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倚蘭操(下)

「日の位置は確かに春だ」

 早く桜が咲かないものかと思った。病床周辺の香りだけは、冬姫が置いてくれる藤袴のお蔭で桜のよう。

(隠谷の蘭──まだ世に出られぬ天下人)

 早く出たい。花の季節になったら、世に出られるような気がして、忠三郎は本物の桜の開花を心待ちにしている。

 症状は悪いまま。だが、一つ面白そうな物を見つけた。

 千利休の養嗣子・少庵は、忠三郎と徳川家康の奔走の甲斐あって許された。

 それ以来、家康が忠三郎にすり寄ってきているのだ。

(なるほど、徳川殿と力合わせれば、秀吉に勝てるだろう。関東以北の地はことごとく味方につく)

 といって、家康と同心しても、事が成った時、家康が天下の座を渡してくれるかどうかは怪しい。だが、一つの有効な手ではある。

(秀吉を討った後で、徳川殿を蹴落としてしまえばよい)

 一応、秀吉の許可がなければ駄目だが、忠三郎は家康との縁組みを考えていた。

「鶴千代に徳川殿の姫を娶せられればと思っているのです。どう思われますか?」

 忠三郎は冬姫に相談した。家康の方でも、縁組みを打診してきているのだ。

 家康の狙いは謎だが、悪くはない話だ。

「忠三郎さまが徳川家と縁組みすべきと判断されたなら、それで間違いないと存じます」

 忠三郎の決めたことに誤りはないと冬姫は信じている。

 それに、日本全国数ある大名の中でも、徳川家は冬姫にとって身近な存在だ。家康は冬姫が物心ついた頃からの信長の同盟者で、信長とは最も古い付き合いである。

 それに、家康は幼い頃から信長とは知己を得ていたという。信長は時に家康に対して気の毒な態度を取りもしたが、家康は終生変わらず付いてきていた。

 家康の亡き嫡男・信康には冬姫の姉・徳姫(五徳)が嫁いでいた。徳姫は娘を二人産み、その子たちは家康の手元で大切に育てられた。

 冬姫には家康は身近なのだ。忠三郎は小牧の戦で秀吉に味方したし、家康は遠い存在なのかもしれないが。

「そうですか。御身が反対でないなら、進めてみましょう」

 忠三郎は家康の伏見の屋敷を訪ねて行った。

「これはすまんことをした。わしの方から訪ねるべきだったの」

 家康は病身の忠三郎を案じて詫びた。

「お気になさらず。それがしも伏見に屋敷はございます」

「ううむ、だが、随分痩せられた。どのようなご病状か?」

「少々だるいだけです」

 実は瀬田掃部の茶会以降、下血していた。だるいのは貧血のせいだろう。

「まだお若いのに、しゃんとして下さらねば困るぞ」

 家康は忠三郎が医師の治療を喜ばぬことも、どうも下血しているらしいということも、話に聞いていた。

「薬草臭い筈が、良い香りをさせて。不養生の証拠じゃ」

「ああ、これですか。桜が恋しくて──」

 忠三郎は袂に忍ばせていた香袋を出して見せた。藤袴が入っている。

 家康はほほうと言った。

「これも薬草です」

「確かに。じゃが、娘を託すことになるかもしれぬお人には、やはり養生して頂きたいもの」

 死なれては困ると家康は半分真顔で、冗談めかす。

「そのことですが。実は是非、徳川殿と当家との縁組み、宜しくお願い致したく、今日は参りましたる次第です」

「おお、まことか。我が家のじゃじゃ馬を若君は貰うて下さいますか!」

 家康は破顔して、さっそく秀吉に申請すると言った。

「ただの、我が娘はちと勝ち気での。それに多分、鶴千代殿より年上ではないかの。それでも宜しいか?」

「勝ち気なくらいが望ましゅうございますな」

 忠三郎は笑って答えた。鶴千代の相手がただの手弱女では困る。二つ三つ年上なことくらい気にもならない。

「まあ、あのくらいの年の頃というのは、二つ三つ違うだけで、まるで大人と子供のようだが──姫が倅に物足りなく思われなければ、こちらとしては一向に構いませぬ」

「それはよかった。だが、もうひとつ」

「まだ何か?」

「鶴千代殿には、母上を見慣れて、我が娘の容貌に不満を持たれはせぬかと。決して器量が悪いわけではござらぬぞ。ただ、貴殿の北の方様がお綺麗過ぎるだけで──」

