夢
忠三郎は数日昏々として、意識がなかった。そのため、上洛した千少庵が礼を言いに来ても、話すことは叶わなかったのである。
忠三郎が意識を取り戻した時には、すでに月も移り、二月に入っていた。いよいよ花の季節となる。
冬姫が付ききりで看病していた。
「ああ、やっとお気がつかれましたのね」
冬姫は身が崩れるようにして安堵し、彼に寄り添った。忠三郎は微笑む。
(聖マリアかと思った……)
聖母のように見えるとは、もしかしたら自分は余程大事に陥っているのではないか。
「ご気分は?」
「んん、背中が痛い……」
起きたいと言った。冬姫は迷った。だが、ややあって頷き、そっと起こしてくれた。
「何か召し上がりますか?」
忠三郎は首を横に振った。腹全体に膨満感があり、むかむかする。
「でも、白湯は召し上がった方が──」
水分だけなら摂れるか。忠三郎は頷いた。
「では、お持ちします」
冬姫は立って、自ら白湯を取りに行こうとする。だが、忠三郎を一人にしておけないので、看病のためにずっと滞在していた高山右近を呼んだ。右近は隣室に控えている。
すぐに御簾内へと入ってきた右近と入れ替わり、冬姫は厨に向かった。
「高山殿、これはご面倒をおかけしました」
右近は心配そうな顔で、傍らに座った。
不意に咳込んだ。右近が慌てて背をさすり、素早く忠三郎の口元に懐紙と、顎の下に盃をあてがった。
忠三郎はそこに少量の血を吐いた。
すぐにおさまり、忠三郎は自分で口元を拭う。
「申し訳ないが、そこの鏡を下さらんか」
右近はぎょっとしたように、
「何故、鏡をご所望か?」
「血をきれいに拭うためです」
「それなら、すっかり拭き取れている」
何故か右近は忠三郎に鏡を渡したがらない。それで察した。
「ひどいのですか、それがしの顔は──」
見たらきっと卒倒する。右近は、せっかく意識が戻った忠三郎が、顔を見た衝撃で再び気絶するのではないかと思ったのだ。
「……それがしは、治らぬのですか?……まさか……死ぬのか……?」
右近は顔の前で十字を切り、そして鏡を差し出した。忠三郎が鏡の中を覗くと──
自分ではなかった。
(死相……これが死相というものか?)
ぞっと総毛立った。自分のものであるらしい顔に、震えた。
だが、忠三郎は少しも騒がず、死んでいられないと言った。
「私は死なない!」
そして、可能な限りの声を振り絞り、人を呼んだ。すぐに侍女が飛んできた。
「北ノ方の鞠を持ってこい」
信長が嫁ぐ冬姫に贈った鞠のことである。侍女はすぐに下がった。
「私には、やらねばならぬことがある。死にませぬ」
「……」
右近は黙って鏡を片付けた。
「それとも、死ぬというのですか?」
「……それがしには、何も」
苦悶して右近は声を絞り出した。
「何事もデウスがお決めになること。我等には決められないことです」
「私はやらねばならぬのです!それとも、デウスの御意は私にはないと?デウスは私を死なせると?」
「どうなろうと、それを受け入れることです。デウスのなされることなのですから、感謝して全て受け入れるのです」
忠三郎の目には涙が滲んでいた。
(デウスの……デウスの……)
「ご意思ですか……デウスの。何故、デウスの御意は秀吉の上にあるのです、何故。日本に迫害をもたらせる?私が、私なら!日本じゅうを信仰に立ち返らせるのに!」
「そう思ってはいけませぬ。デウスが一人一人に向き合って下さるように、我々も隣人に、理不尽な主君であっても、向き合わねば。それに、この迫害は我々により強い信仰を持たせました。必ず理由あることです。あなたの運命も、全てデウスが理由あってこのようになさっているのですから、受け入れなければいけません」
忠三郎は何も言えなくなってしまった。右近の言うことは理解できる。だが、頭ではわかっていても、神に見捨てられたのだという思いがわいて、どうにもならない。
冬姫が白湯を持って戻って来た。彼女の耳にも二人のやりとりは聞こえていた。
キリシタンでない彼女には、「受け入れなさい」は「諦めなさい」に聞こえる。
「忠三郎様、お寒くありませんか?」
冬姫は温い白湯を忠三郎の口元に運んだ。
一口飲んで、その温度が体じゅうに染み渡っていくようであった。忠三郎はもう一口飲んだ。悲憤して強張っていた体が、ほぐれていく。
冬姫は右近の目が気にはなったが、忠三郎に茶碗を持たせると、そっとその体を支えた。忠三郎も冬姫に身を預ける。
先程の侍女が鞠を持参し、すぐに下がって行った。忠三郎は茶碗を置いて、鞠を手にする。
両手に包み込んだ。
「デウスの教えでこの世を包みたかった……」
右近へ向けてそう言った。
この世はこの鞠のよう。それを掌中にしているのが神なのだと、幼い冬姫に言った信長の姿が瞼に浮かぶ。
