけた。前田利家などは、そんな秀吉に怒って出仕しなくなった。徳川家康も、まあまあと宥め。

「関白殿下も会津相続をお許しになったことですのに。太閤殿下が別なことを仰せになっては、混乱致しましょうぞ」

「秀次め、ええい、余計なことを!」

 忌々しい奴だと秀吉は苛立った。

「殿下、まあここは鶴千代殿に相続させなされ。この家康が責任をもって、蔵入り領を正しき石高に訂正させます。そして、家康が引き続き、しかと蒲生家を監視致しますゆえ」

「監視じゃと?」

 そういえば、キリシタンの忠三郎を伊勢に置いておくのは危険だから、会津に移せと言ったのは家康だった。

「この家康の娘を蒲生家に送り込んで、しかと監視致します。それに、会津百万石を質にとった方が宜しいのではないかな?」

 たは、たはと家康は笑った。

「質じゃと?」

「はい、最初から二万石にしてしまっては、嫌われるだけですぞ。言うこと聞かねば、二万石に減らしてしまうぞと脅せば、必ず召し出せましょう」

「ほほう、下品なことを言うものじゃ、けしからんのう」

 秀吉は家康に呆れた。

「百万石を守るため、必ず殿下のご要求に従いましょう。それが領主の務めにござる。信長公の娘たる者、必ず家臣のために義を通すでしょう」

「ふむ。二万石に減らしてからでは無理か。わしの世話になれば、もとの通りに増やしてやると、餌をちらつかせてやろうかと思ったのじゃが」

 そして、冬姫が秀吉のもとへ来たら──

(まあ、増やしてはやらんが)

「わしは不安定な会津に一揆、合戦が起こることは決して許さぬ。徳川殿がそこまで言うなら任せるが。万が一、一揆、謀叛起きた時は、そちの首も領地もないものと思え」

「はっ。では、当家と蒲生家の縁組みは?」

「許す。鶴千代の舅として、後見せい」

(徳川と蒲生を結びつけるのは危ういかの?ま、何か起これば、蒲生を潰し、家臣どもは日本国外に追放。家康の責任も追及して、徳川も一緒に潰せるわな)

 秀吉は家康の娘を鶴千代に嫁がせることを条件に、鶴千代の会津相続を認めた。

 鶴千代はこうして会津九十二万石の領主となったのである。そして、家康の娘・振姫との結婚が正式に決まった。ただ、国入りは当分先だ。

 鶴千代が幼少なので、家康ら大名だけでなく、家中にも後見的存在が要る。筆頭家老の赤座隼人こと、蒲生四郎兵衛郷安がその任にあたった。

 ただ、隼人は家中に敵が多い。そのような隼人であるから、早くも家中の雲行きが怪しくなってきた。殊に小姓衆との関係がぎくしゃくしている。

 秀吉がもう冬姫におかしなことを言ってきた。

「さぞご心痛でしょう。お慰め申し上げたいから、是非我が室にお越し下され」

というのだ。

 冬姫は確かに心痛のあまり痩せていた。小姓衆は彼女の心痛は当然だと、断るべきだと主張したが、隼人は断ることは許されないと言った。

「無礼な!」

 小姓達は憤慨して、いらぬことまで喚く始末。

「殿は毒を盛られたとも聞く。かの人、石田治部殿とも親しければ──」

と、忠三郎の死を隼人のせいではないかなどと噂しだしたのである。

 冬姫に味方する者達の言葉である。冬姫も一緒になってそれを疑っているのだろうと思ったのか、隼人はかえって強行に訴えた。

「御方様、是が非でも殿下の要求に応じて頂かねばなりませぬ。蒲生家の御ため、殿下の御もとへ。これは若殿のおん為でもございます。拒めば、若殿は改易されるやもしれませぬ」