「はははは、何を仰せかと思えば。女は顔が佳いにこしたことはなかろうが、過ぎるのもよくありませぬ」

 忠三郎は家康がおかしなことを気にするものだと思った。

「左様か。ま、貴殿は北の方様のご器量では悩み多いと聞く故、左様思われるのやもしれぬな」

 家康は、秀吉の、前の蒲生伏見屋敷訪問の折のことを言っているらしかった。あの折の秀吉の言葉が噂になっていた。

「太閤殿下は蒲生殿にご内室を寄越せと仰せになったそうな」

 大名の間でそのように囁かれていたが、尾ひれがついて、

「蒲生殿は断じて許さずとて、三条殿、三の丸殿のお二方を代わりに差し出したのだ」

という話にまでなっている。

 三の丸殿とは、秀吉の新しい側室で、伏見城に住んでいるのだが、彼女は信長の娘だった。太閤とはいえ、信長の家臣だった者も多数仕えている手前、主君の、それも大臣家の姫君を側室にするのも憚られ、秀吉は彼女を忠三郎の養女という身分にして側室にした。

「貴殿の病まで、そのせいにされておるぞ。貴殿が北の方様を献上せずに、他の女人で誤魔化してばかりいるから、殿下が怒って、貴殿に毒を食わせたのだとよ。貴殿を殺して、北の方様を手に入れるつもりだと」

 知らぬは本人ばかりか。とんでもない噂が広がっている。

「馬鹿な……」

 しかし、忠三郎は笑えなかった。

「したが、根も葉もないことでもなかろう?」

 忠三郎が色を失っているのを見て家康は、秀吉が本当に冬姫を寄越せと言ったのだろうと思った。その欲求を躱すために、忠三郎は自身の妹を側室に差し出した。だが、そのような誤魔化しでは秀吉は納得せず、さらに冬姫を要求してきたから、今度は織田家の、信長の実の娘を身代わりとして差し出したのではないか。

 しかし、そこは秀吉。その好色、淫乱ばかりが理由ではあるまい。この忠三郎ほどの男の二心を疑ってのことであろうと、家康は確信する。

「貴殿も心当たりがあるのでござろう。それ故、殿下の医師を拒まれるのであろう」

「……さような、わけでは──」

「まあ、いい。貴殿の反骨を殿下が憎まれるも事実。あまり逆らわれますな。せっかく遣わして下さる医師を、拒んではなりませんぞ」

 若いのだから、焦るなと言った。協力者を大事にしたい。家康はそう言いたいのではないか。

「殿下はもう年だし、最近は病に悩まされている。失禁までなさり、有馬へ湯治に行かれたが──」

 そこで思い出したように、家康は忠三郎の香袋を見た。

「秋に貴殿の屋敷へ渡られた日に失禁なさった。あの日、貴殿は桜湯を差し上げたであろう?侍医が診ればわかってしまうことぞ。よくないのう」

 桜に似た香りを漂わせる香袋から視線を外す。忠三郎ははっとした。

「何を焦る。貴殿はいつから短慮になった?時間はかかるものなのだ、じっくりと行こうよ。まあ、貴殿の短慮な奸策の効果で、殿下の評判は落ちてはいるがな」

 忠三郎はぞっとした。香袋を袂に隠すようにしまい入れた。


 その日の午後、伏見の自邸に帰宅した忠三郎は、一気にげっそりした。夕方、高山右近が訪ねてきたが、あまり長居せずに帰って行った。

 夜になって、秀吉のもとから侍医が遣わされてきた。家康の忠告もあり、迎え入れると、侍医は背中を強く押したり、腹に触れたり、忠三郎の体をあちこち調べていった。その場では投薬せず、後で飲めと薬を置いて、しばらくして帰って行った。

 その直後、忠三郎は違和感に襲われた。これは以前にも一度経験のある感覚で、その症状が何だったか思い至った時、腹の底から稲妻が突き抜けた。抑えの利かない衝撃は口を突き破り。

 反射的に口にあてがった手の指の隙間から、熱い紅蓮が零れ落ちた。

 周囲が暗く、耳にざあっと音が響いて、全身汗に濡れ。

(だめだ!)

 意識が遠のくのに死に物狂いで抗ったが、そのまま正体なしに陥ってしまったのである。

 刹那、寝覚めの床の三帰りの翁が、秘薬を差し出しているのが見えた。

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