「それがしが朝鮮を賜れ、明を切り取ってご覧に入れると言った時、さぞ驚かれたでしょう?悪魔の地に、デウスの救いをとパードレ達も思っておられた筈だが、国益が絡んでいるから、そう単純なことではない。私もデウスの教えでこの世を包むべきと思う一方、国益を考え、朝鮮を所望したので。だが、デウスはそれをお許しにはならぬと見える。私にそれをおさせにならぬ」
神だけではない。家臣達の顔が次々に浮かぶ。坂源次郎に赤座隼人に。不仲の彼等でも、忠三郎の野心には一致して反対であった。
「でも。よくよく考えれば、朝鮮や明にとっては迷惑な話。日本もイスパニアもパードレ達も、彼等のことは考えもしなかった。明や朝鮮はデウスを信じない人々だが、そのような人々ならば、苦痛を与えてもよいのか、殺しても戦してもよいのか。いや!──冬様、デウスはきっとデウスを御大切に致さない者をも慈しみ、御大切に、愛して下さっているのだと思いますよ」
途中から視線を冬姫に移して微笑んだ。
全能なる神は、全能でありながら、何故全ての人間に信仰を持たせないのか。冬姫はわからないと言っていた。
「汝の神・主、そう、無数に存在する人間を、この世に一人しか存在しない者であるかのように、全ての人間に対して御大切にして下さる。だから、汝らの神ではなく、汝の神なのです」
全ての人間を神は愛している。一人の人間と唯一の神。だが、神は人間に向き合っているのに、異教徒は神を愛さないで、顔を背けている。それでも。
「デウスは愚人にも、無償の愛を下さっているのだと、私は今にして思い知りました。彼等を信仰に向かわせるためであれ、戦になることを、デウスはお望みではない。だから、イスパニアの手にもパードレ達の手にも、そして、この私の手にも、明と朝鮮を渡して下さらないのでしょう。私は明と朝鮮の人々を隣人・ポロシモだと思わなかった……己を愛するように隣人を愛せよ……ああ、知人も異教徒も敵も、見ず知らずの人も、己以外のこの世の全ての人間が隣人なのであった……」
右近は敢えて何も言わない。
異教徒にも寄り添い、彼等を殺さず、戦を起こさぬことを神は望んでいると、忠三郎はそう思うことで、運命を受け入れようとしている。
「私がそもそもあのような幻想にとらわれたのは、宝誌の予言と岐阜の名のため。幼な心に芽生えた姫氏への興味です。日本は周の末裔だから中原に帰るのだ、中原を奪うのだと。日本は百王にて滅び、無に帰す。それはデウスによる新しい世の到来を意味するのだと。そして、その新しい世を伴って、故郷の中原に聖戦する──」
忠三郎の双眸は何を見ているのか。右近にはもはやわからなかった。
「私は間違っていたのか。高山殿のように、一人ひたすら信仰を守ることをデウスは課しておられたのか……いずれにせよ私には……」
(もう時間がないようだ)
「宰相殿(忠三郎)が夢に見たことにも、理由があります。デウスが宰相殿を動かされたのですから。間違いではありますまい」
右近はそれだけ言った。後は神に祈りを捧げている。
「そうか。その夢は追ってもよかったのか」
忠三郎はまた鞠を見つめた。それを凝視したまま冬姫へ、
「鶴千代を南禅寺から呼んで下さい」
「呼んで何となさるのです?」
「この鞠をあげようと思って。良いですか?」
冬姫ははっとした。忠三郎が何を考えたのかを察して、
「いけません!」
と強く答えた。
「何故?」
「これは鶴千代君には譲りません。ええ、これは私の鞠です。私の好きにさせて頂きます」
「やれやれ」
忠三郎は苦笑した。冬姫は言い募る。
「夢はご自分で叶えるべきです」
「そうありたいが、そうはいかぬのが人生ですよ。自分の果たせなかった夢を子に託す親は、いくらでもいます」
忠三郎が諦めたように微笑すると、冬姫は強情に言い張った。
「いいえ、それは怠慢です。自分で叶えられなかった夢を子に託して、叶えてもらうなんて。まだ夢に到達していないのに、途中で放棄して、努力を投げ出して、子に代わりに叶えてもらうなんて、いけません。忠三郎さまは忠三郎さまご自身でなさって下さい」
だが、忠三郎にはもう時間がないようだ。それでも冬姫は叱咤してくれる。諦めるなと。
(ありがとう)
忠三郎は冬姫を抱き締め、額に唇を寄せた。冬姫も右近もはっとしたが、忠三郎の動きは速かった。
右近の前であっても。冬姫は瞼を閉じて身を任せた。
右近は一心に祈りを捧げていた。
(……野望は私だけのもの)
この世でやり残したまま、神のもとへ行ってしまったら、きっと悔いが残る。
その晩、忠三郎の夢の中に出てきたのは、会津の雪景色だった。そして、どうしたわけか、自分を睨む隻眼が見えた。
(政宗?何の用だ?)