 忠三郎は己の野望を我が子に託そうとしていた。天下に手の届く所領は確保しておかねばならないだろう。冬姫もそうは思う。

 忠三郎が家督を嗣いだ時、たった六万石の兵数一千五百だった。そこから天下を目指すのは容易なことではなかった。

 もし、彼がはじめから今の石高と兵とを持っていたなら、天下を秀吉に横から奪われることもなかったに違いない。

 鶴千代には初めから九十二万石と三万の大軍団がある。そして、どの大名よりも若い。あの忠三郎が夢を託した、忠三郎の血を受け継ぐ子。

 鶴千代ならば、忠三郎の野望を叶えられるかもしれない。

 だが。それでも──冬姫は考える。

 天下は個人のものではない。その器量の者でなければ、狙ってはならぬ。この太平ならざる難しい世を、治められる者でなければ。

 冬姫は信長の娘として、改めてそう思うのだ。冬姫が織田の血筋に拘らず、秀吉の天下を受け入れたのも、その思いがあったからだ。

 鶴千代にその器量はあるのか。

 隼人が言い募った。

「何卒、蒲生家のため、お力をお貸し下さいませ。我が子のためと思えば、ご辛抱もおできになりましょう」

「待たれよ、姫さまはご病気じゃ。今すぐにとは、あまりにも無慈悲ではないか」

 次兵衛がそう言ってくれたのだが、隼人やその取り巻きは駄目だと言った。

「酷い奴らじゃ。こやつらは、蒲生家のため、若さまのおんためと申して、その実、己の禄を守りたいだけなのでござる。もとが浪人なだけに、贅沢を知って、そこから抜け出すのが嫌になったのじゃ。このような不忠な者らのために、姫さまお一人が涙を呑まれることはありませぬ」

 次兵衛は怒った。

 だが、言い過ぎであろう。隼人もかっとなって、冬姫の前にも関わらず、声を荒げた。

「御方様、かような耄碌した老人に惑わされてはなりませぬ。亡き殿が我らと共にご苦心の上で、ようやく築かれた百万石にございます。それを守り、若殿と我らの暮らしを守るためならば、殿下のもとへ参られても、亡き殿も必ずお許しになります」

「無礼な!信長公の姫君なるぞ!」

 次兵衛は頭まで茹で蛸のように真っ赤にして、怒鳴った。

「無論、承知にござる。殿下がその下郎であられしも存じた上でのこと。だが、もう左様古いことは申しますまい」

「亡き殿とおぬしらで築き上げた百万石と申されたな」

「いかにも。次兵衛殿には蚊帳の外にて、そうは見えませなんだかな?」

 次兵衛は眦を裂いた。冬姫は慌ててその袖を引く。

「亡き殿があそこまでになられたは、勿論、殿のご苦心の賜物なれども、殿とおぬしらとの苦心とは聞き捨てならぬ。冬姫さまなくして、殿のご出世はあり申さん!」

「御方様が何をなされたか。信長公の姫君とはいえ、そのことが殿のご出世に関わったことはござらぬ。松坂十二万石、会津九十二万石と加増して下されたは、殿下。殿と我らの努力の結果。畏れながら、御方さまは何もなされておられぬ」

 聞いていて唖然となるほど、せいせいと言う。

「なんじゃとなんじゃとなんじゃとっ!!」

 次兵衛は立ち上がった。抜刀するのではないかと、冬姫はしがみつく。

「次兵衛!」

「ええい、お離し下され!」

 次兵衛は冬姫を振り切って隼人らの前に跳び、それでも抜刀を堪え、拳を握りしめて叫んだ。

「姫さまなかりせば、殿は人質じゃ!信長公の婿ゆえ、多くの大名に慕われ、殿下にも目をかけられたのじゃ!」

 ふんっと隼人は鼻を鳴らした。隼人は恐ろしく冷静な声で、冷ややかに告げた。

「殿下は不承不承にようやく若殿の会津相続をお認め下されたのです。少しでもお気に障れば、すぐに改易されましょう。左様に微妙な時期であるとお心得下さい。もし、御方さまが強情に殿下を拒まれますならば、我ら団結して、追放させて頂くことと相なりましょう。御方さまを追放すれば、殿下のお怒りのとばっちりが、蒲生家に及ぶこともございますまい」

「さほどまでに禄が大事か?」

 次兵衛は蔑み、見下した。

「大事にござる。名誉だ誇りだなどと言ってはいられませぬ」

 そして隼人は取り巻き達と揃って頭を下げ、去って行った。

 冬姫はやがて呟いた。

「……忠三郎さまは皆を愛した。見せかけの情けではなく、心から。でも、誰もあの方を愛さなかったの?」

 忠三郎は誰からも愛されなかったのか。皆、己の能力を評価されたいだけだったのか、高い知行が欲しかっただけなのか。彼はその欲求を叶えてくれる好都合な主に過ぎなかったのか。

 悲しく思われた。会津移封後に召し抱えた者はともかく、日野時代から苦楽を共にした者までもがそうだったのかと思うと。

 松坂の頃までは十分な褒美も与えられず、忠三郎が自ら風呂を焚いて──それだけで、皆感動してついて来てくれたのに。

「蒲生家の栄達に姫さまが関わっていないというならば、その栄華の維持にも姫さまが関わることはありませぬ。秀吉のもとへなぞ、まかられることもありますまい。あんな家臣どものために、姫さまお一人が犠牲になられることはありませぬ。それがし、老いぼれとはいえ、必ず姫さまをお守りしてご覧に入れまする。死ぬまでお傍にお仕え致します!」

 次兵衛は死ぬまで隠居しないと決め、さっそく秀吉からの要求を突っぱねた。

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