伊達政宗。随分疎遠な奴がどうして自分を訪ねてくるのだろう。そう不思議に思ったところで目が覚めた。
(政宗か。私が夢が見えなくなった時に、再び夢を見させた男だったな)
翌朝、忠三郎は何事かさらさらと書き綴った。
──今でも天下が欲しいか、狙っているか。それならば、世界に目を向けてみるとよい。ローマを頼り、イスパニアを動かせば、きっと良いことがある。日本は朝鮮の水軍にさえ敗れるほど、水軍が弱い。港の守備は脆弱だ。イスパニアならば、容易に陥とせる。魂を彼等に売り渡し、彼等の僕となり、彼等に港を奪わせ、同時に国内を乱し、やがて制圧したら、天下も奪えるかもしれない。ロルテスなる者がいる。重宝するから、彼がローマから帰ったら進呈しようか。ただし、ただ一番高い所に座りたいという欲求だけでは、天下は目指して欲しくない。その座に就いた後のことも考え、日本を如何なる国にするべきか考えて、その座を目指して欲しいものだ──
くっくっと、途中から笑いがこみ上げてきた。
(なるほど、年寄りが説教くさい理由がよくわかるぞ)
遺言だ。年寄りの若者への苦言は、先が短い故に、我知らず遺言しているのに違いない。
(政宗か。何故だろうな……)
政宗に宛てて、おかしな手紙を書いた自分が可笑しかった。
「忠三郎さま?」
冬姫が病室に入ってきた。一人狂ったような笑い声をあげる忠三郎に、不安げな眼差しを向ける。
「ああ、冬さま。何でもない。高山殿は?」
「向こうにお控えです」
「お呼び頂けませんか。それから、山鹿六右衛門にも会いたい」
「かの人は会津に初めて国入りしたところです」
教会を建てに行ったのだ。
「……呼び寄せますね」
「お願いします」
とはいえ、会津の六右衛門が京に来るには、二ヶ月はかかるだろう。
忠三郎は政宗に宛てた書簡を見下ろした。
冬姫は右近を呼びに行った。
ロルテスと六右衛門の顔が浮かぶ。そして、源次郎や隼人の姿も浮かんできた。
そういえば、隼人に今月に入ってから会っていなかった。
(隼人……私をどう思うだろう?)
右近が忠三郎の傍に来て座った。その後方に、控えめに冬姫が座っている。
忠三郎はしばし物を言わなかった。
──まことに存在する神はただ一人。神はこの世の全てを創造し、人を創造した。しかし、人は自分で勝手に偶像を作り、それを神と呼んで拝んだ──
人間は罪深い。まことの神を忘れ、悪魔に従い偶像を拝み、神に逆らう。
その罪人を討ち、この世に存在する全ての人間が、神に従うようになるまで、聖戦を繰り返すことを、神は望むか。
それとも、如何なる理由であれ、人が人を殺し、戦となることを、神は許さぬか。
この世にある間の忠三郎が考え得たのは、後者であった。
(思えば、それは「武」にも通ずる。武士とは賊徒どもに立ち向かって、戦を止める者。戈を止める者を言うのであった。天下布武。天下天下と、その天下について考え過ぎたが故に、私までいつの間にか秀吉と一緒になって、「武」を忘れ──。天下の場所など、どうでもよいことであった。大事なのは布武の方、答えは「武」だったのに。だが──)
忠三郎は枕元に置いていた藤袴を手にして言った。
「実はそれがし、かの人に一服盛ったのです」
「げっ?」
右近は慌てて神に懺悔した。
藤袴は蘭。香袋に入れれば、その気高い桜に似た香りに癒される。そして、それは利尿に効果のある薬草でもある。日が当たれば尊ばれるが、隠谷にあれば人に鬱屈を与えるように、人によっては良薬になるが、人によっては毒にもなる。
「それがしはデウスに逆らう。死んでも死にきれない。だから、死は受け入れない。必ずやり遂げてから死ぬ。デウスの楽園には、パライソには行けぬでしょう」
右近は顔を上げ、忠三郎を見つめた。
「私は死にたくない!」
キリシタンにあるまじきことだと冬姫も恐れた。だが、右近はやがて静かに言った。
「そうですか……それで宜しいのだと思います」
その数日後。二月七日。
鶴千代が呼ばれた。籍姫も駆けつけた。
家族全員揃い、忠三郎は仰臥のまま、一人一人の顔を確認した。
「冬姫さま……」
冬姫を惜しむように見る眼の力はなお強い。忠三郎が伸ばしてきた手には、藤袴の香袋がある。冬姫はその香袋ごと、彼の手を握った。
「……隠谷の、蘭……」
「いいえ!」
冬姫は首を横に振る。忠三郎は幸せそうに笑った。
「蘭、か……私は、蘭……」
「はい!」
冬姫は大きく頷いた。右近が傍らで導いている。
その声に導かれながら、忠三郎はいつの間にか、神のもとへと旅立っていた。
従三位参議・蒲生忠三郎氏郷、レオ(レオン)。享年四十。
信長の霊所のある大徳寺に埋葬された。
──限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風──




